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わたくしは旧満州の吉林に生まれました。二歳のとき父のあたらしい任地北京に移りましたから 吉林についての記憶はありません。七歳ぐらいまでの北京ではなに不自由のない生活をしていたように思います。

終戦間際四十歳にちかい父には、もう召集令状はこないだろうといわれていましたがとうとう、 赤紙がきてしまいました。今思うとそれが大きな変化のはじまりでした。 そしてその変化は常に選択の余地のないものでした。父母とわかれて旧奉天の叔父に預けられるところから、戦後の混乱のなかでの貴重と言ったらいいのでしようか二度と再び、できないような波乱に富んだいくつもの経験の場が展開されていくのです。

「火事場」の馬鹿力といいますが、もともと人間には、計り知れない、力がそなわっていていざというときその力が発揮されるものです。

戦後の混乱の中での一年間に起きた出来事を振り返って見ますと、いずれもさし迫った危機をどのようにしたら切り抜けられるか、きりぬける一点に集中して事態に対応しなければならない事、場面であることを幼いながら理解していましたし、子供といえども立派な対応要員に組み込まれていました.現在のような平和な時代では、やるまえから、尻ごみするような事柄でも切羽詰まると難なくやることができるのです。

私にとって非常時の奉天での経験は、幼少期とはいえその後の私をおおきくかえました.工夫する、考える、ことの大切さを身につけたようなきがします。人間も、宇宙も、変化し、成長することが原則でそれが真理だといわれていますから、経験をとうして学ぶ事は、何よりも大切なことと私には思えるのです。

私には永い間これはちょっとおかしいのではないかと思いつづけている事があります。 それは団塊の世代のお母様がたからよく聞いた話ですが、自分たちには戦中戦後の混乱の中にあって青春時代がなかったので自分の子供には苦労はさせたくない、ということについてです。 私は終戦時九才でしたから苦労の度合いが違うのかもしれませんが私はそう思わなかったのです。私にもできたのだから子供もきっとできる、そう信ずることが自然で、そこからしか力強さは生まれてこないのではないかと考えていたものですから…。 日本人はついつい苦労を不幸におきかえてしまい勝ちだといわれていますが、人生でも仕事でも涙を流すような時、場面、がなかったら、きっと心から満足することもなくなってしまいます。


こんな想いを、ライフワークを通じてまた日々の生活の中で感じた事柄を折々の記といたしました。また、宮沢暁子さんの御言葉絵手紙作品のいくつかをのせてみました。私のつたない詩も載せていきたいと考えています。どうぞよろしく