「上海・青島・ウエーハイを旅して」


■上海・青島・ウエーハイを旅して

 2005年2月28日久しぶりの中国ゆきだ。航空機もNWのボーイング747型機だ。デトロイト・東京・上海のNW25便。空席はほとんど見当たらない。しかもこのような時期に、さまざまな工夫の積み重ねがこのような結果に結びついているのだと思った。また今回は航空券の発券にかえてFAXで送られてきたコピーをもってチェックインしてくださいといわれていた。リコンファームも不要。画期的と思いながらも、一方こんな紙切れ一枚でチェックインできるのだろうかと思ったりしないでもなかったがチェックインは至ってスムーズだった。簡略化に一寸、驚きと言うか感動していた。

  上海の浦東空港には夜の8時定刻に到着した。これまでは空港からはタクシーと決めていたが、今回はバスの路線番号を事前に知らせてきてあったので、そして空港までの出迎えもまえもって辞退してあった。バスで上海の人民広場に到着するとそこには李・璞 「リー・プー」 陳・美艶夫妻が出迎えてくれた。ほとんど二年ぶりの再会だ。夜もだいぶ更けていたので早速いつものホテルにいって、家内が
チェックインの手続きをする。部屋に落ち着いたところで明日の9時に李・璞の自宅を訪ねることだけ決めて別れた。

 翌朝、李・璞を訪ねると急に蘇州に行こうということになって、私もただちに了解した。急ぎホテルにもどり、荷物もおおかた預けて身軽になって、マンションの地下駐車場に行った。蘇州には3年ほど前に李・璞も私も住むことを目的に家を買った。リープーは主にはアトリエと考えてのことだったが妻の陳 美艷にとっては住まいとしてとても気に入っていたようだった。私はといえば、本当に買って2年間そのままにしてあった。もうなんぼなんでももうほっておけないだろうという事で今回の中国ゆきとなったのである。また蘇州に急遽来ることになったのも、家屋の房証つまり家屋証や鍵を最終的に手に入れておかなければならないというので、まず、最初に済ませておこうということになったのである。別荘地内のホテルに1泊して、食事は李夫妻とともにした。久しぶりの陳さんの手料理にとても満足した。


■隣人との出会い

 蘇州初日の午後食事も終わり後片付けもすっかり終わってほっとしていたところお隣の台湾出身のアメリカで幾つもの事業に成功されたという奥様が窓を叩いていた。陳さんは玄関に回るよう手招きして招じ入れた。それから2時間ほど楽しい会話が続いた。私は今回の中国の旅で最終的に中国のどこに住むのかを決めたいと思っていたが同時にできるだけ自分の意思ではなく神の按排によって決められるとなんとなく確信めいた予感を持っていた。初めてのチンタオ・ウエーハイの旅にしてもなんの先入観ももたず、ただ行って、観て、あとは神的按排、神がお決めくださると考えていた。この隣人との出会いも神の思し召しだと思った。2年ぶりに芝生の庭を踏みしめた芝は枯れているがとてもふくよかな弾力を持っている。芝の上を歩く感触には定住を促すなんとなく心に働きかけるものを感じていた。

 午後になって李・璞が庭のデザインをしたいのでもう1泊したいがかまわないかと言った。私にとっては何時ものホテルに泊まるより安いしなにより空気がきれいなことに満足していたから没有問題ということでもう1泊することになった。朝早く造園会社の人を迎えに行く私達夫婦も一緒に行った。李・璞はきっと客は1家族だけじゃないと思わせたかったのだろう。自宅の庭のデザインが終わると私の住まいのほうも造園会社のひとに一巡させていた。お隣の台湾のご夫婦は蘇州の街中に買ってあった住まいの内装が完成したとのことで今日はそちらへお出かけだと言う。李・璞も私たちも蘇州でやらなければならないことはやり終えたので明るいうちに上海に戻ることにした。


■夜行列車で行く青島「チンタオ」

 「新空調・軟座快速臥鋪」つまり寝台列車なのだ。所要時間は18時間昼の12時に上海を出て、翌朝の8時24分に青島に到着する。料金は1人472元2人で944元だ。旅行会社に帰りの航空券を勧められた。青島ー上海間が470元空港使用料込み、二人で1040元だった。中国も鉄道と航空会社の激しい競争が始まっているのだ。山東航空公司地方の航空会社も生きのこりに必死だ。上海から青島までの距離はおよそ1100Km 上海からは列車は内陸へ内陸へとそして済南「チーナン」から大きく右に折れて青島に向かう「チーナン」はサッカーのブーイングで有名になった中国の都市だから街のただ住まいだけでも見てみたいと思っていたが真夜中で気がついたときは通過していた。無錫・常州・南京・除州 と懐かしい駅名にも日本人としてはただ手放しでなつかしさを表現する気持ちにはなれないところがあった。ODAや円借款を受ける一方で15年もの間、嫌日運動が同時進行で行われていたと言う。これまでは政府が笛を吹いても国民は踊らなかったというが、重慶・済南・北京のサッカー場では国民が踊ってしまったことに当局者は驚いていると言うのだ。所得の格差に対する国民の不満、またいつまでも改まらない官僚の汚職、そのような不満が日本人に向かったのだと言う。そんなことから今回は出来るだけ日本人に見られないような服装を心がけた。  

