「ガン告知・非告知に思う」





 人生を仮に80年とするとき、身体のどこかしらに、ガンがあるものだと言われている。ガンのある場所が直接生命には関わらないところから見過ごされていることがすくなくないという。ところが生命に関わる部位にガンがあることを知らされたとき、人はみな恐ろしい病に取り付かれたことに愕然とする。どうしてこの自分が、なかなかその現実を受け入れられない状態の中で、これまで何気なく過ごしてきた平穏な生活がいかに恵まれていたものかを改めて知る。これまでの人生のさまざまなことがらに思いをめぐらし堂堂巡りを重ねて、ようやく病をありのままに受け入れなければならないことを悟る。逃れられないのであれば、前向きにとらえてガンに立ち向かおうという心構えに変わっていく。ここからがまさにガンとの戦いの始まりと言っていいのではないかと思う。


   腸内細菌の普及事業をライフワークとするようになって20年になる。主な業務の内容は研修会の主催や販売者への商品の供給だが、ときには身近な人を通じて腸内細菌についての相談を受けることも少なくない。多くは差し迫った状況にあって、しばしば重い進行ガンである場合が多い。私は腸内細菌についての多少の知識はあっても医者ではないから、医学や薬事に関連するような説明を敢えて避けて来た。腸内細菌による予防医学には、腸内細菌で病気を治すと言う考え方はもともとない。人間に本来備わっている恒常性維持機能を高めて病気に負けない身体をつくる。病気に打克つ身体をつくる。免疫系や神経系、内分泌系に働きかけていく力をもっているのが腸内細菌だ。腸内細菌を正しくひとりでも多くの方に知っていただくのが私の役割なので、その都度誠意を持って対応させていただいた。
人の命と対峙することは、ギロチン台に自らの首を載せているような心境だ。
たまたまお二人のかたが同時進行で重なったときなど体重が1カ月で4キロも減少した。それでも奇跡のような結果もたらされて大きな喜びに変えられるから今日まで続けてこられた。


   腸内細菌と身体の仕組みを学ぶとき、多くの医学用語が出てくる。生体と腸内細菌のメカニズムを知る上での専門用語には医学関連の用語が多い。また相談者の中には病理学の論争を目的に訪れたのではないかと思うほど、持病に精通している人もめずらしくない。そんなとき私はいつも考えせられる。医学がいかに進歩したといっても、人体を部品化した上での進歩で、人間が人間として健やかに安心して生きられる医学の面では必ずしも進歩していないのではないかと思う。対症療法でひとつの病気を押さえ込んでも、しばしば治療がきっかけで新たな症状を誘発していることが少なくない。治療中にも患者の加齢は進み体力も衰える。治療の長期化は慢性度を増して病状はさらに複雑化してゆく。患者はいつからかあきらめにも似た心情に慣らされていく。そうして病気の知識を深めることが、病気にうち克つための方法でもあるかのように思い込む。手段が目的になって、高度の医学知識こそが価値あるもののようになっていくのではないかと思う。

   一方健康食品販売を業とする人たちの中にも、医とか薬とかに格別の権威を認めている人たちが少なくない。少しでも権威づけされた商品の方が商売をしやすいからだと思う。薬には本来副作用があることは、このごろでは一般にも広く知られるようになっているが、薬という言葉にはなにかを治すという自明の理ともいえる響きがあるのも事実だ。しかしやはり薬は薬、機能のある食品は食品として、はっきりとした、法の整備をしていくべきだと思う。副作用のないことが機能性食品の特長と言ってもいいだろう。副作用がなく機能をもつ食品を日用品化させていくことが、急務だと思っている。なぜかといえば、治療の前に予防、介護の前に予防がこなければ、医療費の低減、介護費の低減もおぼつかない。予防によって病気の発症を遅らせること以外に実効ある方法はほかにないと思うからだ。発症を5年でも10年でも遅らせることができれば、医療費、介護費の低減のみにとどまらず、人間ひとりひとりの人生そのものを豊かにすることができる。

