「心筋梗塞の発作と入院」



■猛暑のあと

 2004年10月のはじめの頃、連日の猛暑との戦いにも一区切りついたと思われる頃、身体がこれまで経験したことのない大きなマイナスの反応を示した。急激な下痢と、胸がしめつけられるような痛みが俄かに起こった。1日半ほど痛みに苦しんだ。まさに居ても立っても居られないとはこの状態をいうのではないかと思った。

 そのあと体調が落ち着いたので風呂に入った。いつもと比べなんとなく心もとない感覚があったが風呂から上がって体重計に乗った。驚いたことに体重が五キロほど増えていた。すぐに理由を理解した。心筋梗塞が起こって、胸に水がたまり始めたのだろう、両足が見る間もなく浮腫んでいるところから見て、ただごとではないと思った。発作からもうゆうに15日間は過ぎていた。徐々に心不全の特徴である呼吸困難が進行して行っているように思えた。明日は金曜日、病院にいくなら最後のチャンスだろう。なぜかそのように思えた。夕方次男に電話をかけ翌朝病院にいく手はずを整える。病院にいけばおそらくそのまま入院になるだろう。考えてみれば、もう26年以上も、歯、眼、耳、首から上を除けば、病院には行ったことが無かった。そんなこともあってついつい我慢できるところまで我慢してしまったのかもしれない。


■入院

 翌朝てはずどおりの時間に病院に到着、次男が受付を済ませ、レントゲン、心電図、採血、採尿を終わって車椅子で外来患者の待合室で待つうち、午前中の外来が300人ぐらいはいただろうかその最後になってしまった。入院だなと思っているところで名前を呼ばれる。入室すると医師から家族も同室するよう言われたので家内と次男を呼ぶ。家内は中国人で日本にきて2年半になるがまだ日本語が充分ではないので次男を同席させた。

 主治医の話では冠状動脈のいちばん重要な部分が詰まっているようだ。今の段階ではまだ完全に詰まったとは言い切れないがとまえおきしてどうも原因は糖尿によって動脈硬化が進行したものと思われるといった。最初心筋梗塞の発作と思われた時に、すぐにきてもらえれば、何事もなかったのにといかにも残念そうにいいながら、いまでは血液検査の成分分布から見てすっかり落ち着いてしまっているので、無理やり詰まったところをほじくるようなことはしないほうがいいと思うといわれた。ただ ヘモグロビンA1c 10.3ととても高いし心不全の特徴である呼吸困難が起こっているのと、胸に水が溜まっているので、応急処置の意味でとりあえず2週間の入院が必要ということだった。その時私の足は普段の1.5倍位に浮腫んでいた。呼吸も苦しかったのでそのまま、F病院の入院患者になった。


■対応は速やかに

   今回全く予期していないかたちで発作は起こった。突発的に起こるから発作というのかも知れないが、この発作によって、教えられたことは少なくない。 第一に重く受け止めたのは、発作が起きたら、まず病院にいくこと。できるかぎり速やかに対応することがなによりの方法であるいうことだ。わずかな時間的対応の遅れがしばしば取り返しのつかない事態につながることが多い。
   私はほとんど20年間に亘って継続して腸内細菌を食べ続けているので自分は大丈夫という気持ちが無意識のうちにも心のどこかにあったのかもしれない。腸内細菌継続摂取の効果はこれまで骨折や手術後の回復の早さで確認している。一般に比較して三分の一以下の時間ですんでいるというのが私の認識だ。今回の入院でもたぶんにその関わりを認めざるをえない事例がいくつもあった。心筋梗塞の発作を起こしたにもかかわらず、トータルコレステロールは 139 だった。ところがHDLコレステロールも39しかないことも分かった。HDLコレステロールが39しかないことはこれまた動脈硬化ということなのだ。そこで私はなぜこんな結果がでたのか自分なりに考えてみた。

   そこでたどり着いた結論は喫煙が大きな原因であることを改めて理解するしかなかった。喫煙のたびにおこる毛細血管の収縮が動脈硬化を進める。その上に糖尿がすでに12年前に発症していたことをハッキリと確認する機会ともなったのだ。12年もの間眼も悪くならずに過ごしてこられた事実をこれまた単なる偶然として受け止めとめることもできない。また今回の発作の時間が一日半と長く、発作の間中私には意識があった。発作が重篤であればしばしば発作途上で意識がなくなるのではないだろうか。そのように考えてみると発作自体が幸いなことにとても軽かったのだと思った。 
   

■治療の手順
 
 10月22日昼近く、ベッドの上の人となる。移動は全て車椅子、尿も尿瓶でとる。利尿剤を中心とした点滴が一週間続くことになった。便は発作のときの激しい下痢以来3週間ほど出ていない。

