「比較する心が招くいらだち」



   人間は生まれて死ぬまで、この比較する心の習慣に、振り回される。
   そして、他と比較するなかで明らかに自分が劣っていると心に映った時から悩みが始まると言っていいのではないだろうか。自分が優っていたからといって、悩みにならないとは言い切れない。半年ぐらいまえだったろうか。日経新聞の土曜版のコラムに他人を羨ましいと思う心に二つの形があるということが載っていた。一つはジェラシー・嫉妬の本来の意味は、あの人は素晴らしい、だから私もがんばってあの人のようになりたいと思うことだと書かれてあった。
   一方エンビーという嫉妬は人を羨んで、悔しいから足を引っ張ってやろう、そして相手を困らせようと思う心を指していると言う。前者は極めて自然な心の在りかただ。後者を意識してコントロールできる人間を自律した人間というのだろう。ところが、このところニュースで伝えられる事件は、あきらかにこの比較する心が高じて知らず知らずのうちに救いのない迷路に追い込まれた結果の事件と思われて仕方がない。そして怖いのは迷路に入り込んだら、踏み止まって、立ち返る心の復元力が働かないことだ。そんな延長線上で思い余って発作的に取り返しのつかないことをやってしまう。やってしまってから、ことの重大さにきづく、まことに心の幼いまま親になった結果の事件が多い。

  戦後の物資のない時代には西欧の豊さは日本人の目には夢物語のように映っていた。だから羨ましさを、かえって追い越し追い越せの合言葉に置き換えかえることが出来た。貧乏な時は貧乏があたりまえだったから悩みにはならずかえってそれを多くの人がバネにすることが出来たのだ。

 みんな物資のない不自由さを知っていたから、有難さもみな分っていた。だから、物資が乏しいことがかえって忍耐力に、また活力を育てる結果に結びついた。そこには無意識のうちにも感謝の心があったからだと思う。そしてよりよい明日にむかって努力することが自然の成り行きだった。明日はもっと良くなると誰もが信じることができたから比較が良い意味で競争原理として働いて奇蹟とも言われたほどの高度経済成長の一時代をつくった。

 しかし、人間の幸、不幸の基準を比較の上に置くことは、同時に、しばしば、不幸の種を自分の目の前に並べる結果になりかねないことも事実だ。
 人間を十人十色という、ひとにはさまざまな考え方があるから、対応の方法もさまざまにと言うことだが、ことに人間「子供」の能力の面を見るときは一人十色と見るぐらいの方がいいのではないかと思う。教育に熱心な母親、あまり熱心でなでない母親、いずれにとってもの最大の関心事は子供さんの学業の成績ではないだろうか。21世紀に入って多様性や人間力の重要性が説かれても、比較の上で成果を判定できないのでは、安心が得られないから、子供の持つ能力の十色のうち相変わらず、偏差値と言う一色で我が子を見ている。その傾向が、ますます強くなっていくように見える。
  これまでも、我が子の安定した人生を願い、より良い学校、そしてより良い会社、寄らば大樹の陰にあることを目指してやってきた。誰もが大学を目指し、誰もがホワイトカラーを目指した結果がいまでている。
子供の能力には豊な広さがある、能力の一部分でしかない偏差値に執着することは、子供の豊たかな能力の大部分を見落とすことになるということでもある。

  母親の教育熱心さの中にもいろいろ形があるといっていいのではないだろうか。母親の心が偏差値に向かいやすいのは、自分の子供がいま何ほどのところにいるのか偏差値によって確認できるからだ。良ければいいし、ほどほどであれば、なんとなく安心なのだ。母親の中には子供の成績のよしあしが何よりの関心事で、試験の点が良ければ母親同士の社交の場で鼻が高いからと言うのもある。偏差値を参考にして計画的な長期教育を実践している母親、生まれながらにして難関を突破することが必修条件というのもあるだろう。 これは特別と言っていいだろう。確実に偏差値の篩に掛って行けるものは掛かってゆけばいいと思う。偏差値で篩に掛けられて振るい落とされた者を落ちこぼれとして仕分けするこれまでの手法がさまざまな問題を引き起こしてきた。偏差値は大切かもしれない。しかし自律心はもっと重要だ、自律心あってこそ偏差値が生きる。知識と対応能力はもともと車の両輪だ。これまで永い間危うい片肺飛行になんの疑いも持たずにやってきたツケがいま出ているのだ。比較で勝ち続けようとするところには救いはない。非は常に外にあるという思考習慣も問題だ。
   
   自らの心のうちを見つめよう、本当の自分らしさを見つける旅が人生なのだ。本当の自分らしさを見出せたら、そこから人生が始まるといっていい。

    自分が決めたこと、自分の好きな道は苦にならない。どんな時代でも自分の好きな道に生涯をかけて成功しない道などない。無修正で失敗のない成功はない。だから自分で考え自分で対応する力をつけることは、何よりもまして重要だ。比較が生きるのは自律する心が豊に育ってこそ実を結ぶものではないだろうか。比較することで自分の恵まれていることに、あらためて気づいたり、自分の未熟さに、気づく機会にしてこそ生きるものだと思う。

   人間「子供」の能力は豊だ。わざわざ偏差値という狭いレンジで見る理由はどこにもない。大部分の九色の中にこそ、子供たちの将来の豊な人生が隠されているといいたい。いまの日本からは空洞化現象による痛みしか感じられないとしても、地方や海外、広いところに目を転ずれば、人生はいたるところに青山のあることを知る機会にもなる。

   ピンチはチャンスの糸口失敗を恐れない心構え。そして「夢をもつこと」。「思うこと」。それが全ての始まりなのかも知れない。