文盲ゆえに学んだ微笑 「朱さんのお嫁さん」


  友人に紹介された植木屋さんが朱さんだ。
2005年の3月に版画家である友人が庭木を植えたので、2006年3月には私のところでも、と考えていた。 2006年の3月の初めに友人と朱さんがやってきて庭を見ながら、こちらの希望も入れながら大方のデザインをして下さった。
最初に決めてあったことは樹木はすべて4メートル未満の若木でいいこと。
移植によって枯れることのないことを第一に考えてのことだった。 出来たら3メートルぐらいの木が中心ならなおいい、とも伝えておいた。

  それから何度も電話で植える木の選定をめぐって、家内は連絡を取っていた。できるかぎり実をつける木を中心に名前を並べていたようだが、花だけで結実しないものも少なくないようだ。   とりあえずないものは仕方がないので、別の植木屋で調達することにして、50本に近い樹木を3月中に植えることにした。

  3月も余すところ2日だと思っているところに電話がかかってきて、明日伺うという。 翌日、朝9時頃、朱さんはじめ、男性2人、女性5人の総勢7名でやって来た。 次々と穴を掘り、女性たちが主になってどんどんと植木が植えられていく。 仕事が流れるように運んでいく。 女性たちの息がぴったりと合っている。 指図する者もいないのに、一つの無駄もなく、刻々と庭の景観が変わってゆく。

   そして本日のメインイベントというか 「白玉蘭」 を植え込む順番が来る。 枝の張り具合はまさに円形で、直径は2メートル以上ある。 根も大きめにして保護されている。 いよいよ男たちの出番になる。  「ヘイッオ」 「ヘイッオ」 さしずめ日本の 「ヨイショ」 「ヨイショ」 と云うところなのだろう、なんとなく見ているほうにも、おのずと力が伝わってくるようだ。 大の男の手に余る大きさと重さだ。  それでもお昼を挟んで大方かたづいた。

  そしてその後、朱さんのことは忘れていたが、李 璞(リープー)の奥さんである陳さんとの会話の中で、朱さんの話しが頻繁に出てくるので、私もいつしか朱さんのことについては良く理解している心算だった。 ところが何も知らなかったのである。

  2006年の5月3日、李 璞の愛息、美太一君と台湾の実業家のお嬢さんとの結婚式が、上海のヒルトンホテルであった。 (この結婚式についてはまた、機会があるときに書こうと思っているがここでは割愛させてもらう。) 李 璞夫妻も、天天(テンテン:美太一君のこと)も日本を離れて6〜7年になるのに、日本から14人もの人が結婚披露宴に参加した。 そしてその全ての方々とのお付き合いは、長さが一番の特徴だと云っていいだろう。 それだけに李 璞にとって時間に余裕のある人には精一杯のお礼をしたい気持ちで一杯だったのであろう。

  朝早く上海を出て、ルージィの古鎮には10時半頃到着した。 ゆっくりと古鎮を巡り、昼食は古鎮でも名のある代表的な古鎮料理を総勢9人で囲んだ。  夕方、「君安ヴィラ」に戻る。 「ヴィラ」とはイタリア語で大邸宅、大マンションを意味するらしいが、広さだけはまあまあ合格だから、これからは自称 「君安ヴィラ」  「チンアンヴィラ」 と名乗らせていただくことにする。  李 璞宅でしばらく休んで 「君安ヴィラ」 内にあるレストランで夕食をすることになった。 夕食が終ったら、李 璞宅でカラオケ、そしてお客様は 「ヴィラ」内にあるホテルにお泊りいただく事になっていた。

  5日が李 璞さんの真骨頂、私も思いつかなかったが、皆で朱さんの家に行くことになっていたのである。 「君安ヴィラ」からは車で2時間ほどのところにあると前もって聞いていた。 車中では結婚式のことや、李 璞の話す朱さんの話が続いている。
もうそろそろかなと思っていると、朱さんの顔が急に目にとびこんできた。 朱さんの家のまん前に車は停まったのだった。 石造りの家はなかなか立派で、村の様子から見て朱さんの家が好立地にあることがすぐに理解できた。 道すがら李 璞さんが話していた 「朱さんは村一番の文化人として尊敬を集めている」 と言っていたことについてもなるほどと思った。 その時代には全くめずらしいと言っていい、村でたった一人の高等学校の卒業者なのだ。

  朱さんには23歳になる息子さんがいる。 今年の春に上海にある海軍に入隊して、朱さんが海軍に招待された。 そして家の玄関には 「光栄之家」 と誇らしげに金文字の表札が貼られているのである。 さしずめ日本の70年前ぐらいに戻らないと、これに似た情景にはお目にかかれないのではないかとそんなことを思ったりした。
私事だが、父は末っ子だったから、開戦間もなく戦死した従兄弟たちもいたが、戦死の後の話は栄誉には程遠い深い嘆きと苦しみしか残さない。 70年前に戻っても、100年前に戻っても、栄誉などとは程遠いと言ったほうが正しいのかもしれない。

