ところが、何事についても本音で話す彼女の本分が日本ではなかなか、理解されないことが二度三度出会いを重ねた人たちの態度の変化で悟ったのである。自分に原因があるのは、解ったのだけれど、どう対応したらいいか、わからないまま鬱々とした日々をすごしていた。そんなころ、S生命の先輩に連れられて会社の事務所にこられたのである。 私は、9歳まで、中国の吉林、北京、瀋陽と父親が外務省関係だったので移り住んだ経験をもっていたので彼女との会話の中で中国のなつかしい食べ物の名前が次々と口を突いて出てきた。彼女は久々に中国を知っている人間に出会って、しばし、ほっとしていたようだ。それから幾日かして、彼女はまた事務所にやって来た。そのときは一人だった。 その時鬱々としている状況を話し出したのであった。私も日本に帰ってまもなくの頃疎外感をもっていたことを話すと、急に涙を落とした。そして彼女の一人息子当時6歳と私の少年時代と同じだと言い,その後も折に触れそのことを口にした。それから家族ぐるみのおつきあいがはじまった。あれから11年、日本においても、一粒の麦が、ふたつ、みっつと次々芽を出し育っていった。 特に私は李璞を通して中国各地に既知を得た。中でも黒龍江省哈尓濱においては総勢二万人以上の企業集団との間に強い信頼関係が生まれたこと。中国では古くから、まず友達になる、友達になったら仕事をする。信頼関係がなければ仕事はできない。道理である。 そもそも私が中国に行くようになったきっかけは仕事が目的ではなかった。本業の関係上吉林人参チップスの輸入だけでほかには全くなかった。李璞の故郷が哈尓濱で彼の勧めがあったこと、私が吉林、中国東北部で生まれたこと、最も大きな理由は中国には12億人の民がいること。 |
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