「エンパワーメント」 は 「心身の原則」


 
   「エンパワーメント」という言葉というか学説に1ヶ月以上もふりまわされてしまった。

それはなぜかといえば、「エンパワーメント」とは人間が生きていく上でとても基本的な考えであってけっして特別な考え方ではないと思っていたからである。「人間はみな生まれながらに、それぞれが豊かな才能を与えられた存在である」と信じると同時に誰もがまたその与えられた才能を花開かせていく器であると、ごく自然にうけとめていたからである。

   自分には自分らしいまた隣人には隣人らしいタラントが与えられている。与えられたタラントをよりよく調和させ花開かせていくことはタラントを与えられたものの使命だ。生れて個に目覚め他者との出会いが始まる。出会いの持ち方、人と人との関わりの持ち方をどのようにしてより良いものとしていくか、人と人がそれぞれにもつ内なる力をどのようにすれば活かせるか、たえずよりよい関係を目指して選択をする。自ら選択した結果は自らが引き受け自らの責任としていく。そしてよりよい選択を継続していく。そんな自律思考を「エンパワーメント」というのではないだろうか。

   「エンパワーメント」とは能動思考、自律思考をつきつめていくと自然に行き着くことの出来る考え方と思っている。 「エンパワーメント」とは人が人として生きていく上で原点に置かなければならない考え方だ。ゼロの状態からなにかを生み出そうとするときになくてはならない考え方が「エンパワーメント」というのではないだろうか。鶏が先か卵が先か、実践の上で学べ得る考え方ではないかと思う。


   1980年代からアメリカではこの「エンパワーメント」を基本思想とする最新の治療法があることを新聞のコラム欄で知った。記事の内容はガン患者自らが力をつけることを「エンパワーメント」といっていて、それには、怒り、渾身で、知識を得て、生きる気になることが重要だといっている。

 1985年から腸内細菌による予防医学の理念に共感してその普及を業として間もなく20年になる。主たる業務の内容は愛用者や販売者に向けての研修会の開催や販売者へ商品を供給することだが、それでも友人や知人を介して直接腸内細菌について相談をうけることが少なくない。そんなときの相談者のおかれている状況はしばしば重い進行ガンで差し迫った場合がおおい。なんど経験しても人間の命に対峙することは重苦しさに繋がっていく。できたら逃れたいと思う気持ちが心のどこかにあるのも事実だ。そんなにも重い事柄をこれまでやってこられたのは、その重さにまさる喜びの結果がもたらされることを信じることができたからにほかならない。同時にこの腸内細菌がもつ確かさを心から信じることができたからこそ今日まで続けてこられたのだと思う。


 腸内細菌と出会えた御蔭で人体内部のありよう、しくみを知ることができたことをとても幸運なことと思っている。なぜかといえば、人体内世界のありさまは自然の摂理や普遍の真理さえも教えてくれたからだ。腸内細菌を学ぶことは、身体のしくみそのものを学ぶことといってもいい。

   これまでに多くの重いガンである相談者と向かい合ってきた。そして奇跡のようないくつもの場面を目にしてきた。自然界の厳しい掟ともいうべきか?そこには共通の原則があることも教えられた。第一の共通点はガンの罹患者がガンであることを知っているということ。第二の共通点はものを信ずることができる素直さがとても重要で大きいように思う。可哀相だからという理由で非告知が選択されたケースも少なくない。みな「ノー」という結果に終わっている。

   言い換えればなにごとも本人がその気にならなければ、すべての事柄は始まらないということかも知れない。お仕着せや、人任せでは、病ばかりでなく重大な局面は乗り切れないということか。もう一つのことをお伝えしたいと思う。これは非告知を選択した場合でも最後までガンを隠し通し得た例はないということ。そんな名優は一人もいないということかもしれない。ガンである本人にとって大きなマイナスは、もしかして自分はガンではないかと心に起こる疑念だ。その疑念が身体内機能に及ぼすマイナスの影響はとても大きいと言われている。心身は一体、ともに「エンパワーメント」されていることがいいことなのだ。