たくましい若者たち


2005年中国で始まった反日運動はあっという間に中国各地に広がる気配を見せていたが程なく収束した。国民が直接政治をやってはいけない。専門家に任せるべきだ。今大切なことは、安定した中で経済を発展させることだ。このような党中央の呼びかけに反日運動はにわかに収束していった。
 
  私はそんな中、5月8日の連休明けに中国にある家の内装を始めるために30日間のビザを申請して中国に渡った。中国滞在中の住み家はリゾート地内にあるホテルだったが、3日ほどで同じリゾート地内の版画家の友人がアトリエにしている別荘の一部屋をお借りできることになったので、早速そこに移らせてもらった。

  車で30分ほどのところにある大型スーパーにこれまた友人の車に乗せてもらって買い物に出かけることにした。飲料水、夜具、食料品、飲料、ビール、調味料、雑貨、等々、当面必要な品を買い揃えたが700元ほどで済んでしまった。

  それからはまず2週間、毎朝5時に起きて雑草の生え始めた友人宅の庭や自宅の庭の芝生の手入れをした。内装の指揮は版画家の友人にお任せしていたので、よほど重要なことがないかぎり私の出番はないのでほとんど毎日が芝生の雑草を取り除くのが私の仕事になった。朝早くにわかずくりの発泡スチロールの椅子に掛けて初夏の朝もやの中でしばし小鳥たちのさえずりに耳を傾けていると、森閑とした高原にいるようで少年時代に親しんだ小鳥たちの名前がひとつひとつよみがえったように次々と口をついて出てくる。それでも名前のわからない鳥たちも少なくない。

  蘇州は「水郷」「スィシャン」と言われるほどに「太湖」「タイホゥー」という周囲150キロほどの湖をはじめ、大小10以上の湖があちこちに点在している。また蘇州市の北東には長江の流域があり、昔は道路網より運河「水路」のほうがとても発達していたように思われる。なぜかと言えば慣れて少しばかり土地勘もできて水田や畑のあぜ道を散策してみると水路が意外に多い。ときとして葦の叢から焼玉エンジンをつけたはしけに出くわすこともある。自宅のあるリゾート地も「澄湖」「チャンホー」と云う周囲30キロほどの湖の畔にある。水辺が多いと云うことはまた多くの生き物たちの住処も多いと云うことだ。小鳥ばかりでなく山鳥や雉、イタチにお目にかかることもある。イタチには獰猛なイメージをもっていたが実際に出合ってみるとその姿はどうしてどうして天下一品の端麗なおごしょという言葉がなぜかぴったりだと思った。そうこうしているうちに日本に帰る時間が迫る。ビザの関係があるから帰らないわけにはいかない。内装はまだ2ヶ月と少しかかるが継続して立ち会うわけにはいかないので内装資金の銀行カードを版画家の友人に預け後を託して日本に戻るのである。
  日本に戻ってからの2ヶ月というものは私にとっては時間を切られた、息抜きのできない隙間のないスケジュールの日々がつづくのだ。ただ駅と会社の事務所に近いということから20年以上も住みつづけて来た賃貸マンション。半分は会社の倉庫のようにして使ってきたところもあるので、とにかく荷物が多いのである。それを5月28日から7月25日までの2ヶ月たらずでとりあえず空にしなければならないのである。まず別の場所に移動可能なものは移動させる。つづいて家具、雑貨、植木鉢、陶器類の整理。大きな家具の引き取り手はいないこともはじめて知る。改めて再生ゴミとして処理をすることにした。そして不思議なことにもう捨てようと考えていたものに、次々と値がついた。大手リサイクル店の女性スタッフがいうには需要者のほとんどは、若い一人世帯ですからということだった。417万人フリーター問題がこんな形で身近に感じられることに日本はこれからどうなってしまうのかと一寸と複雑な気持ちにさせられる。これも勉強のひとつと思いながら次の処理について考える。