   健康であることが即幸せではないというむきもあるかも知れない。それでも生涯「自分のことは自分でできる」ということはなにより基本的なことだと思う。


   小田原に永い間にわたって親しくさせていただいたK医師が3年ほど前に90歳を目の前にしてなくなられた。生前なにかと目をかけてくださった。あるときホルモン剤の弊害の話になったとき、先生は、あなたのいうことは良く分かるけど、それは理想だ。こんなことがありましたよ、アトピー症状の患者が飛び込んできて、先生明日社員旅行にいくので今のこの症状をなんとしても明日までにきれいにしてほしいといわれたことがある。そんな時、人情としてそれに応えざるをえない。患者の意向に沿うことも医者としての大切な努めだといわれた。

   そして、ご自分の医学生時代のことを話された。医学校に入学したとき、薬は毒であることを徹底的に繰り返し教えられたという。毒をもって毒を制するのが薬の本質だから、匙加減、適切な量について徹底して学んだという。先生の心のうちにも時代とともに変わっていく医療のありかたになにか割り切れない思いがあったのではないかと思う。先生は医院経営のかたわら、なくなられる少し前までM社や、F社の保健医も兼ねておられた。悠々自在の生涯現役だった。


   腸内細菌の仕事を20年にわたって続けていると、健康の本質は一体どこにあるのだろうかと考えさせられることが少なくない。さまざまな場面に出合った御蔭で健康の源は解きほぐすことにあるのではないかと思えるようになった。生きとし生けるものの命は、柔らかく、弾力に満ちた姿で誕生する。生きとし生けるものにはそれぞれの恒常性維持機能が備わっている。その機能は常に誕生期の瑞々しい状態に復元、戻そうとする働きだという。恒常性維持機能は「免疫系、神経系、内分泌系」を駆使して、可能な限り柔らかく弾力のある状態に復元する仕組みになっているのだ。ところが仕組みはそうなっていても、ストレスや加齢によって、負の働きが加えられていく。それでもそのときそのときに応じて最高のかたちで生命を維持しようとして休まず働いているのが恒常性維持機能なのだ。
   そしてこれらの働きには修復が原則になっていることも見逃せない要点だと思うようになった。現代医療を批判する心情などは全くないが、抗がん剤の無差別攻撃による破壊、免疫細胞の働きを低下させることによって症状を抑えようとすることなどは身体内の働きのまさに逆をいっている。このことをとても不思議に思う。まだ、まだ「なぜ、どうして?」はこれからさきもなくなりそうにない。


   だいぶ回り道をしたけれど最後に「ガン・告知・非告知」について学んだことについて記しておきたいと思う。まだ腸内細菌についての知識も浅くいわば駆け出しのころ、確信もないままに、なんとなく告知することが最良に思えた。なぜかと言えば、命の主権者が自らの命についてその情報を知らないことはどう考えてもおかしいと思った。また、ガン患者である本人に残された日数を知らせないことなど、こんな人権を無視したような話はないのではないかと思った。そんな意味から己の願望も含めてガンになったら告知をすると言うのが私の考え方だった。
   ところがそのころ一般的には告知しないことが時流だった。非告知派に比べて告知派はまだまだ少数派だった。そのために幾度も冷血動物呼ばわりされたりしたが時を得て経験を深めていくと告知することがなによりもまして重要なことを事実を通して学んだ。非告知の主な理由は告知によってショックで死にいたることを恐れるからだが、人間は誰しも弱い存在だ。かりに人一倍その弱さをもっていても、時間の経過とともにやがてガンに立ち向かおうとする気力を人間は一様に生み出すものだと私は確信している。また身体の仕組みからいっても心に思うことはそのまま身体に伝えられる。というより身体は心が思う通りの働きをすると言った方がただしいのかもしれない。これまでに奇跡とも思えるような結果から見てもそれが分かる。非告知という例は一例もないのである。やはり大切なのは自助努力が何事においても第一ということかも知れない。また、非告知を選択しても、最後まで完全にガンを隠しおおせた例も知らない。一番患者がこたえるのはいつももしかしてガンではないのかと持つ疑念だ。この疑念が身体内の働きに大きな負の影響を及ぼすのだ。なかにはすべてを諦観して承知していてもしらないようにしてなくなっていくと言う。

    こうなると本当の優しさとは何か、考えさせられる。しかし、何事も自助努力なしには、いい結果は、もたらされないということかもしれない。曖昧さを残さない努力は、エネルギーを要するが踏ん張り所だとも思う。



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