■命の尊厳(いのちのそんげん)




 1985年、腸内細菌の存在を初めて知った。その日を契機にして生命がどのようにして維持されているか、身体内部は小宇宙そのもので、絶えず生体防衛軍と外敵との戦が行われていることを知る。人体のしくみの無駄のない働きと、その精密さに驚かされた。

 人間をかたちづくる細胞が60兆個、その数を凌ぐ100兆個もの数の腸内細菌が私たちの身体内には棲息している。本来生体内組織は、存在意義のないものを排除するしくみになっているという。それにもかかわらず100兆個もの腸内細菌がいるということは、人間がその存在なしには生命を維持し得ず、腸内細菌も人間という宿主なしには生命を繋いでゆくことができない。共生と食物連鎖は人体内はじめ、生物のそれぞれの身体内においても例外ではないのだ。菌は永い間人体に害を及ぼすものとして研究されてきた。腸内細菌の研究が進むにつれて内分泌系、免疫系、神経系に深くかかわっていることが次々と証明されている。もう間もなく腸内細菌をライフワークとするようになって20年になるが、この菌たちとの出会いによって、普遍の真理やさまざまな自然におけるありように深い想いを持つようになった。身体の健やかさには心のありようが深くかかわっていることも、これら小さな菌たちの反応を通して理解するようになった。まさに「ヘルス・アンド・マインド」心身は一体なのだ。



 腸内細菌に出会ったころ、金属バット殴打殺傷事件があった。エリート教育、兄弟との比較から親子間に確執が生まれ、とうとう殺傷にいたってしまったと言う悲惨な事件だ。その後も、年を追うごとに、事件は低年齢化して原因と結果の脈絡も理解しにくいものになってきている。生まれたときから無制限に浴びる情報のシャワーによって脳の構造が変わってきているという学説もあるが・・・・・。人間の適応能力がそれらによっていともたやすく阻害されてしまうとは考えたくない。

 人間はいい意味でも悪い意味でも身近な存在に倣って成長していく生き物だ。比較、競争、損得、見栄を満たす欲求には際限がない。足りないものばかり数えていないだろうか。人に勝つことばかり念頭においてないだろうか。多くの恵みをもあたりまえと考えていなだろうか。感謝の心、謙虚さを忘れてはいないだろうか。時には潔く負ける勇気をもちあわせているだろうか。ものごとが、うまく、いかないことを人のせいにしてはいないだろうか。日々、忙しさにかこつけて、まあ、こんなものだとやりすごしていないだろうか。人権、プライバシー、権利意識、自己主張、セクハラ、等、声高に叫ばれることは良いことだが、多くの欲求はおおくの規制を生む要因にもなる。広い道を敢えて狭くし息苦しさを増幅しているように思えてならない。人間を万物の霊長と言うけれど果たしてそうなのだろうかと考えさせられる。生物の世界は弱肉強食だが不必要な殺生はしていない。ライオンがいかに百獣の王と言っても空腹時でなければ獲物が目の前にいても襲ったりしない。



 人体内に棲息する腸内細菌や免疫細胞たちのありようもまた共生が原則だ。弱肉強食の戦い、食物連鎖の原則はあっても、闇雲にただ戦うことをしない。人体内部に、外敵が少しばかり侵入してきても許容の範囲を超えない限り反応を示さない。このことを免疫寛容が起こった状態というのだが、このような状態にあるとき、人体「生体」は最も健康な状態にあると言う。私はこの事実を知ったとき、このことは全ての知育に先立って教えなければならないことではないかと思った。ひとりひとりの身体内部には人体内小宇宙が存在し日々、宇宙戦争が繰り広げられている。生命を維持するための戦争が繰り広げられているのだ。子供たちがこの事実を知ったら、君の身体の中でも、僕の身体の中でも人体内小宇宙の戦争が生命維持のために休みなく行われていて維持されている命。この事実を知れば、自らの命の尊厳も、他者の命の尊厳も自然のうちにみにつけることが出来るのではないだろうか。現代の傾向は人間に関心が向きすぎて、見えないもののなかにこそ大切なものがあることや畏怖する存在をもたないことも恣意を暴走へと駆り立ててしまう理由なのかも知れない。子供はいつの世も親にとっては宝だが、精神的に見て現代は子供を個人の所有物視する傾向がとても強いのではないかと思う。子供を自分好みの盆栽に育てようとしているのではないかと思えるようなケースすらある。子供は同じ親からうまれても、性格はまるで違うものである。子供は、授かりものであり、神からの預かりものだ。だから親は子供の自律心を全てに優先して育む責任があると思う。それだけは親として手抜きしてはならないことだと思う。11歳の少女が12歳の同級生を死に至らしめた。被害者の悲しみはもとより加害者の両親も一瞬にして重い贖罪の道を歩むことになる。若いお父さん、お母さん、真剣に観察していたら、子供の心のうごきは見える。家の子に限って等と言わないで心の眼で子供たちの心の揺れ動きを感じとってほしいと思う。





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