戦うライオン、デニー友刺

                 
「ピッチャー、デニー。背番号36。」
 場内アナウンスで投手交代が告げられると、その男はブルペン (投球練習場)から全
力疾走でマウンドにかけ登る。そして、191cm・88 kgの大きな体をいっぱいに使った、
サイドスローのダイナミックなフォームから、150キロ近い直球とするどく流れ落ちるス
ライダーをビシビシ投げこむ。打者を打ち取り、チームのピンチを救うと、派手なガッツ
ポーズに勝利のおたけぴ。一転して、男は帽子を取ってスコアポードに感謝の一礼。
再びかけ足でベンチにもどってゆく。          
 プロ野球・西武ライオンズ、デニー友利選手、33才。今シーズンがプロ生活15年日の
ベテランだが、まさにライオンのたてがみを思わせる後ろがみをなびかせ、気迫あふれる
投球で相手打者に立ち向かうすがたは、新人投手のようにわかわかしく、また野球をする
喜びに満ち満ちている。

 それもそのはず。今でこそ「中継ぎのエース」とよばれ、試合の流れを決める大事な場
面に数多く登場するデ二−選手だが、かれが一軍のマウンドで活躍できるようになったの
は、横浜べイスターズからライオンズに移籍した、ほんの1年前からのことなのだ。

 もっとも、デニ−選手本人にしてみれば、走ってマウンドに向かうのは、プロに入って
からずっと変わらない、自分本来のスタイルなのだと言う。

「ゆっくり歩いていって、その間に投球の組み立てを考えるピッチャーもいます。だけ
 ど、ぽくは深く考えずに当たってくだけろという気持ちで、自信のある球をどんどん
  投げこんでいくだけなので、勢いをつけて行くんです。そもそもぽくはそういう野球
  を教えられてきましたから、このままずっとこのスタイルを続ける思います。」

 今、西武ドームで行われるライオンズのホームゲームでは、そんなデニー選手をスタン
ドの一画から、おそらくほかのどの観客よりもキラキラとかがやいた日で見つめている少
年少女がいる。デ二−選手が、「デニーズ・シート』 と名づけた指定席にお母さんといっ
しよに招待した、母子家庭の子どむたちだ。
 ふるさとの沖縄で教わった全力疾走、全力投球の野球。デ二−選手がその野球を始めた
のは、ちょうどデ二−・シートの少年少女たちと同じくらいの年の、小学校6年生のと
きだった

お母さんが始めせてくれた野球

 デ二−友利選手は、本名を友利結という。だが、デニーは単なるニックネームではない。
かれがアメリカ人だったときの名前なのだ。
1967年9月21日に沖縄県浦添市で生まれたデニー選手のお父さんはアメリカ人。だ
から、デニー選手は日米のハーフだ。デニー選手が2才のときだった。お父さとお母さん
が離婚。お姉さんをお母さんが引き取り、デ二−選手はお父さんに引き取られた。そのと
き、デ二−選手はアメリカ人になったのだ。

 ところが、お父さんは何か困ったことがあると、おさないデニーをお母さんに預けに来
る。そういうことがたび重なると、やはり父親が子どもを育てるのは無理だという話にな
り、結局デニーもお母さんに引き取られた。そして、物心つくころには、お母さんとお姉
さんと『結』と名前の変わったデ二−少年3人の、新しい「母子家庭」になっていた。

