「先人の言葉から勇気」



 30歳の頃、アメリカの講演家・著述家として知られるデール・カーネギーの著書に出会った。その著書の中で、長い間に亘って印象深く心に残っている文章の一こまがある。

   それは、立志伝中の人物アメリカの鉄鋼王アンドリュウ・カーネギーによって建てられたカーネギーホールにまつわる話しだ。カーネギーホールは世界中のエンターテナーの登竜門として名高い。そのカーネギーホールの観衆、聴衆がどんなときに惜しみない喝采を送るかについて述べている。技量や演技力のたくみさではなく、自分らしさを100%出し切ったときだという。それまでとかく自分らしさをだすことは、自己流、自分勝手、出る釘は打たれる、というようにマイナスのイメージで捉えているところがあったから、自分らしさを、出すことが大切なことを知って、とても勇気づけられたことを覚えている。

   あれから40年近くの歳月が流れていった。人生とは、つくづく自分らしさを見いだす終わりのない旅だと思う。命のあるかぎり、いつもなにかを求めてあゆみつづけるそれが人生なのだ。私は19歳のときに営業で立つことを心に決めてから、より多くの人とラポートするためには、より多くのルクスにあわせる内面をもたなければならないと一時期真面目にそう考えていた。この考え方は一般的には正しいとされるかもしれないが、こんな考え方をしていくと、ますます考え方が硬直して自己さえなくしかねないと思っていた。なにが大切といっても心が生きなくては生きているといえないのではないかとかんがえるようになった。

 そんなときにデールカーネギーに出会ったから、これこそ私が求めていたものだと、心底そう思えた。それからは考え方も変わっていった。どんなに人生が長くても異なった考え方に自分をあわせたりまたその逆に自分にあわせてもらうことなどできない。人生の時間を考えたとき、それほどの時間をもち合わせてはいないということに気づかされた。ならばどうしたらいいか、自分らしさの表現に制限のないことを望むなら、他者の自分らしさをも受け入れる柔軟さをもつことが欠かせないと思った。それでも、意見が合わないばかりでなく、堪忍袋の紐が切れそうになることだってある。そんなときどうすればいいか。そんなときは、その場面で即感情的にならないことが大切ではないかと思い、どんなに悔しいときでも、一晩、できたら三日待つ、それでも、どうしても納得のいかないとき、礼を尽くして反応するようにした。そうしてからは、たいていの場合相手から非を詫びてくるようになった。

   人と人の関係は勝ち負けではない。エンパワーメントする関係が一番だと思う。やはり原則は聖書にあった。ヤコブ1章19節「このことを知っておきなさい、人はすべて聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである」私はデール・カーネギーの著書に出会った御蔭で人生における最も大切なものは何かを知り、そして51歳のとき受洗した。そして聖書からは単なる知識ではなく多くの知恵をいただいた。人間とは人と違っていたいと思う心と、人とあまり違っていては気持ちが落ち着かないと言う心理が働く。あの人は変わっている。そう思われたくない。そんな思いからいつもなにか思い切りのわるい、曖昧なこたえを心ならずもしてしまう。これではいけない、よくても悪くても、はっきりと心で感じることをいうことだと思った。そして変わっていることを恐れる心の習慣こそおそれるべきでないかと思った。変わっていることを自ら宣言をしてしまえば、後塵をはいすることもなくなるものだ。

水はひくいところを目指している。
そしてどこまでも拡がってゆく。
うるおいを見いだすことが人生という旅の目的のように思う。

 久々にデール・カーネギーの著書を開いたら、次の一文が目に入った。
「不当な非難はしばしば偽装された賛辞であることを忘れてはならない」そう思えたら争う心の愚かさが見えてくるのではないだろうか。