「子供には苦労させたくない」


  1969年6月満33才を目前にして、8年以上勤めたペプシコーラのスーパーバイザーの職を辞し最初の独立をした。これからの時代ペットは、子供たちの情操教育に役立つと考え特に犬の販売を目的に事業を開始した。
 
   最初の3ヵ月間は、なぜ独立など考えてしまったのか正直言って悔やんだ。しかし後の祭り、事業を前進させる以外に道のないことを改めて悟るしかなかった。今思うと独立して、逃場のないところに立たされて初めて、雇用されて業務の一翼を担うのと、全ての責任が自分にかかる立場では、重圧の上でこんなにも差があることを今更のように思い知らされた。

 自分の意志で独立したとは言え、より厳しい環境に自ら追い込んだ形になった。
19歳のときに営業で立つことを心に決めてから、いつか独立したいと思っていた私にとって、ペプシコーラはじめ縁があった仕事の場はいつも学びの場所だった。勿論生活の糧を得ることが第一の目的だが、常にいい仕事をするにはどうしたらいいかを考えた。仕事を学ばせてもらって給料が貰える。心からあり難いことだと捉えていた。そんな考え方でいたから仕事にはいつも意義を見出すことが出来た。一時期上司との関係が悪くなった時があったが、危機が新しい突破口をつくる機会であることも学んだ。たとえどんなに今恵まれた立場いたとしても、執着しないほうがいいと思った。岐路に立された時には敢えて損に見える道に活路を求めた。捨てる覚悟をすることで新しい気力も湧いた。ペプシコーラのルート担当者なら誰もが憧れる、栄えあるY―1という伊勢崎町を中心とする担当ルートを自分から退いて、Y―26 鶴見を中心とする田舎ルート担当を希望することは、周りの目には奇異に映っていた。鶴見を田舎などと言ってはお叱りをうけるかもしれないが、当時の同僚たちの目にはそう映っていたのだろう。ルートが変わって顧客台帳に基づいて訪問していく。「ペプシさん?あーいらない、いらない、もう取引はしないから、わるいけど空瓶をもって帰ってくれる」というお客さんばかりだった長期間の無訪問で、お客さんの怒りは頂点に達していた。それでも引き揚げる空瓶代に相当する分の商品だけでいい、最少1ケースの納入を目標にした。目標をそれ一本に絞って懸命に説得し交渉して回った。どうしても駄目だと言うお客様には整理した空瓶代を清算して次週もまた再訪することを必ず告げた。ただそれだけの手順を徹底して守った。毎週訪問を実行で信頼を取り戻すしかない。行動で分ってもらうしかないと思った。

    ルートブックには264軒の得意先があったが200軒以上がEクラス、1ヵ月に1ケースも売上がない店をEクラスと言うのだがこのルートは1年以上どころか2年近くEクラスのままの店が多かった。
前任者のルート管理の杜撰さによるものだった。私にはそのことを上司に報告する義務があったが一切触れなかった。それより私にとっては横浜営業所で最低のルートを標準以上のルートに生き返らせることのほうが急務だった。

     3ヵ月ほどして驚異の顧客改善率が営業所の朝礼で発表され。そのデータが当時の最高経営責任者だったY専務の目にとまることとなった。
  それからまもなくして監督職に抜擢された。6年後退職の意思表示をすると本社からI営業本部長がとんできて、君は川崎にできる国内最大級の営業所の責任者に決まっているのだ。なんとか思いとどまることはできないかと言われた。私にとっては光栄なことだったが、不思議に心が動かなかった。
 心使いに感謝して退職の意志に変わりのないことをI営業本部長に改めて告げる形になった。
 人生も仕事も危機がしばしば好機になる。危機こそ好機というべきかも知れない。損に見える道に活路があるのも事実だ。