 ネクタイをしない。中国の老人しかはかない防寒ズボンをはいてみた効果は覿面、料理店にいっても日本人には見られていないようだった。青島駅に到着した。チンタオでもタクシーの客引きは激しかったがマークのハッキリしたタクシーを選んだ。ホテルの東方飯店まで7元だった。


■青島の印象 

 ホテルが青島の大学路の近くにあり、続く太平路と古い洋館のただ住まいがなんとも落ち着いた街並みを造っている。太平路を少し下ると眼下にはエメラルドグリーンの海が広がっている。海の向こうには青島の新市街のビル群を望む。海岸沿いの一面の岩はみな赤土色だ。海水はあくまでもエメラルドグリーン。強い風に打ち寄せられる波は真白に砕け散る。生活廃水が流入している痕跡は見ることが出来ない。どうしたらあんなにきれいな海水の状態が保てるのか不思議に思った。青島は地形的に行って海風が内陸に向かって南風が吹きやすいと言われている。風が吹くことで水質が保たれているのだろうか。上海から青島に着いたのは3月6日だったが氷点下10℃だった。公園に行くと退職した老人が小型3輪の客待ちをしていた。そんな凛とした冷気の中2時間ほど青島の主だったところを案内してくれないか頼んでみた。3輪車の防寒設備はナイロン布の囲いだけだから体感温度はとても低く感じた。なんとか旧市街ドイツ時代からあるといわれる街並みも、また間もなくすべて取り壊されて全く新しい街に生まれ変わるといわれるところも一巡した。ともかく海の色も空気も凛としてすがすがしいというのが印象だ。翌日も3輪の小父さんいるかいないか、のぞいてみるといたので市場に連れて行ってもらう。そして海産物や棗を土産として買い揃えた。


■ウエーハイへの旅

 3月8日の朝マイクロバスでウエーハイにいくため、タクシーでバスセンターまで行く。ウエーハイまでは300km 時間は3時間半かかると言う。周りはみな中国人、しかも当たり前だがみな初対面、青島を出発して何箇所かで客を拾い、また荷物の受け渡しも何箇所かでしていた。青島を出てから1時間ぐらいの間にマイクロバスは人も荷物も一杯になった。バス料金は一人45元、暖房設備はないからしんしんと足もとから寒さが這い上がってくるようだ。午後1時半ウエーハイの駅舎近くのバスセンターに到着このバスセンターから中心街に出るためにはタクシーで20分ぐらいかかると言う。連日のパタパタ3輪車での観光が祟ったのか風邪をひいてしまったらしい。ウエーハイの海岸線を特に綿密に環境を調べてみたいと思っていたが、風邪を治すことが先決と思いホテルで睡眠をとることに専念した。ウエーハイは青島と違って海岸線は狭くそして長い。ごく一部を除いて海岸線と道路の間が100メートルぐらいで海辺の感じは青島より大連に近いかなと思ったりした。気候としては青島は南から風が入るのに比べ、ウエーハイは北からかぜが入りやすいので、青島に比べ霧が出にくいと言っていたが、私の感じではウエーハイのあさの霧は深そうに感じた。ウエーハイのウエーハイウエイターシャで2泊して、帰りは青島までの大型バスがあったので青島まで、身体的疲労も少なくて済ますことができた。ウエーハイは韓国の仁川に海をへだてて向かい合っており大型船による定期航路が開かれている。韓国料理店や中小の商店がにぎやかに軒を並べている。韓国人のたくましい国民性をウエーハイでも。ハングル文字のネオン看板が元気だ。

 青島で2泊帰りは青島空港から一路上海へ1100`メートル1時間20分の空のたびだ。上海のホテルについて間もなく李・璞夫妻が慌ててやってきた。そして上海のマンションの鍵を蘇州に忘れてきてしまったと言うのだ。私が2日後日本に帰るので今日はカラオケでもと思い帰ってきたが家に入れないと言う。
 それなら、陽のあるうちに蘇州に行ったほうがいいと送り出した。体調もほとんど回復していたが尚大事を取る意味で安静に努める事にした。そして私は今回の旅で風邪を引いてしまったが腸内細菌のお陰で発作後にもかかわらず健康が守られた。ニトログリセリンもブドウ糖も必要なかった。内分泌系、神経系、免疫系が守られていることがいかに大切であるかを実感する旅となった。 

 体力にも心なしか自信が持てるようになったので近く蘇州に向けて旅だちたいと思っている。