『神父さんのこと』




ある日、商用で小田原から新大阪行きの こだま に乗ったとき、60歳後半と思しき、ドイツ人の紳士と席を隣り合わせたことがあった。  

身長190センチはあるかと思われる、大男で、そのいでたちは登山家のようであった。自由席の最後部だったので、固定されたテーブルがあり、そこにはスポーツ紙と、どうみても大きさ厚さからいって聖書ではないかと思われるものが置いてあった。

スポーツ紙を置くと、時々その聖書と思われるものを開いては、また置いた。 私はその頃受洗をして三年ぐらいたったころで、信仰を持ち続けることは簡単でないことを知り始めていた。

おりがあれば外国人が信仰をどのようにとらえているのか知りたいと思っていた。日本のスポーツ紙を読んでいるくらいだから日本語がわからないことはないはずだと思いながら、おそる、おそる、クリスチャンでいらっしゃいますかと、問い掛けたところ『私は聖公会の神父で日本には四十年住んでいます』と答えられた。
そこから話はつぎつぎとはずんでいった。  

あれから十五年ぐらいたつだろうか今でもはっきりと会話の内容を覚えている。そのひとつは『神は小さなものに対する愛をお喜びになります』もうひとつは、私の知っている京都の大学教授はこういっていますよと、前置いてその内容について話してくれた。  

日本人の信仰者は、水をいっぱいに張ったタライに湯呑みを伏せて浮かしたようなものだ。タライを動かすと水面が揺れて湯呑みは互いにぶつかり合ってやがてみんな沈んでしまう。

欧米の信仰者は水面にビールの空き缶を浮かべたようなものだ、タライを動かすと激しくぶつかり合い騒がしい音を立てるが絶対に沈まない、わたしは心の中でなるほどと思いつつ『神父さん、どちらが良いのでしょうか』とたずねたところ、神父さんは「そうですね足して二で割るのがいいのではないでしょうか」、
余り個人主義が進むのもどうかなと考えますと付け加えられた。  

気が付くといつのまにか目的の駅についた、別れ際神父さんは「いい信仰が持ち続けられますように」私は岐阜羽島駅で下車した。ホームに降りて振り返ると神父さんは車窓から手を振っていた。