「意識がなくなった後の命は誰のもの、日頃から意思表示しておこう」
       意識がなくなったら・グッバイ・・・・・


   もう何年もまえから意識がなくなった後の命について考えて来た。正確に言えばもう24年以上も前の話になる。再独立するに当たって健康関連の仕事がしてみたいと思ったのも、ただ長命でさえあればいいのだろうかと深く考えさせられる出来事に出会ったことが動機となった。長命であることに越したことはないが「自分のことは・自分で出来る」ことが独立した人間としての最高の基本だと強く思うようにもなっていた。 

 人間は誰しも少しでも長生きできたら長生きをしたいと思うのが自然な心情だ。何時死んでもいいなどと口ではいっていても、いざ重い病気にかかってみたりすると、人間の生に対する執着はそんなに恬淡でいられるものではないことをこれまでの仕事の中で数限りなく見せられてきた。私は若いころから天命はあると思っていたから、天命以上に生きる必要はない。ただ生きるということは自分のことは自分でできてはじめて独立した存在としてなりたつのだということと考えていた。長命でも長い年月ベッドの上での生活では不本意な人生といわざるを得ない。信仰を持つようになってからは必ずしもよきものの中によきものを見出そうとする考え方はなくなった。今もその考え方には変わりはない。また同時に長い年月介護する側の負担。そして介護される側の心の負担も決して小さくはない。このことが社会性入院を暗黙のうちに増大させているように思えてくるのだ。当時は社会性入院が問題になり始めたころだ。お年寄りが3ケ月ごとに病院をたらいまわしにされることをよく耳にした。そしてまた、その頃は年老いた親の面倒は長男の嫁がみると決まっているようなところがあったから、どんなにいい嫁でも永い間にはいつもいい嫁で通すことなどはなかなかできないのではないかと、まして先が見えない中での献身は並大抵の苦労ではないと容易に理解できた。

  だから人生は基本的にいって「自分のことは自分でできる」ことが幸せの原則であり土台だと思った。あれから24年この考え方は年をおうごとに重さを増している。それだけ齢を重ねてきたということもあるかも知れないが、時代の趨勢から見てもますますその重要性を増している。最終盤のごく限られた時間は子供達の介助に依存するとしても、限りなく死の間際まで自立していられることが願わしいことだけは誰しもが思うところではないだろうか。ところが、個々ではほとんどの人が、そう思っていても、自らの意思通りに人生にピリオドを打てないでいるようにみえる。

 それはどうしてなのだろうか、死とはどんなに緩やかな状況でやってきたとしてもそれを受け止めようとするときは突然以外のなにものでもないのかもしれない。

 まえもってはっきりした心積もりがあって、そのときを自分の心の準備のできたなかで誰もが迎えたいと思うだろう。ところがつもりよりもこうしたことは何時も早くやって来るものなのかもしれない。死から逃れることができても、意識がまったくなくなってしまうことだってある。そんなとき周りのものはもっと慌てさせられ、果てしのない、献身的介護の最後通牒を突きつけられたように思うだろう。子が親を見るという理由の第一は世間様にどう思はれるかという恐れが心の奥底にあるからだと言う。時代が進んでいるように見えて、人間の考え方は全くと言っていいほど変わっていないのである。そして人間の情愛は強くあらねばならないなどときれいごとを言っていてもこれまた人間愛からくるもではなく血縁であるが故の表現や判断が中心だ。また立場の違いや利害の関係で受け止め方も簡単に変わってしまう事だってある。そして自らが都合のいい判断をしていても、たいていの場合それに自分が気づいていない常識人が多いと言っていい。自分は別格、自分は多少はまだましな方だとほとんど万人が万人そう思い込んでいる。 だから、命あるものの命を左右する言葉を吐いたとする。医療の無駄を省くなどと言えばたちどころに非人間性をなじられることになる。

   私はここで過去に受けた研修を思い出す。総勢20名ほどの初対面のもの同士が3グループに分かれて自分以外の者の欠点を20項目書き出し相手に言うのである。たった今出会ったばかりであるにもかかわらず、である。7人のグループであれば120項目の欠点を書き上げなければならない。なぜ今更こんなことをしなければならないのか。その意味を考えてみた。この研修は己の心の内側をみつめる旅のようなものときいていたから、己の心に絞り込んで考えてみた。相手の欠点をいえないのは、相手を思いやる気持ちがそうさせているのでもなんでもない。言えない理由は唯ひとつ自分が悪く思われたくないという理由によるものだということだった。日本人は白黒をつけることを好まないと言われている。和を尊ぶあまりものごとを曖昧にし先送りして時期を待つ。

  そこで私は自分の終末医療については、はっきりした意思表示をしておこうと思った。自分の終末医療についてあらかじめ決めておくことはなんら問題にはならないからだ。意識がなくなったあとの延命治療や装置は必要ない。医師も一旦つけたものを外すことはできないが。最初からつけなければ何も問題がないのだ。そしてたいていのばあい優しさの持ち合わせもないのに、優しさがあるようにふるまいたいと思う心からいろいろと事態をむつかしくしている。すべてはシンプル・イズ・ザ・ベスト。意識がなくなったら、機械装置による延命はいらない。そして命を終えたらあとは海山自然に骨をかえしてもらえればいいと思っている。意識がなくなったらグッバイだ・・・・・・ちょうどアメリカでも論争がおこなわれている。この時期に一度考えてみるのも物事を曖昧にしないために役立つかもしれない。