子供は神からの授かりもの?預りもの?



大正の終りから、昭和の初期に生れた特に子を持つ女性から、「自分たちには青春時代はなかった」とよく聞かされた。戦中戦後の混乱の中で、とても苦労して来たので、自分の子供には苦労をさせたくない。このようにおっしゃる方がとても多かった。私は33〜34歳の頃、脱サラをして、ドッグフードの宅配を業としていたので、おなじみのお客様とは親しさが深まるにつれよくこのような話をした。お客様は当時千軒以上ありましたが、自分は苦労したから子供には苦労させたくないと考えておられる方が実に多いのに驚かされたことを今でもよく覚えています。

お客様とのそういった会話の中で私はいささか異論をさしはさみたかったのですが、商売をさせていただいているのですから、自分の意見はさしひかえました。しかし、こういう考え方はどうしても、納得いかなかったのです。

私は1936年生れですから、その年代の方々と10年から20年位の年のひらきがありましたが、終戦時は9才で旧満州の奉天の叔父の家にあずけられていました。その叔父が、ドイツの商事会社で通訳をしていました関係でロシア軍によってスパイの容疑がかけられシベリアに抑留されてしまったのです。日本へ帰る時38歳ぐらいだったのでしょうか、叔母ひとりで私達兄弟3人と、従兄弟4人、10才を頭に下は乳飲児でした。とても気丈な人で弱音を聞いたことがありません。自分の子と分け隔てをする人でしたが7人の子供を日本へ無事つれ帰ったのです。ロシア兵に自動小銃をつきつけられて、住居としていた洋館を追いたてられたり、戦後1年の間に4回も引越を余儀無くされました。

戦後の世情不安の中でも生活はしなければなりません。詳しくは知るよしもありませんが、叔母はよく工夫をする人でした。日本軍が撤収して持主不在となった木炭山の木炭をセメント袋に詰めこんで、乳母車を改造した運搬車で日本人街に行って売ったり、少し元手が出来ると、バクダンアラレ製造機を購入して、日本軍の脱走兵を雇って、日本へ帰る人達の保存食として加工して、加工賃をとることを新たな収入源としたりしました。私は男では一番年上でしたから叔母の計画の中ではいつも戦力の中に数えられていました。
父の仕事の関係で、旧満州の吉林省で生れたのですが吉林のことは全く記憶にありませんが北京の7年間はとても変化に富んでいて私の好奇心を満たしてくれました。

また日本に引揚げることがきまって、奉天から乗った貨物列車は屋根も囲いもない無蓋車でした。雨が降れば雨に濡れ、日が差せば差すのにまかせ、便所は不定期に停車したあたりのコウリャン畑や、草原でした。奉天から引揚船の出る葫盧島まで直線距離にしてわずか250キロほどのところを記憶では2週間ぐらいかかったのではないかと思います。奉天を出る時は白かったシャツも、うすネズミ色になっていました。忘れもしません、葫盧島についたとき子供心にもほっとして、背中が痒いなと道中伸びた爪でかいたところ、紫色の米粒ほどのものがツメの間にはさまって来ました。よく見ると動いていました。生れて初めて見るシラミでした。

日本軍が撤収した跡地で中国製の手榴弾を見つけ、その引手のリングほしさに抜いて、間一髪で危険を察知して逃げアメリカ兵に助けられたこともありました。

白系ロシア人の美人のお姉さんにオチンチンを握られたこともありました。隠れんぼをしていて中国人の使用人の10歳になる女の子にもオチンチンを握られたときは驚きましたが不思議に悪い気持ちはしませんでした。

まだ幼かったせいか大人にとっては苦労なことでも苦労の意味を知らなかったので、あまり深刻には考えませんでした。

父母の生死がわからないこと、零下20度の中で炭の袋詰めをしたり、日本人街に運んでいくときなどは辛いと思ったこともありました。雪の降りしきる中、知人に連れられて奉天駅のロータリーで発疹チフスで死んだ人が馬橇で運ばれてゆくさまを見たとき、自分が死んでも決して不思議ではないのだと思いました。夏のカンカン照りのある日、ペスト特有の真っ黒の死体を奉天の北の端の瀟酒な街並の傍で見たこともありました。そのためか、生きるために最良の方法は何かを考える習慣がいつの間にかついてしまったのです。