 アメリカ軍の基地のある沖縄では、デ二−

選手のようなケースの家庭はめずらしくなく, 友利家の3人は、母子家庭を援助する浦添
市の施設に入った。
 施設では、4畳半と3畳の部屋のある長屋風の住居が、月2500円という安い家賃で
借りることができた。また、そこには保母さんがいて、お母さんたちが働きに出ている間、
代わりに、残されたおさない子どもたちのめんどうをみてくれた。
「ぽくたち姉弟は、保母さんに育てられたようなものです。」
 と、デニー選手はふり返るが、お母さんの苦労も子ども心にしっかり感じとっていた。
 お母さんが仕事から帰ってくる夕方6時ま
でに、お米をとぎ、お湯をわかす。晩ごはんのおかずは作れないけれど、食事の下準備な
らできる。つかれて帰ってくるお母さんの家事の負担を少しでも減らそうと、お姉さんと
ニ人、毎日、自分たちのできるかぎりのことは手伝った。それが当たり前のことだと思っ
ていた。小学校に上がってクラスメートたちの家庭の話を聞くまでは…。
 小学生になっても、お母さんの収入が増えるでもなく、貧しい生活は続いた。
 だから5年生のときに、友達に体格のよさと球の速さを見こまれて、いっしょに野球
をしようとさそわれたとき、デ二−少年には、ユニフォームも、グローブやバットなどの
道具も、何もなかった。それどころか、野球そのものに関わりを持たずにくらしてきたた
めルールさえ知らなかった。
 何度か友達にユニフォームや道具を借りて参加したものの、やっぱり自分の道具がほし
くなった。それで、家の経済状態はよくわかっていたデ二−少年だったが、ある日、思い
きってお母さんにたのんでみた。「母さん、野球の道具買ってくれない?」
 すると、お母さんはこう言った。
「もう1年だけ、がまんして待っていてね。」そう。お母さんは、自分のグローブで野球
をしてみたいという、息子のささやかな望みに気づいていて、苦しい家計の中からコツコ
ツお金を貯めていてくれたのだ。
 −年後、6年生になって待望のグローブとユニフォームを手にした日の喜びを、デニー
選手は今でもわすれられない。
「ものすごく、うれしかったですね。野球ができるというより、これから友達と同じこ
  とをして遊べるといううれしさですね。」
 その後、中学生になっても野球に明けくれ
たデ二−少年は、めきめきピッチャーとしての才能を現していった。その素質は、やがて
県下の野球名門校、興南高校野球部監督の目に止まることになる。
 監督が言うには、野球部に入るなら学費免除(授業料がいらない)で推薦入学できると
のこと。思いもよらない申し出に、事情がよくのみこめなかったデニー少年も「学費免除」
という言葉にひかれて、入学を決意した。そのとき、お母さんは、こう念をおしたという。
「高校に行くのはいいけど、野球をやめたら 学費をはらわなきゃいけないんだから、が
 んばって続けるのよ。」

鳴かず飛ばずの大洋・横浜時代

 ひたすら甲子園出場を目指した高校時代。デニー選手の在学中、興南高校は夏の大会で
3年連続して、ライバル校の沖縄水産高校に地方大会の決勝で敗退。おしくも甲子園出場
は果たせなかったものの、デ二−選手には、高2で早くもプロのスカウトが見に来るよう
になった。プロ野球選手になる夢が、いよいよ現実味を帯びてきた。
 そしてむかえた1986年秋のプロ野球ドラフト会議。デニー選手は、大洋ホエールズ
(現・横浜ベイスターズ)に一位で指名されて、入団の契約をした。沖縄県出身の選手が
セ・リーグの球団にドラフト一位で指名されるのは、史上初の快挙だった。
 さて、プロ入りを間近にひかえたデニー選手がえがいた青写真といえば、「3年ぐらい一
生懸命練習して力をつければ、 一軍で活躍できるようになるだろう。そして、早く母さ
んを楽にさせたい。」 ところが、いざ飛びこんだプロの世界はそんなにあまくはなかった。
初めて練習に参加

