「何処へ」の解説


 
  この詩は父の死後ずっと私の心のうちにあったものを形にしたものです。
いつのころからか、父をひとりの人間として見るようになってその姿を目標とし、また反面教師として、自分自身が努力してきたように思う。

    それでも67歳になる今、父にはとても及ばないと思っていることがひとつある。それは、12年間に亘って中学、大学の予科本科と夜働き昼学校に行ったことである。

 山梨県の氏族の家に生まれた父は17歳のとき青雲の志に燃え東京に出て、日本中学、中央大学の予科本科と進み見事初志を貫徹したのである。卒業したころは昭和の大恐慌「大学は出たけれど」と云う唄が流行したのもこのころと聞いている。
 
そんななか300人に2人という難関を突破してF生命に採用された、ところが青雲の志やみがたく、ある日易者に手相をみてもらうと、あなたは海外に雄飛する人だと言われ、その後、どのような伝があったのか上海特務機関の金庫番になった。
   
   父の心を動かしたのは満州建国という大儀だったのではないかと思う。のちに満州建国の準備機関「興亜院」に移り、建国が終わって、「興亜院」は在北京日本大使館に併合された。私の記憶にあるのはこの北京にいた8年の後半の部分だったような気がする。なぜならば、終戦時私はまだ満9歳になっていなかったからである。事情があって終戦間際わたしは叔父のいる旧奉天に預けられたが、・・・このことは割愛。私の中国での印象といえば、両親とともにいた平穏な8年と離れて暮らす終戦時の混乱の1年によって形作られているように思う。どちらが印象に深いかと言えば迷わずに、混乱の1年と。幼いながらも混乱の中肌身で感じ取った事柄はとても貴重で生きた教訓として私という人間の下地になっている。
とは言え、初めて親と離れて暮らしその意味を知っても、両親とは音信不通その生死すらつかめなかった。それでも不思議なことに苦労していると言う感覚はなかった。
よその国にきている自覚はあったし、父は外交官という自負があってのことか、弱音をはくようなことはいつしかしなくなっていた。その代わりというか、あたらしい習慣として心の内で何事についても自問自答し、いつでも自分なりの考えを持っているような可愛気のない子供になっていたように思う。
 
 しかし、今思うと、それが実は一番、人が生を受けて最初に身につけなければならない大切な要件であることを事業するようになって理解した。そして幼いながらもその心のうちを支えたのは、父から折にふれ聞かされていた、上海特務機関のこと、満州建国のこと、田中隆吉と東洋のマタハリと言われていた川島芳子のこと、匪賊討伐のこと、旧新京で某中将の妾腹の子を父の実子として養育していたこと、その子をしょう紅熱で亡くしてしまったこと、そのときT大臣から500円もの香典が届けられたこと、それを、実子として貰い受けたのだから、という父の強い意志から辞退したことなどなど。
 
   父から聞いた話のなかに父の人柄をしめすには格好なこんな話があった。あるとき田中隆吉から出金を指示されて、用途を尋ねて、父がそのような事には出金できないと頑として聞かなかったことがあったという。その一部始終をみていた川島芳子は父に貴方は石頭だと言ったと笑って私に話してくれたことがあったが、父にはそれをむしろ潔しとするところがあったと思う。そんな質実剛健を旨とするような環境があたりまえだったから、だから自分もしっかりしなければとただしっかりすることだけを思い続けていたように思う。このような考え方は私ばかりでなく、当時としてはあたりまえだったのではないかと思う。
 
    敗戦後父は自らの意思で、外務省を退き、外務省が用意した栃木の那須に御料地の払い下げを受けた開拓地に、入植した。母が心を病んでいて、4人の子供も小さく、なによりも食糧増産が急務の国情にあって、家族の面倒を見ながらできる仕事と考えた結果のようだ。父の家はもともと庄屋をやったほどの家柄で農業は知っていても、まったく経験がなかったから戦後の10年労苦をしいられた。また戦後5年目に母が癌で遠く離れた病院で亡くなった、姉1人弟2人と私、母の死後、なんとか5年位は家庭らしさを保ったが、私も自立を考えて16歳のときに家を出た、すぐ下の弟は母の実家に、姉もまた母方の叔母のもとへ、一番下の弟はしばらく父と暮らしていたが、やがて施設へ、そして父は一人になった。一人になってからも試行錯誤をこころみているが、いい答えはでなかったのだろうと思う。
 
   そして父は僧になることを心に決めたようだ、当時は僧になることも簡単なことではなかったようで、それでも実際には厳しい雲水の修行は免除されていたと聞いている。
 
   それから20年以上山梨にある塩山向岳寺の僧として末寺や塔頭にいた。父が70歳の時私の元につれてきた、連れてこなかったらもっと長生きしていたかもしれない、しかし父が私の元で暮らすことを望んでいたので、それがわたしにとってはせめてもの救いになっている。父が亡くなったとき、とても不思議だが、父が、嬉々として背中に背負籠を背負い天原で花を摘んでいる情景が脳裏に刻まれて今にいたっている。
 
   父が向岳寺にいるとき境内に梅の苗木を100本植えることで管長さんの許しを得たと云っていた。その梅も今はよく手入れされ、みめよい古木になっている。そんなこともあって詩の中に一節入れさせてもらった、齢を重ねるにつけ父がどのような想いで、またなにを求めていたのかをおもいながら雲水という詩にしてみた。特務機関や満州建国、父から伝え聞いたままを状況説明の目的で書きましたが、それらを礼賛するものではありません。戦争はいつも、その影響を大きくうけるのは、弱い立場にあるものです。

   作詞家の中西礼氏は言っています私達は棄民された。私もそのように認識しています。戦後60年近く経った今、東京裁判の証言台にたった田中隆吉の証言記録を幾度か見、川島芳子の伝記にもふれてみると、なにかをなそうとした人たちにも、時代の波は容赦なく襲い掛かり深い悲しみの跡を残している。もののあわれ、生きとし生けるものへいとおしさ、
 
   そんな想いを梵鐘の音とともに詩で表現できれば・・・・。
と思ってのことですが、父とその時代を生きた人々への鎮魂なのかもしれません。


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