心がよろこびでみちるために

  さきごろ、次ぎの四文字熟語「吾唯足知」をインターネットで検索してみたら、なんと1,250件にわたる検索結果がでたのには驚いた。この四文字熟語について詳しく教えを受けたのは、今から20年以上も前のことである。不思議なご縁で知遇を得た日蓮宗の高僧からだった。私はそのころ40代半ば、事業のはじめたてで、先行不安の只中にあって心穏やかでない毎日を過ごしていた。そんな時私の心を見透かすように、経営には心構えと原則を知ることが大切だよといわれた。おもむろにチラシをとじたメモがきに、天保銭のような古銭の図を書いて「吾唯足知」古銭の中央に口をおいてそれぞれの文字を配置して「ワレ、タダ、タル、ヲ、シル」と私に読ませた。意味は分かりますか、大意としては自分が今おかれている立場も見方を変えれば満足し感謝することでいっぱいですよという意味だが、同時に自分に足りない、欠けている部分は何かを知るということでもあるのだよと教えられた。また、経営とは、「創造と破壊を反復すること」また「問題解決の連続」とも言われた。高僧との1対1の経営指導をおわって、帰途についたが心のうちは変わらなかった。唯、問題解決の連続なのだから問題があってもいいのだ、問題があるのがあたりまえなのだ、ということが確認できて、少し心が楽になった、先行不安に対しては少しずつ免疫をつけ慣れてゆかなければならないといけないなと思った。それから幾日かして、経営は創造と破壊と教えられたことについて、私にはちょっとした閃きがあった。

  それは40年以上も前に遡るがペプシコーラのスーパーバイザーをしていたころ学んだ、アメリカビジネス手法の中に「プラン、ドゥー、シー」と言う言葉があったが、これがまさに創造と破壊だと気付いたとき、これこそが原則であることが分かった。まず、 計画を立てる 行動する 反省点を検討して、更なる計画を立案し反復していく。
 この法則は単に経営ばかりではなく、人生全般の全てのことがらに関わる原則だと考えるようになった。それからは物事の成否には要因があって成功も失敗も全ては自分に起因していると素直に考えられるようになった。不思議に自分の正当性を主張して論争することなど、どうでもよいことだとおもうようになった。たとえば、複数の人と仕事をして何か不都合が生じたとき、一般的に言って進んで自分の非を認めることは稀有と言っていいだろう。
むしろ自分に非があっても正当性を主張して責任を逃れようとする
ことが多いように思えてならない。

  しかし果たしてそれでいいのだろか考えさせられた。なぜかといえば、自分の正当性を主張して強引に認めさせるようなことをしても心のどこかに負のイメージを残すのではないかとおもうからである。私は自分の潜在意識に負の部分を残さないことが一番と考えているから、たとえその非が自分にとって明確でないときでも、積極的に謝るほうがいいと思う。またまた、なぜかといえば人間は常に過去を終わらせ、未来に向けて再出発しなければならない存在だから、よりよい再出発をするためには、すみやかに過去にけじめをつけることで前向きの体勢がとりやすいからである。心に余裕を持たせ、心を楽な状態におくことのほうがいいとも思うのである。だから拒みや、拘りといった心を閉ざす感情からは意識して離れていたいとおもう。いつも、やすらいだ心でいるために。
 「吾唯足知」 足りないものをかぞえても、楽しくならない。

  朝起きて自分の足で歩けることも、コップ一杯の冷たい水が飲めることも・・・。数えたら喜びにかえられる。だから今、目の前にあるあまたの恵みを数えようと思う。