 したときだった.自分の球は相当速いと自信があったのに、ものすごくおじさんに見えた
15才も年上のベテラン投手たちが、自分より速い球をビュンビュン投げている。たちまち
自情喪失。デニー選手の言葉をそのまま借りれば、「入った瞬間にダメだと思った」。、
 現実に、成績の方もまったくあがらない。1年目の1987年。期待の大型ルーキー
友利は3度の1軍登板の機会をあたえられたが、投球回3回で4四死球と、好結果が出せ
ず2軍に逆もどり。2年目からの4年間は、−軍での登板機会
はゼロ。長い2軍ぐらしが続いた。プロ入りしたときに思いえがいていた、−軍定着まで
の3年間はとっくに過ぎていた。6年目の1992年。ひさぴさにめぐって
きた1軍登板のチャンスに、デ二−選手はわずか1回3分の2の投球回で、5つの四死球
を乱発。5点をあたえてしまった。このシーズン、チャンスは二度とめぐつてこなかった。
1993年に、チーム名が大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わっても、デニー選
手が生まれ変わることはなかった。その後も、毎年球団から期待されながら、
好結果を出せない。いつしかデ二−選手には、「コントロールが悪い」「化けそうで化けない
(大きく飛躍しそうでしない)」という評価が定まってしまった。ポールカウントが0−2
になっただけで、四球を出すんじゃないかと交代させられることもあった。結果が出る前
の交代…。デニー選手はどんどん自信をなくしていった。年々、チャンスは自分の思うよ
うにあたえてもらえなくなった。しかし、それも仕方のないことなのだ。ド
ラフト一位とはいえ、それはもう何年も前のこと。毎年毎年ドラフト1位を始め、有望な
新人投手が入団してくるわけだし、よりフレッシュな選手により多くのチャンスがあたえ
 
られるのはプロスポーツの宿命なのだ。実際、デ二−選手自身、新人のころは十分なチャン
スをあたえられた。そのチャンスをものにできなかったのは自分の責任なのだから。
 コントロールの悪さを直すため、オーバースローからサイドスロIにフォームを改造し
たもののさほど効果は上がらず、気がつけば、芽が出ないまま10年もの年月が経っていた。
 そんな日々を、いったいデ二−選手はどんな気持ちで過ごしていたのだろう? デ二−
選手は当時を思い起こして言う。「何度ももう無理だと思いました。でも、こ
のままじゃ終われない。これで沖縄に帰るわけにはいかない。絶対素質があってこの
世界に入ってきたのだから、一生懸命やっていれば、きっとどこかでだれかが見て
 いてくれるはずだ。どうにかなるはずだ。あきらめちゃいけないと。だから…。

 だから、プロ生活10年を過ごし30才になろうという区切りの1987年、デ二−選手は
このままで終わらないために、環境を変えなければいけないと考えた。
「お願いです! 今みたいに使ってもらえないのなら、ぽくをトレードに出してくださ
 い。投げられるところなら、アメリカでも台湾でもどこへでも行きます!」
 デ二−選手は球団に強くうったえた。まだデニー選手に対する期待を捨てていな
い球団サイドは、なかなか希望をみとめてくれなかったが、5回、6回とねばり強く話し
合いを重ねた結果、デ二−選手の決意はくつがえらないと見て、ついにトレード先をさが
すことを約束してくれた。そして、縁があってまとまったトレード話
によって、デニー選手は、パ・リーグの西武ライオンズに移籍することとなった。
 デニー選手の大洋・横浜時代10年間の1軍通算成績は、46試合に登板し、2勝8敗1セ
ーブ。先発型ピッチャーの成績としては、本人の言う通り「クビにならなかったのが不思
議なくらい」の数字である。西武への移籍がデニーを変えた
 新天地ライオンズでの一年目となった1997年のシーズン、デ二−選手は2軍で開幕
をむかえた。だが暖かくなるにつれてぐんぐん調子を上げ、5月には1軍に昇格した。
 このとき、いまだコントロールに不安をかかえるデ二−選手に、東尾監督はこうアドバ
イスしたという。
「おまえのコントロールの悪さを武器にしろ。ストライクゾーン目がけて思いっきり速い
球を放りこめ。そうすれば、適当にいろんなコースにポールが散って、それだけでバ
ッターはこわがるんだから。」
 さすがはピッチャー出身の監督だと思った。ピッチャーの心理をはくわかっている。その
うえ、東尾監督という人は、横浜時代のデニ−選手のことは少しも考えに入れず、頭を真
っ白な状態にして、西武ライオッズの貴重な戦力としてのみ、デニー選手を見てくれた。
「監督の言葉に、自分が期待されている、必要とされているということが感じられて、
 いっペんに気が薬になりましたね。」 デニー選手は、先発にはこだわらず、どん
な場面でも声がかかれば喜んで投げ続けた。−軍のマウンドをふんで投げられるだけで幸
せだった。すると、初めのころは、チームが大差で負けている場面での、いわば敗戦処理
だったのが、きっちり自分の仕事しているう