奉天であの混乱の中をよくしのいできたと思うし、人間はいざというときには、計り知れない力を発揮するものだ。特に子供の頃には大人が及びもつかないような可能性をもっていると私は心から信じているからです。親の私がやってこれたのだから、子供達も必ずやってくれるはず、と子供を信ずる方がどれだけ力になるでしょう。

よく子供をつくるといいますが、残念ながら私には意識をして子供を作った覚えがないのです。子供は神によって授かった宝物、預りものだからできるだけ早くお返ししなければならない。そのためにはどうしたらいいか。一日も早く日々の生活の中で出会う事柄を自らの力で対応できるようにすることだと考え、神にお返しすることは社会に出してやることだと若いときから考えていました。その姿勢で折にふれ二人の息子と会話を積みかさねて来れたことはとても感謝なことだと思っています。






不思議な出会い



今から十三年ほど前に春遍雀来著【ユダヤ感覚を盗め】を買いもとめてそのままにしてあった2000年になってまもなくのころ友人との雑談のなかで、若いときから関心をもっていたユダヤ人について、もうすこし納得のいく勉強をしてみたいという想いがおこった。

それから機会あるごとに関係書を新刊、旧刊を問わず書店で買い求めた.ユダヤの歴史書のなかには、かなり専門的に深くほりさげたものがあって、よほどの根気がないととても読めないものもあったが、よみやすいものから読んでいった。 手に入った十数冊をおおかた読み終わって、本棚を整理していると゜くだん の本が目に入った、手にとって何ページか読んでみると途中でやめられなくなった、読んでいくうちになんと発想のしかたが自分に似ているのかと驚かされた。

その理由はまたの機会にするとして、おおきな共感をおぼえた。 そんな感動の余韻がまだ頭を占めていたころ、さいたま新都心で中小企業団体のさいたま地区の定例会があった、隣り合わせた親しい仲間内では春遍雀来の話題で盛り上がった.会がおわるころ、背の高い礼儀ただしい青年がやってきて、帰りご一緒させていただいてもよろしいでしょうか、と声をかけてきたので、どうぞ、どうぞ、いうことになり横浜までご一緒した、私には連れがいたので三人になった.

私と仲間のKさんはまたまた春遍雀来のはなしになっていた。すると、好青年が、そのひとはハルペンと言う人ではないですかと話に加わってきた、そうですよと答えると、僕はその人の息子さんのバラキと親友ですと言って携帯電話のメモリーを検索して見せてくれた、なんと言う不思議、一期一会は単に偶然の所産でないことをいよいよ確信してもいいのではないかと思いながら一方では【ユダヤ感覚を盗め】がもう書店にはないが、もしかしたら著者である父親のもとにはあるかもしれないなと考えていた。

そして、あったら十冊ほどほしいのだがと好青年に言っていた。彼はバラキもきっと喜びますといって後日本の在庫についてバラキに確認してご返事をしますからといって横浜駅で別れた.Kさんとは出会いの不思議さを語りながら藤沢までご一緒した.

二三日して好青年から電話が入った、親友のバラキが是非とも私に会いたいと言っている、ただし彼はアルバイトやライブをやっているのでそちらまで行く時間がないという、いいですよ私のほうから出向きますからという事になって、その夜南新宿駅構内にあるキャフェテリアで二時間ちかくユダヤのことや彼自身の永い日本での生活で感じたことなどを主にして話してくれた。

そして、私たちの主催するSDMサロン会に【バラキライブandトーク】で出演していただくことにつながっていった.そして、今、吉祥寺のライブハウスでは【バラキワールド】のフアンが少なくないという.一期一会、人の出会いは不思議なものです.



折々の記へ