「ある研修の思い出」



 1987年ごろ可能力開発の研修を8日間缶詰めにされ、外部連絡も一切禁止の中で受けたことがあった。8日間×3回で修行僧の3年間に相当する部分を習得するという建前だった。参加者は23名、経営者や、銀行の支店長は少数派、ほとんどはアパレル産業の営業幹部、新進美容チェーン組織の幹部とその卵たちでみな若かった。総勢23名が3グループに分かれ、最初の研修が始まる、自己紹介もなかったように記憶している。

 最初のプログラムはグループ8名がそれぞれ一名につき20の欠点をリスト表に書き出すことを課題として与えられた。これまで一面識もない者同士のそれぞれが、それぞれに対して欠点のみを書き出して、それぞれに面詰していくのである。

 そときの私の年齢は50歳代の初めだった。小とはいえゼロから業を起こした経験から学んだことは人間性のいい面を見出すことの重要性を肌身で感じていたから、そんな無責任でしかもこのうえなく失礼なことはできないと講師に面詰したところ、その理由を探ることが今回の研修の重要なポイントだといわれた。対比論や比較論をこえたところに自分探しの旅が主題であることをなんとなくそう理解するしかなかった。

 そしてほどなくして、決定的なひとつの事柄を学んだ。なぜ他人の欠点を人間は面詰できないか、自分が優しいからか、自分は少しはましな存在だからか。とんでもない。面詰できない理由は、ただ一つ、人に悪く思われたくないと思う心がそうさせているということなのだ。人間は無意識のうちにも自己保身の心が働く生き物でもあるのだ。同時に人間とは平時にはたいていなんとなく曖昧の中でものをみている生き物でもある。だから、面と向かって面詰するほどの論拠を持ち合わせていない。持ち合わせるほどの厳しさの中でものを見てはいないと断じざるを得ないとも思った。


 また、多くの欠点を他人に見出すことは、自分にもそれだけ欠点があるからにほかならないことを改めて再確認をする機会ともなった。風変わりな研修だったが得ることは多かったと思っている。

 他人は自己を写す鏡。原因と結果はすべて己に起因することに基軸を徹底しておくようになったのもこのころからだ。講師が研修の期間中に私に山本周五郎の作品を読むといいと言った。山本周五郎の作品はすべて会話のやり取りで成り立っているというのだ。講師がなぜ私にこんなことをいったのか、本当の理由を今では知ることは出来ないが、およそ、本を沢山読むということを知ってのことだと思う。本を沢山読むことはいいことだが、本を読むことによって本の呪縛にあう。読んだ本の型にはまり動きがとれなくなると言いたかったのだろう。

  私にはそう思うところは微塵もない。本を読むからこそ私の人生はあるのだと思っている。論争はともかくとして山本周五郎の本を読むように心がけた。物語は確かに会話のやりとりによって心情の深い部分の余韻を読者の心に推測させる広さがあった。形式的な人間の関わりではなく、どうにもならない中にあっての、人間のさまざまなありかたに目を向けていることを改めてしるきかいともなった。

 研修は続いた…。少年時代に戻る。遠い過去の旅路をたどった。そして2回3回と、より幼い日に戻るのだと言う。2回、3回は受けずじまいだった。