   さぁー次は家電だ。実は当初家具も家電も中国に持っていく心算だった。ところが1コンテナだとたいていの運送会社は120万というのである。そこで最終的に必要最小限の荷物をダンボールに詰めて送ることに決めたのである。容積3立方の混載船便、それも大連に本社のある中国の海運会社にしたら2立方を少しオーバーしただけで国内運賃を含め14万5千円で済んでしまった。心配していた400冊ほどあったキリスト教叢書もほとんど無事で中国の自宅に届いた。2005年の1月に見積もりを呼んだ海運会社の営業マンは中国は共産主義の国家だから宗教関係の書籍は絶対駄目です。それに加えて中国は引越しの荷物にも関税がかかりますと言う。しかしその後につづく説明をしないのである。日本の業者は海外引越しも会社対会社の取引が多いのか個人の引越しには余り熱心でないように思う。外国人が運送会社を使うときは細部にわたってとても厳しい条件を出すというが、いったん信頼されるとながつづきするという。日本の運送会社の中にも外国人客を相手にして培ったノウハウを生かして個人の分野に効率のよいシステムで挑戦しているちいさな会社もある。そんな会社には誰もが大きくなってもらいたいと思うのではないだろうか。

  さてさて引越しの荷物の整理も運に左右されるというところもある。それというのは知人の知り合いに結婚する二組のカップルが出現したというのだ。一組は出来ちゃった結婚で準備がないので、いただけるものは何でもいただくというのだ。だからいただけるものはいただいておいて、後で二組で分けると言う。そうなると人間おかしなもので早く分かっていたら不燃ゴミで出した陶器類やそのほかのものももったいないことをしたと思うのである。15鉢ほどあったゼラニュームの鉢までもらっていただいたのである。それでもダンボール箱はじめまだ捨てるにはしのびない印刷物、書籍と1000キロ以上を資源ゴミとした。それで暫くあとは家電製品だけとなった。

  家電製品は新しい物と古いものがあったが一緒にもって行ってもらうことを条件にした。それはよかったのだが連日の暑さで7月25日を過ぎてしまうと言うのだ。家電製品の中にクーラーの取り外しがあったからだ。これるのは7月25日を過ぎてしまうと言うのだ。そのことを会社の後継者になる次男に伝え、7月25日中国に移り住むために成田を飛び立った。7月25日上海のホテルで一泊して翌日に版画家である友人の車で蘇州に向かう。

  まだ内装が終っていないので、前回に引き続いて友人の別荘に仮住まいさせてもらうことになった。蘇州の夏は暑いが朝晩涼しいので助かる。ことに早朝のすがすがしい涼風はなんともいえない。例年なら友人はハルピンに帰っている時期だが私との引継ぎをして先に行っている奥さんと合流するてはずになっていたが、内装も最後の追い込みであと幾日かというところまでこぎついた。そして8月8日に内装を終えた家に移る。友人は途中上海と北京で仕事を済ませてハルピンに向かうと言う。

  内装を終えたとはいえ、まだやらなければならないことはいくらでもあった。家の中のことは、できるだけ家内にしてもらうことにした。私は芝生、植木、特に芝生の手入れをすることにした。この芝生の手入れにはとても時間がかかると経験上分かっていたので、これを是非やって見たいと永いあいだ考えていた。それというのは10年ほど前から自分では分からなかったが血糖値が少し高いことが2004年の10月に心筋梗塞の発作があって病院に行くと検査の結果入院と言うことになってはじめて血糖値が高いことを知ったのだった。なにしろ26年間もの永きにわたって病院にいくことがなかったからこのような顛末になった。しかし私としては10年もの永きにわたって良く網膜が守られていたことにむしろ驚きをきんじえないのである。

  そんなところから2005年5月8日に来たとき徹底して2週間ほど芝生の手入れをしてみたところ血糖値が毎回測るごとに低下していった。そして何時測っても日本にいるときに比べ130以上低下するようになっていた。そんなところから2005年7月25日に中国に移り住むのを機会に8種類ほどの薬すべてをやめて見ることにした。勿論腸内細菌があってはじめてできることなのだが、体調はどんどん回復していった。

