「大倉陶園での500日」


 
      2004年2月に入って間もなくのころ、インターネット上で大倉陶園の元社長百木春夫さんの訃報を知った。亡くなられた期日を追っていくうちに、大倉陶園のデザイナー前田一馬さんのホームページにいきついた。前田一馬さんの入社が昭和35年と知って、百木春夫さんの追憶と共にその頃体験したさまざまな事柄が思い出された。前田一馬さんの入社年と同じ年の8月、当時 柏尾町の県営アパートにいた伯父の家に寄宿していた私は、伯父や伯母の薦めもあって、大倉陶園の門をたたいた。伝もなく、社員募集もない中、無鉄砲にも営業部門で働かせてもらえないかと唐突に申し出た。それでも採用担当の方は丁寧に対応してくださった。今営業には空きがないので焼成の仕事ならということだった。いずれは営業にという含みをのこしての入社だった。
 
   

    翌日、焼成課に配属され、素焼きして、うわぐすりをかけ終わったものを、窯詰め前の台車に、耐熱材の板や支柱で品物の大きさに合った空間を設け次々に半製品をその中に収めていく。詰め込みを終えた台車が整然と並んでいるのをみると壮観だった。あとは台車上の容積がゲージゲートをはみだしていないかを確認する。 慣れてきた頃夜勤をするようになった。絵付けの電炉での作業だ。世界一白いその白さをだす高温の本焼成窯に比べると規模は小さい。還元炎で焼くわけでないから、安心感があった。やがて本焼成窯の熱の管理を責任者について学んでいく。当時でもほとんどオートメーション化されていて自動的に調整されていたが、炎の色で微妙なところを調整していくのは熟練した人間の感がたよりだ。たとえひと時でも、酸化炎で焼いたら、白さにしみができ製品の歩留まりに致命的な影響がでる。還元炎でしかも高温を維持する。炎をみて炎の色で判断するのだが、その基準が私にはいまひとつ解らなかった。そこに自分自身への頼りなさを感じていた。
    そのころの、大倉陶園といえば、九州の有田や唐津、伊万里、の出身者が多く製造部門では九州弁が公用語だったといってもよいほどだった。蒲田から秋葉町に移って間もない頃だったように思う。それでも工場事務、デザイン、総務、業務では九州弁を聞くことはなかった。なかでも業務は対外的に大倉陶園を代表するだけに品位には特に重きがおかれていたように思う。私だけの感覚かもしれないが製造の側からみると、業務は別世界のように見えた。その業務で颯爽とお仕事をされていた方が1月23日に亡くなられた百木春夫元社長だった。当時私が望んでいた業務<営業>の課長さんだった。
    私が大倉陶園に在籍したのはほんの1年と少しだったが、短い期間にも関わらず、普通では出会うことのない機会に恵まれた。最初は、インドネシアのスカルノ大統領の会社訪問だった、当時日本の戦後賠償で、インドネシアを代表する国際ホテルの建設が進められていた。そのホテル用の洋食器を大倉陶園で製造していた。金と銀のエッチングを施した縁取りはとても高級感のあるものだった。ほどなくして、今上天皇がご成婚間もなくの頃、当時皇太子だった殿下が美智子妃殿下を伴われて大倉陶園へ訪問されたことがあった。
    両殿下が工場の見学を終えられて、貴賓室でおやすみのあいだに、持ち場を離れられる社員はみな広場に集まり一列横隊に整列してお帰りになる両殿下お待ちした。今でも印象に残っていることは美智子妃殿下のされる会釈がまるで一人一人にされているように見えたことになにか大切なものを発見したような気持ちになった。きっとそういう作法を学んでおられるのだろうと思った。もう40年以上もまえのことだから記憶に定かでない部分があるが、前後して美智子妃殿下のご両親正田ご夫妻もおみえになられた。絵付にいる大先輩から美智子妃殿下は白樺がたいへんお好きとうかがった。大皿に白樺の絵を手ずから描かれたものを焼いたように思う。また一方どうも麦の穂ではなかったかとも思う。穂先の長い麦の穂がとても深く印象に残っている。もしかすると美智子妃殿下のお母様の作品だったかも知れない。その後東宮御所用のばらのエッチングを施した金と銀のパン皿を焼いたことを今でも覚えている。特に印象深いのは現皇太子浩宮さまのお食い初めセット一式を焼いたことだ。クマのぬいぐるみをモチーフとしたあたたかい図案がいまでも脳裏に浮かんでくる。
    今思うとまさに時代を象徴するようなできごとに直接ふれる機会があったことをとても不思議に思う。柏尾川の氾濫もあった。また横須賀線の秋葉町踏み切り付近で起きた大惨事、仕事中にもかかわらず数名が消火器を持って事故現場に駆けつけた。とっさの救急活動で後々関係機関から表彰されたが、あの惨状はとても経験のないものには手の施しようのない悲惨な情景だった。
    人生は悲喜交々大倉陶園では仕事仲間にも恵まれ、人生の先達にも恵まれた。
無言のうちにも人を心服させてしまう温厚な日野工場長、私もあのようになりたいと心ひそかに思っていた。また、身近にいて私に人生の指針をあたえてくれたのが田中義清さんだった。九州弁にも自分でもいたについたのではないかと思うほど親しんだ。あの頃の葉隠れ武士たちは元気だろうか。白を基調とした大倉陶園の全景、みどりの芝生、つつじの5月のコントラストはこの上もなく瀟洒だった。そして誇らしさをもっていたあの頃の若かった仲間たちの顔が浮かぶ。
   百木春夫元社長のひまわりという陶板の名作があることをインターネットで知ることが出来た。思えばひとつの時代が駆け抜けていった行ったという想いをきんじ得ない、心からご冥福をお祈り致します。