    そして志のあるところ道は必ず開かれる。全身全霊でたち向って好転しないことはない。人間にはみなそれぞれにふさわしい形で成功の機会が約束されていると心から思える。そして成功の多くは、幾多の失敗の上に成り立つものだ。失敗のない成功はない。ところが大きな組織で出世するには成功することより失敗しないことが重要視された。 経済が右肩上がりの時代が、そんなおかしな考え方さえも許容した。
余裕が生んだ弛緩状態、よく言えば人間が本来持つ安定の欲求の成せる技、その欲求はとどまることを知らないから、わざわざ失敗するかもしれないことに、どうして手を出す必要があるのか。出来ることなら余計なことはしたくない。という考え方になる。ぬるま湯時代の弊害はまだまだ随所に隠されたままになっているのではないかと思う。一寸と話の範囲がひろがりすぎてしまった。独立当時の話に戻る。 

 独立して3ヵ月を過ぎたころから、事業は安定していったが、同時に当初の予測に反して、ペット事業は継続しないほうがいいという結論に達していた。理由は、生き物は死ぬということだった。商品である愛犬をお客様にお渡しするのが生後60日前後の愛くるしい最高の賞味期間というのは、子犬にとっては生活環境の変化のときでもあるから、ストレス期間になる。愛犬家の手に渡って、一週間位は子犬にとっては安静期間なのだが、ついついそれを忘れて過接触で死なせてしまう。生き物が死ぬことは頭で知っていても、商品が死ぬことによって起こるトラブルは、しばしば感情問題に発展する。こういうことを、やっていてはいけない、マーケティングできる商品に絞ろう、そしてドッグフード1本で、やって行くことを決心する。営業には少しばかり自負があったので業績はまたたくまに好転していった。顧客も増えて3年もする頃には1000軒近くになっていた。よくお客様のところに訪問すると今注文の電話をしょうと思っていたのよと、事前の適時訪問を喜ぶ先が多かった。
 
   そんな良好な関係からお客様から信頼されるようになり時には人生観について尋ねられることも少なくなかった。そんな折によく耳にしたのは「戦争で私たちには青春時代というものが全くなかった。だから子供たちには苦労はさせたくない」と言う言葉だった。財布の紐を握っている主婦こそが私にとってはお客様だから気分を損ねたら大変、そうですよと、相槌を打つものの、それには同意できない想いを持ち続けている。この考え方が戦後の日本をかたちつくるうえで、大きく影響した部分だと思っている。甘えの構造はまさにここから始まったと考えている。
 
   戦争は悲惨だから二度と再び起してはいけない、子供たちにあんな悲惨な目にはあわせたくない。そんな想いをこめて言われていたのではないかと、思いたいところもあるが、どうも真意は経済的に苦労させたくないと言う意味で言われていたように思う。私も9歳のとき旧満州の奉天からの引揚者だった過酷な状況に置かれた記憶も少なくないが、子供に苦労させたくないと言う考え方には同意できなかった。どう考えてもその考え方はおかしいと思った。
 
   人生にはそれぞれに与えられた能力を十二分に発揮しても困難が身に余るときがある。そんな時にはどのようにしろと言うのだろうか、逃げる、責任をとらない、そんな風潮も、このような土壌が醸しだしたのではないかと、思われて仕方がない。人生における大きな喜びはしばしば艱難を乗り越えたあとにこそあるものだと思う。可愛い子には旅をさせろ。旅の途上では対応に間をおくひまなどない。即座の意志決定が迫られる。それは自律の機会であるばかりでなく、さまざまな自発的興味に触れる機会だ。クマゲラやキタキツネの子別れの場面を思い起こす。彼らを見ていると、人間よりはるかに合理的な子育てをしていて、子別れの際に示す厳しさには本能のままとは言えひとつの愛の形として胸に迫るものさえ感じさせる。人間より高尚とさえ思う。
 
   そのときそのときの社会情勢や、経済の状況は山あり谷あり、いいときも、あれば、わるいときもある。言ってみれば放物線を描いていく。それに比べて人の心は一定直線にあるもだと思う。永い歴史がそれを物語っている。
 
   人間にとって知識を修めることが大切なことは言うまでもないが。さまざまな場面で自律対応が出来ることは、知識を修めることに優先して大切なことだと思う。古い言葉で言えば、業を習う部分が欠けていることだ。知識と業は、車の両輪だ。どちらが欠けても安定飛行は出来ない。