  2005年の8月25日、8月最後の日曜日の早朝蘇州にある大型スーパーにいくためパタパタ3輪車に乗ってバス停のあるタオバン「陶濱」にいきそこからバスに乗った。バスに乗ると後部座席にいた学生の一団が席を二つ空けてくれた。咄嗟のことで面食らったが、若者たちの好意に素直に感謝して掛けさせてもらう。4月にはなにせ反日運動があったばかりでなんとなく私のほうは、日本人に見えないように、ネクタイや帽子を被るのもとりあえずやめ、せめて私が原因でトラブルにならないように努めていたつもりだったが、無駄な取り越し苦労だったようだ。席を譲るという行為に敵対感情などあろうはずがない。私が日本人に見えたか見えなかったかは別にして中国での高齢者に対する若者の態度は日本とは一寸と違うなと思いながら、このさわやかなひと時をつくってくれた若者たちに心の中でエールを送った。

  30分ほどでバスは欧尚「オーシャン」前に到着。買い物を済ませて久しぶりの外食だったが中国のファーストフードを試してみることにした。しばらくの間スーパーの入口前の広場でベンチに腰掛けて出入する人や周辺の風物を眺めていて、ふと友人の楊さんが言っていた言葉を思い出した。「中国という国はお金のある人はある人なりに、またお金のない人はお金のない人なりに生活ができるようになっているのですよ。」とその生活の幅が極めて広いことを教えてくれた。そしてこのことは中国を理解する上で大きなヒントになった。その後の中国における生活を通して感じることは、その幅をどのへんに置いたら、現実に近いかこの判断はなかなかに難しいと思った。最初は30段階ぐらいかなと思ったりしたが、30段階でこの巨大中国をひとくくりにすることは、またとてもできないとも思ったのである。

  正直なところ私は100段階ぐらいの階層の広がりがあると見ていいのではないかと思っている。それほどに市場は魔窟のように連なっていてさまざまな意欲をもった人間をうけ入れている。自分は100段階の何の辺にいたいかによってまた努力目標も変わって来る。このような多種多様な形で毎日のように新しい事業が始まっている。中国人は基本的に言って商人だから自分たちの富は自分たちで作りだそうと考えているのではないかと思う。だから現在でも所得の格差は相当なものと思うのだが格差が理由で暴動が起こったことは耳にしていない。唯、幅広い魔窟のような市場の広がりと結ながりがあり、有意な人材の志を受け入れ続けているから自分たちの富は自分たちで作るという考え方がそのまま市場に生きているので所得格差をたちどころに比較対照の方向に向かわせないのではないかと私には思えるのである。そしてまだまだ未成熟な部分が多くて経済が大きく成長している段階では可能性が更なる可能性を生み新たな試みが更なる新たな試みを生み出している。それでも経済発展の形は少しずつ変わって来ているように思う。農民の税が免除されるようになって農村部の購買力が上って来ていて、従来型の沿海州の発展から内陸に向かっているのではないかと想像がつく程の目ざましい発展の実情が見える。内陸へ農村へと大型開発がとても目だつようになった。

  蘇州は、もともと工業先進地でどちらかといえば沿海州といえるだろうが、一方では内陸の玄関口ともいえる。周辺地域のにわかな発展は今後の内陸における経済発展を示唆しているように目に映るのである。久しぶりにゆったりとした時間をもてた。オーシャン前のバス停で、NO.18のバスを待つ。中国ではバスの路線が数字で地区とか巡回するルートが決まっている。数字が違っていても行先によっては便利な場合がある。だから5つぐらいの路線は覚えておいた方が良いかも知れない。NO.18のバスが来たので乗る。帰りのバスはことのほか混んでいた。ところがバスに乗って中央の降車口近くに進んだ頃、30才前後の見るからに優秀なビジネスマン風な男性がにわかに立ちあがって席を空けてくれたのである。私の立っているところから少し離れていたので近くにいた17、18才とおぼしきお嬢さんが軽やかな仕草でその席にお尻を滑りこませた。すると男はお前のために席を空けたのではないと言って席を立たせる。お嬢さんも首をすくめてにこやかに席を立った。私も感謝して素直に席を譲りうけた。この優秀なビジネスマン風の男はきっとそれなりの指導的は立場にいるのだろう。好意で席を立っただけでなく、ハプニングのように起きた少女の行為を笑顔で変えさせる説得力には感心した。一瞬だがバスの車内になごんだ空気が流れた。このような公共の場で皆が何かを学ぶ機会を作ってくれた彼。行きも帰りも席を譲られたことには内心忸怩たるものもないわけではないが、それ以上に若者たちの力強さをひしひしと肌で感じたといっておいた方がいいかもしれない。