自分のことは、自分でできる



今から20年ほど前、つくづく健康は大切だと思ったことがあります。

それはふとしたことから骨折してそれがきっかけで14年間のベッドの上の生活を余儀なくされた知人のおばあちゃん、入院した時が78才、92才で亡くなりました。

その時私は考えました。どんなにいいお嫁さんでも、14年間もの間、笑顔で看ることはとても簡単なことではないはず。まして看られる方は、もっと辛いのかも知れない。だから長命だけではいけない。

全てのひとにとって大切なことは、いつまでも 「自分のことは、自分でできる」 ということ、このことが人生を生きる上で一番のことであり、幸せの土台だと思いました。

健康づくり事業を選択する動機はここにありました。





知っていることと、わかること



知っていることと、わかることの違いを説明しなさいと、とっさにいわれたらどう説明したらいいのかとまどってしまうが、こんな話を聞いたことがある。

ある教会にひとりの女性信者がいた。彼女にはひとり息子がいて、常日頃その息子のことで悩んでいた。息子は暴走族で、いつも彼女をはらはらさせ通しだったが、とうとう事故で命を落としてしまった。彼女は息子を死なせてしまったことを悔やんで心の中で自分を責めつづけていた。

とうとう耐えきれなくなって、牧師にうちあけた。そのとき牧師の口をついて出た言葉は「あなたの信仰がたりないから」ということだった。

ところが何年かして、牧師の息子も暴走族である日ついに事故死してしまった。教会にその知らせが届けられると、教会内は一時騒然となったが、牧師はそのことを伝え聞くや否や、あわただしく教会を出て行ってしまった。息子の死の報せを聞いて牧師の脳裏をかすめたのは、女性信者のことだったという。そして女性信者の前にひざまずいて赦しを乞うたという。

わかるとはこういうことだと思った。







ルールと我慢



27歳のとき長男が、30歳のとき次男が生まれた。長男が生まれた時、正直いって真っ赤でしわくちゃで、お世辞にもきれいとか可愛いとかいえるしろものではなかった。まして誰似とか、いい赤ちゃんねとか見分けが出来る事をとても不思議に思った。

たいていの場合、このご対面から子供との長いおつきあいが始まる。はえば立て、立てば歩めの親心といいますが若いときはただ夢中で子供に対して来たといった方が正解かも知れません。

子供の小さいうちは、ほとんどその子の特性にまかせて伸び伸びと自由に遊ばせて来た。そうは云っても父親としては母親にまかせる以外にない状況にあった。当時はペプシコーラのスーパーバイザーをやっていたので、子供と顔を合わせることがないほど忙しかった。

元来私は、人間が人間を教育することなど出来ないと考えていたので、子供達に余りうるさくいってこなかった。ただ三つ子の魂百まで、栴檀は双葉より芳ばしという言葉もあるところから、ことのよしあしをわからせるために、ルールがあること我慢すること、このふたつを厳しくしつけることがなにより大切だと思って継続して実行した。

兄弟ゲンカが目に余るときなど互いに自分の正当性を主張しても、そんなことは意に介さず、ケンカ両成敗で、二人の息子を正座させてまずあやまることを守らせた。

もうひとつは我慢をさせることであった。この我慢をすることの大切さは、私の少年期に身をもって学んだことだったからである。

私は10歳のとき旧満州の奏天から日本に帰って来て、母の実家にしばらくいた。父が外務省の関係で、栃木県の那須山麓に御領地の払い下げを受け、開拓をするため入植していた。10歳からその開拓地で生活をするようになった。食べるものもないのだから、おもちゃどころではなかった。子供心になかったから工夫することを覚えた。山から木を切って来て、ノコギリやナタやカンナを使って、何かを作り出すことの大切さを身をもって学ぶことが出来た。

物はなかったが、自然はいっぱいだった。山や川や林、木や草や花、夏には夏の、秋には秋の遊びを通して多くのことを学んだ。篠竹の鋭い切株がはいているゴム長靴をつらぬいて、足に深い傷を受けたこともあったが、みな生きた教訓となって身についた。

私は幸いというか2人とも息子だったので子供を育てる過程でこまったり、迷ったりすることはなかった。なぜならば、同性であり、自分がその年の頃何をしていたかを思い返せば、おのずと答えが見いだせたからである。時代と共に生活の環境が変っても、人間の本質的なものは変らないと思っていたので悩まずにすんだ。そうは云っても大切なものから目を離さないということは、エネルギーもいるし忍耐もいる。

父親は背中で教えるということは、父親の生きざまそのものを子供に見せることだが、同時に「背中」とは孤立することをも恐れないことでもあると思った。そういう時こそ勇気をふるいたたせて、時をまつことだと思った。しつけをする上で大切なことはバランスだ。父親の厳しいしつけも一方で受け止める役割があってこそ、子供達の心の中に時間の経過と共に浸透してゆくのだ。

それから、父親と云えどもただ厳しいだけではだめだ。いつも心のどこかに、お前たちはわたしの宝物であるという実感がなくてはならないと思った。時には口に出して、そのことをはっきりと子供の前で言うこと、特に叱る前には、必ずいうこと。又時には、つきはなすことも必要だ。悪くなるなら早く悪くなりなさい。

しかし、その後しまつは自分でやるしかないよ。お前の人生はお前自身のもので、親だからといって替わってやるわけにはゆかないのだから。そして最後に突き放す強い言葉をはいても、両腕はいつも子供をかかえている感覚がなくてはならないと思った。

“鉄は赤いうちしか打てない。
冷めて打つから、はねかえりが大きい。”






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