「君安ヴィラの小黒」


  小黒 「ショウヘイ」 とは、君安「チンアン」ヴィラの門衛たちが飼うことに決めた子犬の呼び名である。さしづめ チビ黒というところだろう。
この小黒が若い門衛たちのペットとして飼われ始めたころは生まれて60日ぐらいで、まだ首輪もなく、紐でくくられて君安ヴィラの正面ゲイトの大きな門扉に繋がれていて、いつも所在なさそうにしていた。

  そんな小黒が君安ヴィラの環境に少しでも慣れるようにと考えてのことだろう。 門衛がかわるがわるヴィラ内を散歩につれて出るようになっていた。
紐でくくられるの余りに嫌うからだろう、門衛たちが何時とはなしに紐なしで散歩するようになっていた。

   そして3ヶ月も経過した頃、身体も大きくなって門衛たちの残飯だけでは足りなくなったのだろう、ヴィラ内に自分のファンが何処の家にいるか小黒は知っていて、その家々を訪ね歩くようになった。訪ね歩くといっても戸口で吼えるようなことはしない。 玄関先で待っていたり、庭の芝生で待っていたり、時には静かに寄ってきて、黙って座っていることがある。 そんな時はびっくりするが、なんとなく心の通い合うのを感じるのである。

  1969年から1982年まで、13年以上にわたってペットフードの流通を業としていたので、ペットについてはそれなりに勉強した。 70歳になった今日でも、少し時間をかければ200犬種ぐらいの名前は挙げられると思う。 また、病気や動物の心理学についても学んだので犬についてはなんとなく自信をもっていた。

  小黒は雑種だがその見目形にはなんとなく品格が備わっているのである。真っ黒な顔で両の目の上に眉毛のように黄色の斑点がある。 胸は白く、白と黒の境目にはアクセントのように眉毛と同じ黄色というか茶毛がかすれたように浮いているのである。
そしてまた、4本の足にも白が大きく入っていて、白と黒の境目はやはり胸と同じようにかすれ模様が浮いている。
  ゴールデンレトリバーを黒くし、さらに短毛にしてほんの少し精悍な感じにすると小黒が出来上がるのではないだろうか。

  小黒は遊びたい盛りの生後7ヶ月ぐらいのときでも、遊びの継続を無理やり要求することは無かった。 また、少し本気になってやっつけようとすると、たちまち距離を保ち、自分ひとりの休憩の体勢に入るのだ。 争いのきっかけは決して自分からは作らないのである。
 そして何時も感心するのだが、自分の体勢はリラックス体勢で腹を相手に見せている。
いつも緊張しないでいることを知っているのだ。

  あるとき、小黒にとっては言葉はあまり重要ではなく、むしろ人間の心の動きの法則のほうが彼にとってはすべての事柄を理解する上で大切なのではないかと思ったことがあった。
とっさの場合日本語で叱るが、小黒には言葉はわからないが、ほめられているか、叱られているかは彼にはわかっているのである。
重ねて叱ったとき、たしなめられたことをわざとやるのだ。

  ある時、上海にいる李 璞(リー・プー)から電話がかかって来て、「別荘の電話が人もいないのに発信記録が出ているので悪いのだが家の外側からでいいから中の様子を見てきてほしい…」と家内に頼んできた。

  たまたまその日は家内が小黒の好きな鶏の骨を斧で潰してつくった肉団子が二つあったのでそのまま小黒に与えたという。  与えてから 李 璞の別荘の見回りのあることを思い出した。
ところが周囲はもう暗くなっている。 見ると小黒は一つの肉団子を口にくわえたところだった。 家内は小黒を大きな声で呼び、後からついてくるよう促した。  そして家内が別荘を二周する間、ずっとそばについていて、いわばナイトの役割を果たしたと云う。 そして小黒が自分の役割が終ると、飛んで帰って残りの団子を食べたという。

  訓練を受けていない犬がご馳走を目の前にして、人間の命令に服するということは、信じられなかったが、一つ目の肉団子をくわえたところだったと聞き、納得がいった。  小黒は丸一歳のころ、成長に栄養がついていけない時期があった。 目の周りと上あごに疥癬とアカラスの兆候が見られるようになった。

  大型スーパーの欧尚「オーシャン」でラルストンピュリナ社のドッグチャウ1.8kgを買ってきた。 キャットフードで人気の高いフリスキーが目に付いたので手にとって見ると、なんとラルストンピュリナの製品になっているではないか。  日本を離れ約一年半近く経過する間にも、食品の味や商品の仕様は絶え間なく世界仕様に向けて離合集散して日進月歩していることを肌身で感じる。

  小黒にドッグフードを与えると、案の定、一日目は余り喜ばなかった。 ところが二日目には喜んで食べるようになった。 嗜好には合わなかったが、体には合ったのだろう。
暑さも峠を越え、小黒の毛艶がよくなってきた。 疥癬とおぼしき目の周りの脱毛も、アカラスで炎症を起こしていた口の周りも、今では前にもまして毛艶がよくなっているが、どうも今回は蚤が住み着いたようだ。 小黒にはドライシャンプーとブラッシングを考えているが、体が大きいので手に負えるかどうかそのことが少しばかり気がかりだったが、同時に小黒の人を信頼する無防備さについてもなんとなく危惧の思いがわいてくるのをとめられなかった。