 糖尿であることが分かったので、米飯が150gと制限された。また食前の血糖値検査が日課のようになった。最初の病室は4人部屋でナースステーションに一番近かった。だからいつも比較的重篤な患者が多かったのかもしれない。時間に関係なく痛いよー痛いよと泣き喚く声が聞こえて来たりする。また自力で排便ができない患者への看護師の介助する様子がそれとなくカーテン越しからも理解できるほどの音量で聞こえてくるのだ。入院当初から点滴のせいか浮腫みも日に日に取れて、睡眠も十分に取れ、呼吸が困難になることもなかったのでちょっとした周囲の物音もあまり気になることもなかった。5日ほどして3階病棟の婦長さんがきて日の当たる窓際の部屋に移ってはどうかといってきた。その時うるさい事をさかんに気にしていたのでそういえばそうかなとその時初めてそのことに気付いたようなものだった。部屋を移るのもいたって簡単、ベッドと冷蔵機能付きのテーブルロッカーをそのまま移動すればいいのだ。点滴装置を支えるぐらいが患者の仕事なのかもしれない。


■部屋の移動」

 大きな窓、部屋一杯に降り注ぐ陽光、眼下には緑が豊かな病院の中庭が見える。欅や、浅緑の針葉樹、晩秋だというのにいまだ緑濃いこんもりとしたささやかながら森の雰囲気をかもし出している。

 左側の高台には併設されているケアセンターが見える。右側には昔からの街道があって車の往来はわりかしうるさい。うるさいといえば、救急車のサイレンと右に曲がりますというアナウンスだ。多い時は30数回もあったろうか。救急車で病院に運び込まれる人が少なくないことを改めて知った。窓際の部屋に移ってほどなくして点滴が外された。入院以来胸が痛くなったり苦しくなったりすることもなかった。もうそろそろ私は主治医と今後のことで打ち合わせの時間を持ちたいと思っていた。看護師は主治医にそのことを伝え3日後にナースステーションの面談室で今後の治療について相談することになった。主治医のスケジュールが過密で時間は決められないとのことだった。まあしかたがないかなと思った。この入院で糖尿であることが分かったのだから、その対応についても学ばなければならない。気分的にはなかなか落ち着けなかったが待つしかなかった。当日がやってきた。昼になった。そしてその日も終わろうする時間になって今日の面談は中止ということになった。仕方がないと思うしかなかったが、患者との約束をたがえなければならない重要な事柄がほかにあるのだろうか。医師だから許されると思っているのだろうか。ここらあたりから私の医師にたいする信頼度は崩れ始めた。

    2日後の5時過ぎに主治医との面談が行われた。面談といってもほぼ医師の一方的な意向が述べられたにすぎない。医師はカテーテル検査を継続入院で行うこと以外には全く関心がないようだった。私は個人の病歴はもっと総合的にとらえているものと考えていたから12年も前から糖尿病が発症していて、今日まで目も悪くならずにすんだことを医師はどう考えているか関心を持っていたから尋ねた。医師は分からないと答えた。私はその答えを予測していた。現代医学は、先端医療機器と生検査の最大公約数的数値によって効率よくシステム管理化される方向に向かっているのだ。その方向に逆行するような質問はしてほしくないといっているように思えた。だから患者もベルトコンベアの上を流れていくような医療に慣れていかなければならないのではないかと思った。それにしても、主治医がいうカテーテル検査を受けるか受けないか選択を迫られているのだ。今回どうするか。継続入院のままでカテーテル検査はしないと主治医に伝える。主治医はかなり火急を要する状態にあることと説明したが、たとえもしもの場合でもそのリスクを私が負う覚悟をしさえすればいいのだと思いながら、一方では冠状動脈がまだ完全に詰まった状態ではないのではないかと思うところもあった。そこで一時退院して様子を見たうえでということになった。そして糖尿による眼科検診と糖尿の専門医師による指導相談の日時が決められて、それが済めば後は退院ということになった。


■18日間の入院

 今回の入院はいろいろな意味で私にとっては良かった。また二人の息子にも良かったのではないだろうか。人間とは火急の状態が目の前に迫らないかぎりその気にならないものである。私はいつも思う。人間とはいつも「あいみての後の心にくらぶれば昔はものをおもわざりけり」経験、体験しないと分からないのである。

 心筋梗塞の発作によってタバコを吸わないことがこんなにも呼吸を楽にすることを容易に理解することができた。また永年の習慣を取り除くことの難しさも良く理解した。私にとって18日間の入院は
主治医を始め、眼科、糖尿の指導医師に出会えたことと若い看護師の方々にも出会う機会ともなった。ヘルパーさんや、掃除のおばさんとも親しくなった。そしてそれぞれの人間模様がいとおしく眼に映るのである。
F病院の皆さんありがとう。