ちに、だんだんと大事な場面で起用されるようになった。中継ぎへの昇格だ。
 そして、わすれもしない8月14日福岡ドームでの試合がおとずれた。対戦相手は、重量
打線をほこる福岡ダイエーホークス。 試合は一点を争う展開が続き、最終8回の
表のライオンズの攻撃が終わって、2対2の同点。その裏のホークスの攻撃を0点におさ
えれば延長戦に入り、ライオンズにも勝つチヤンスが残る。しかし、−点でも取られたら、
サヨナラ負けだ。そんな緊迫する場面に東尾監督が送りこんだピッチャーの名は…
「ピッチャーデ二−。背番号36」デ二−選手は一瞬耳を疑った。このころに
は中継ぎとして大事な場面で使われるようになってはいたが、これほど大事な、試合の決
まる終盤に使われるのは初めてだ。しかもホークスの打順は、小久保、城島、吉永と、
重量打線の中にあっても最もおそろしい強打者たちが続く。
 無我夢中で投げた結果は三者凡退。どよめくスタンドの歓声に、デニー選手は体中がし
ぴれるような感動を覚えた。そのうえ、延長10回の表に味方打線が決勝点をあげたため、
デニー選手には、ライオンズ移籍後初勝利のおまけまでついてきた。
記録は後からついてくる。セーブポイトはつかず、勝ち星もつかないことの多い中継ぎという役割に
転向してからデニ−選手がロぐせのように言う言葉だ。「勝利投手になったのもうれしかったけれど、
 あの大事な場面に、監督はぼくを出してくれた。それが何よりうれしくて…。あの試
 合がきっかけになって、中継ぎの仕事にやりがいを感じるようになりました。監督は
 いつもぽくを見ていて、ばくの力を信じ使ってくれたんだと思います。東尾監督には、
 胱批のひとことですね。」このシーズン、西武ライオンズは見事パ・
り−グを制覇。デニー選手にとっても、31試合に登板し4勝をあげるという、プロ野球生
活最高のシーズンとなった。デニー選手は、ついに「大化け」したのだ。
 セ・リーグの覇者ヤクルトとの日本シリーズは、1勝4敗で敗れ日本一達成はならなか
ったが、デニー選手はチーム最多の4試合に登板。4回3分の2を無失点におさえこんだ。

夢に感謝.デニーズ・シートの誕生

「ぽく自身は横浜時代と何も変わっていなんです。ただちがうのは、使ってもらっ
 いるということだけです。」 西武ライオンズに移籍したとたん、人が変
わったように活躍しだしたデニー選手は、よくこう言って自分の変身を否定する。
 しかし、実はデニー選手は、ライオンズに入ってから、日々フォーム改良のための研究
と工夫の努力を続けていたのだ。というのも、ライオンズには、大ベテラン
の鹿取投手、エース潮時投手という、デニー選手にとってよいお手本となる二人のサイド
スローの一流ピッチャーがいたからだ。「確かに、鹿取さんと潮崎はいい教材になり
 ました。といっても、直接本人にたずねる わけにもいかないので、だまってじっと
 観察して、ごこはこうか、あそこはああだな と、いろいろ研究しましたね。」
 やがて、そんなデ二−選手の熱心なすがたに二人も心打たれて、潮崎投手は得意球のシ
ンカーのにぎりを教えてくれた。現役を引退して巨人のコーチに就任することが決まった
鹿取投手は、チームを去る前に足の上げ下ろしについて、事細かに指導してくれた。
 また、潮崎投手からは、すばらしいアイアももらった。それは、潮崎投手が (高木大

