「総括と起承転結」は全ての基本


 
総括とは、広辞苑によると「別々のものをまとめあわせること。」また「全過程を検討、評価すること。」とある。起承転結については「漢詩で、絶句の構成の名称。第一の起句で内容を歌い起こし、第二の承句で起句を承け、第三の転句で詩意を一転し、第四の結句で全体を結ぶ。起承転合とある。」転じて物事や文章の順序、組立。「〜が整わない」とある。世の中の全ての事柄は「計画し、行動し、検討してさらなる立案の繰り返しといっていい。」

  もっと簡単にいえば創造と破壊の連続作業といったらいいのだろうか。物事には初めがあり、そしてかならず終わりがある。そしてその初めのとき、終わりのときには事の次第が総括されて次なる区切りへと進んでいく。
 
  武士や軍人が腹を切って責任を取ったのも区切りとけじめを考えてのことだ。あらためて考えてみるとそのような時代からまたそれほどに時間が経過していないようにも思えてくる。しかし今なお戦禍が継続したままで苦しみ続けている人も少なくない。  それの方々にとっては終戦から数えて61年、ながくて苦しい年月という他にふさわしい言葉はみつからない。

  例年のごとく八月が近づいてくると戦争に関する番組がにわかに多くなり、かなり深くまで掘り下げられたものもあるが、未だ日本国民として第二次世界大戦をどのように総括したらいいかを議題にした番組はこれまでにお目にかかった記憶がない。日本は戦後ドイツがとった大戦への反省とその対応においてよく対比されている。しかしこの対比すること自体が何か荒唐無稽と言わざるを得ない部分をかかえていて、かえって事を難しくする要素をもっていると思うのである。そこでこれまで両国に大きな違いがあるとすれば戦後の総括を自国の立場で行なった国「ドイツ」と行なわなかった国「日本」というところに素直に目を向けて見る必要があると思う。私は終戦当時9歳で父が北京の日本大使館にいたが40歳を目前にした応召で終戦の10日ほど前にすでに中国の大原に出征していた。私たち兄弟三人は満州の奉天にいる親戚の家に預けられることになっていた。母の弟の家だが両親と離れての生活は私に大きな転機をもたらした。敗戦で次々に起こる状況の変化からはなにか人任せにできない差し迫ったものをひしひしと感じとっていた。詔勅を大人も子供も黙祷の姿勢で聞いたあとに叔父のいる満州の「奉天」大使館の父の同僚の望月さんに連れられて行ったのである。

  今思うと当時の通信状況がどのようであったか確認のしようもないが日本の敗戦が一般の中国人に伝わるまではとても永い時間がかかったように思う。当時叔父が住んでいた家は奉天でも数少ない地下室を備えた赤レンガ造りの瀟酒な3階建てのアパートだった。立地が主要道路の交差する角地にあったため終戦の年の冬にはソ連軍の司令部として接収され、ドイツの薬品商社の通訳をしていた叔父もスパイの容疑がかけられソ連の憲兵によってシベリアへと抑留されていった。

  終戦までのアパートの住人は日系ロシア人がいつも3世帯ぐらい入っていたがおおかたは会社の事務所になっていた。アパートの裏庭には静かな木立が続き、ところどころにお屋敷が建っていた。表通りに向かって右側には、日本軍の大きな駐屯地があった。奉天に連れて来られて間もなくのころ、それも深夜3時ごろだった日本の騎馬隊と匪賊の銃撃戦があった。事情がわからないだけに不安もあったが怖いものみたさで活劇の一場面を見ているようなところもあった。終戦から一ヶ月ほどたったころだったろうかソ連の国境に近い北満の方角から、来る日も来る日も日本に帰る人たちの行列が続くようになった。そしてその行列には不思議なことに一般国民の姿はなかったように思えるのである。理由はお年寄りや子供の姿をついに見なかったからだ。

  みな軍の関係か従軍看護婦、まだ暑い時期だったので着衣の色は白とうすい青色、あるいはねずみ色が行列の主だった色ではなかったかと思うのである。毎日毎日行列は乱れることなく続いた。今にして思うとそのほとんどは体力には心配のない青壮年たちばかりだった。女性はみな断髪をしていたが、やはり女性は女性だと子供ながらにそう思っていた。そんな時だった隣の駐屯地の軍隊はと思いつつ確認すると蛻の殻になっていた。作詞家のなかにし礼が私たちは棄民されたのだとテレビ番組で話されていましたが、私も同じ印象を持っている。そして終戦丸一年後の8月15日に母の里にたどり着いた。それからこの方戦争については、永い間帰還兵の間には緘口令が敷かれていたのではないかと思うほど情報の口伝を耳にするようなことはなかった。
これにはなにか暗黙の了解があってそれとなく守られているのではないかといつも不思議に思っていた。