  朱さんの家は表通りに面した部分が石造りの立派な門構えの母屋になっていて、玄関と応接間が続いていて広々としている。 いまでは朱さん夫婦が母屋で、お父さんお母さんは別棟の隠居所で暮らしている。 お父さんは72歳、お母さんは73歳、もう悠々自適の生活だ。
お父さんは私達に挨拶するとそそくさと近くのお宅に出掛けていった。 朱さんは、父は今人生を楽しんでいるのです、といった。 ごく最近のこと、父親が血管の閉塞で倒れたとはっきりは言ってなかったが、様子からその状態が良く見て取れた。 後遺症は外観的にはほとんど分からない程度で本当に軽く済んだのだろう。 それでも朱さんにとって、また朱さんの家族にとって大きな対応の変化があっただろう。 特にお父さんの人生を楽しもうとする前向きの姿勢、それを朱さんが静かに見守っている。 なつかしく温かな情景を久しぶりにはからずも見せてもらったのである。

  このように穏当な人生に見える朱さんにも、朱さん本来の夢を実現できないでいるもどかしさがある。 朱さんはもともと植木を育成する土地として50000坪ほどの山を村の有志数人と共同所有していて、事業を起こすことが朱さんの若いときからの夢だったのだ。 事業を起こすための条件は全て揃っていた。 ところが朱さんには一番大切なものが自分には欠けていると常日頃、心に感じさせるものがあった。 それは妻が文盲で、事業で一番の援助者が全くの識学力がないことにずっと起業に二の足を踏んできたというのだ。  だから今、妻一人に山の管理を任せて自分は大きな造園会社の一介の造園士として働いていると、半ば己の不甲斐なさを吐露しているのかとも受取れる言い方をする。 そしてそれは結果的に妻への負担を大きくしていると言うのだ。

  朱さんの妻はいつも明るい。 幼いときから自分に欠けているものを知っていたから、それを補うためには何かをしなければならないことを知っていた。  山の管理の中にも様々な工夫が施され、主人に個人的に植木の大量注文が入った時などは手抜かりのないように日頃から準備万端整えている。  育成仲間たちとの日頃の関係においても、いざ鎌倉!の協力関係が保たれているのである。指図がなくても仕事が水の流れるごとく進展していく。 その意味がいま漸く分かったような気がする。  
今でも年に何度か個人的に大量の注文が入る。 それでも正式に起業して公的に認められたもとで名実ともに経営者に、また村一番の文化人になることに繋がることが朱さんの夢だったのかもしれない。

  ラウンドクルーザーから総員9名が降りた。 定員を1名オーバーしていることを気にかけていたが午前中は事なきを得た。  朱さんの家に入るとみな思い思いの椅子にかけていたが、間もなく朱さんは大理石の円形テーブルをセットした。 そしてみんながその円形テーブルを囲むようにすすめた。 15人くらいはゆったりと出来る大きさだ。  これから昼食にするという。  それも朱さんの奥さんが昨日から1日がかりで作られた料理ばかりだという。 それも朱さんのお母さんから一つ一つ教えられたものだ。 どれもこれも中国を代表する家庭料理だ。 私はこの時、文盲の若い嫁と姑の関係が築かれていく歳月についつい想いをはせてしまい、流れる涙をどうすることも出来なかった。

  人生は人の出会いから始まる。 こんなことは皆知っている当たり前のことだが、いざその場に立つと案外具体的にどうすればいいのか分からなくなるものだ。

  中国では何処に行っても 「有縁」 という言葉を聞く、それほどに縁を大切にするお国柄である。 また逆に縁のないものにも実に淡々としている。 若いときは若さゆえの血縁こその争いもあるが、多くは動物の子育てのように、だんだんと必要でないものを自然のうちに見極めて余計なものは剥ぎ捨てていくと、シンプルなアニマルライフになっていくことが良いことであることに目覚めるのである。 間違っても知識偏重などというところにはいかない。

  文盲の若い嫁とその姑の間には、出会いの縁があるとはいえ、対応の方法も選択の自由が双方にあったのも事実だ。 姑にしてみれば文盲の嫁を拒否することが極めて自然の場合だってあるかも知れない。 若い嫁にしてみれば文盲である自分はどうすればいいかを常に第一に考慮していたであろう。 己の欠けているところを理解していたからこそ素直で謙虚に教えを請う姿勢がとれたのだと思うが、同時にうざったくてやっていられないという思いになったって不思議ではないのだ。 忍耐と成長を選択したから、誰に対しても微笑みの顔を向けられるようになった。

  そしてそれが今日までの人生の集大成としてつくり上げられてきたと私には思えたのである。 人生にはさまざまな形がある。 縁があるのにその重さがわからない人、拘わりをもつあまり、縁をかえってこわしてしまう人、現代は身体部分でも精神の部分でも過剰反応が一つの特徴になっている。 経済が発展すると、心と自然の環境に第一に変化がもたらされることは国境のない共通項といえる。 だから人間は知識だけでなく、ますます智恵に磨きをかけなければならなくなってきていると思うのである。  もっと苦しみとか悲しみの中に人生の未来を開く鍵穴がかくされていると素直に思いたいものである。

  煌びやかで華やかに映る経済発展。  経済発展だけが人間を幸せにするという呪縛からはそろそろ解き放たれてもいいのではないかと思うのである。