コーリン・チャップマンが興したロータス社は、モデル番号を1番から生産順に付していました。 25番目のモデルは1962年に登場したF1レーサーLotus 25です。 それまで車体構造は軽量化のためスペース・フレーム(細い金属パイプを溶接して鳥カゴ状にしたもの)が常識でしたが、Lotus 25はモノコック(一体化による軽量・硬強)構造を初めて導入した革命的なマシンでした。 車重軽減がマシン性能で第一優先する考え方から、搭載するエンジンは軽量かつ信頼性の高いコベントリー・クライマックス(消火ポンプ用エンジンメーカー)が採用されていました。 フロントサスペンションのコイルスプリングやショックアブソーバーはインボードに納め空気抵抗を低め、低くスマートなすっきりとしたボディの美しさに衝撃を受けました。 煮詰められた性能はそのボディ・スタイルの美しさに帰結しています。 このマシンを設計したコーリンチャップマンはその後F1フィールドで不動の地位を築くことになりました。 この天才エンジニアはさらにスコットランド出身の羊農夫:ジム・クラークを見出しました。 名「駿馬・調教師・ジョッキー」は三位一体となり当時のF1界に華々しい実績を残しました。 ポール・ポジションからファーステスト・ラップを連発したり、2位以下を全て周回遅れにする走りで、ニックネームを「フライング・スコット」と名付けられました。生涯2位が一度だけ、車が壊れなければ優勝確実の実力を持っていました。 当時F1レースはテレビの放送は無く、数ヶ月遅れの自動車雑誌でジム・クラークの活躍を読みあさったものです。 私には、天才アイルトン・セナは彼の生まれ変わりのような印象を強く感じてなりません。 そして エンジン排気量が1.5リッターから3リッターに代わり、経済的理由からボディーカラーがナショナル・カラー(英国はグリーン、イタリヤは赤、日本は白、フランスは青)からスポンサーのカラーやロゴに代わるF1の変革期にさしかかった1968年4月7日にドイツ・ホッケンハイムのF2レースの事故で亡くなり、死後1ヶ月間ロータスは市販車のエンブレムを伝統の黄/緑のロータスカラーを黒に換えて彼の死を弔いました。 彼は1960年にF1に参入して以来他のチームには一度も移籍せず生涯をロータスに捧げました。 神様は「天才は夭逝するという言葉」をジム・クラークも例外にしてくれませんでした。 最後にLotusは英語で「蓮の花」を意味しますが、ギリシア神話では「実を食べれば世の苦を忘れる」架空の花だそうです。 <通算成績> 当時のレース開催回数は現在より遙かに少なく年間10レースほどであった 出走回数:72回 1963、1965年度チャンピオン 優勝:25回 PP:33回 獲得ポイント:274 完走:49回 |