成選手も)西武ドームの年間予約席を2席購入して、経済的にめぐまれない子どもたちを
野球観戦に招待しているという詰だった。「これだ!」とデニー選手は思った自分が
ここまでやってこられたことに、いつか何かの形で恩返ししたいと思い続けてきた。その
答えがそこにあった。
デ二−選手には、まず、母子家庭という困難な状況の中で野球選手になる夢透見させて
くれた、お母さんへの感謝の気持ちがあった。だから、自分は母子家庭の親子を招待しよう
と決めた。招待するのは、自分がプロ野球選手として花開いた西武ライオンズの本拠地所
沢市に住む親子。そうすることて自分をここまで支えてくれた多くの人たちへの感謝の
気持ちを表すことにした。
招待席の名前は「デニーの席」という意味の 『デ二ーズ・シート』とつけた。場所は、
ー塁側のもっとも野球がよく見える位置の2席を選んだ。その位置からだとデ二−選手が
投球練習を行うブルペンはかげになって見えないが、デ二ー選手は自分のすがたをよく見
てほしいわけではなく、あくまでも野球そのものを楽しんでほしいのだと言う。
「ぽくも母子家庭で育ったからわかるんですが、野球観戦どころか、規子で出かけるこ
とじたいほとんどないんです。だから、.子どもたちには、この機会に、たとえ一日で
 も、野球をはだで感じて楽しんではしいで

 すね。そして、わが子の喜んでるすがたをお母さんに見てもらえたら、それでいいな
 と思っています。」そうして十分野球観戦を楽しんだ子どもた
ちからは、デニー選手あてにたくさんの手紙がよせられる。
《デ二−さんのことをお父さんだと思っちゃいます。》
《ばくも大きくなったら、デ二−選手みたいなプロ野球選手になりたいです。》
《デ二−選手、ありがとう。》などなど。
 多くの手紙にそえられているのが、「がんばってください!」のメッセージ。
それが今度は、デ二−選手のはげみになる。
「本当にデニーズ・シートを始めてよかったなと思いますね。それに、できればきっちり打ち取って、
招待した子どもたちにいいところも見せたいし。lてういう意味でも、はげみになってますね。」

今年の目標は日本一達成して‥・
 1998年のシーズン、デニー選手は、調子の出ないストッパーの森投手に代わってお
さえの仕事も務めるなど、中継ぎにおさえにフル回転。全試合数の4割近い53試合に登板
し、7勝8セーブ (15セーブポイント)をあげる大活躍で、西武ライオンズの2年連
続り−グ優勝に貢献した。そして、この年の日本シリーズの相手は、
なんと、デニー選手の古巣の横浜ベイスターズだった。
「メンバーのはとんどが昔の仲間だし、複雑な気持ちでした。それに、横浜のフアンは
 結構キッいですから『横浜で働かないで、西武でだけ働きやがって』なんていうキッ
 いヤジが飛ぶのも覚悟していたんです。」
 ところが、相手のホーム球場である横浜スタジアムで出番がめぐってきたとき、マウン
ドに向かうデニー選手に送られた声は「デニー! デ二−!!」
という、敵味方関係なくわき起こったデニーコールだった。
 このとき、デ二−選手は改めて、芽の出なかった横浜時代に「だれかが見ていてくれる
はずだ」と信じてがんばった自分の考えが、まちがいではなかったことを知った。横浜の
フアンは活躍できない自分を、やはり温かい目で見守っていてくれたんだ。そして今、日
本シリーズという大舞台に立つまでに成長した自分を祝福してくれているんだと。
 だが、シリーズの結果は、2勝4放とまたしても敗北。念願の日本一は成らなかった。
 その後、1999年、2000年と、ライオンズはり−グ優勝ものがしている。だから、
デニー選手の今年の目標は、リーグ優勝は当然として、自分自身は経験したことのない、
その上の日本一を達成することだ。
 さらに違い目標を、デ二−選手はこう語る。
「ぼくの目標はただlつ。できるかぎり長く現役生活を続けることです。同年代の清原
 選手や桑田選手には、成績では絶対勝てないですから。『あいつ、まだやってたの?』
 と言われるくらい投げ続けたいですね。」
 では、デ二−ズ・シートは?もちろん、ユニフォームを着ているかぎり続けるそうだ。
年間予約席なので、デニーズ・シートはファミリー・レストランのように年中無休。中継
ぎのエースとして毎試合ベンチに入るデ二−選手も年中無休。デニ−選手は今日も、西武
ドームに観戦におとずれた親子のうれしそうな笑顔を思いうかべてそっとつぶやく。
  − デニーズ・シートヘようこそー。