「歎異抄とヨブ記」


   歎異抄とヨブ記、などと言うとそれだけで、奇異に感じられる方がおられるかも知れない、それでも私にとっては、新発見であり、この驚きに共感される方が、きっとおられるはずだと思い敢えて折々の記としました。
 
   私は51歳のときプロテスタントの教会で受洗をしました。

   受洗した当時は、45歳のときに再開した会社が、ようやく陽の目をみようとしていたころでした。会社再開でどん底を味わったお陰で、謙虚さのとても大切なことを、身をもって学ぶことが出来たことを、私はとても幸いなことと心から考えていました。受洗して、半年ほど、えもいわれぬ平安が保たれました。この平安はどこからくるのだろう。このような状態を、神がともにいてくださるというにちがいない。信仰とはこのように具体的な形で実感があるものだと言うことを知りました。しかし、半年を過ぎたころから、受洗の以前にもまして厳しい試練のときが訪れました。その試練の中でなぜかヨブ記に目が向いたのです。

   聖書には、しばしば、逆説的に書いてあるところがあります。ヨブは正しいひとであることを神は認めているのに、またそれにもかかわらず、そのヨブが、なぜ死よりも重い試練に会わなければならないのか、永い間心のうちに霧がかかったようなところがありました。それほどに信仰はむずかしいもの、過酷な試練の後にしか、神の真の平安はやってこないものかもしれないと、なにか、信仰の行程にも、この逆説めいたものを、感じているところがありました。

 ところが、歎異抄にふれる機会があって、歎異抄第3章の悪人正機のところで、はっときづかされたのです。この章をご存知の方はとても多いと思います。でも、逆の意味でとらえておられる方がほとんどなのではないでしょうか、私もその一人でした。「善人なほもって往生す、いはんや悪人をや」善人がなにかを理解した後、往生をとげられるのですから、まして悪人はなおさらのことでしょう。私はなほもってと言うところに深い意味があるとおもったのです。善人とは世に言う「いい人」ではないのです。自分の努力や善行によってなにかをする、できると、考えている人たちのことを言っているのです。そのように阿弥陀様にすべてをおゆだね出来ない人は往生できませんよ。ですから[なほもって]とは、阿弥陀様にすべてをおゆだねする心になったとき往生できるのですよ。と言っているのではないでしょうか。他力本願と言うのは、なにか自分には意志がなく、他の力に頼ることだから、それは可笑しいじゃないか、と思う人がおられるかもしれません。善人とはそのような人を指しているのではないでしょうか。
絶対他力になったら、往生できると言っているのだと思いました。

   また、悪人とは、人のものを盗ったり、人を殺したり、法律を犯したりする人のことを言っているのではないのです。悪人とは、人間は自分の力では生死を離れることさえできない存在で、煩悩具足の自分はそのさいたるものだからすべては阿弥陀様にお任せするしか方法がない、だから、ただ、ただ、阿弥陀様におすがりする一心で、阿弥陀様のお力によって往生させていただく、人間にはもともと立派なことはできない。立派なことをする力などまったくない。このことを分かっている人、このような人を悪人と言っているのです。

   私はこれまで、悪人でも往生できるのだから、善人が往生できないわけがないじゃないか、このようにうけとめていました。そしていつも自分は善人の側にいて、少しはましなのではないかと思っているところがありました。このような人間が問題なのだ、常に理屈や比較で相手を打ち負かしさえすればいい、それでいいのだとするような人間が一番始末に悪い。このような人が善人だということを理解したのです。そこにヨブ記が重なったのです。
それは私だけの感覚かも知れませんが。見事に重なったのです。

 ヨブ記第1章1節〜3節「ウツの地にヨブいう名のひとがあった。そのひととなりは全く、かつ正しく神を恐れ、悪に遠ざかった。彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、しもべも非常に多く、この人は東の人人のうちで最も大いなる者であった」そのヨブも次々に襲う災難で家畜も、子供達も、しもべもことごとく失いました。そのことをたったひとり生き残ったしもべから聞くのです。

 ヨブ記第20節〜22節「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え主が取られたのだ主のみ名はほむべきかな』すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった」その後もヨブには次々と災難が襲いました。ときには骨が震えるほどの恐ろしいことにもあっています。それでもヨブは神に向かって恨むことはなかったのです。ヨブは、人間の自分には誇れるところ、誇れるものなど何一つないことを理解していたのです。同時にうめくような苦しみの中にあっても、神への信頼は何にも替えられない、替わるものなどないことを知っていたのです。ですから闇の中にさえ光をみていたのだと、神に信頼する心はなににもとらわれない、ときはなれたように光の世界をみていたのではないかと思うのです。ヨブ記は暗い物語ではなく、本当は明るい物語なのだと思いました。自らに誇るものなど何一つないことが分かつたとき、まわりがにわかに光り輝やいたことを。私は忘れないでしょう、また、歎異抄によってヨブ記の明るさを知ったことにとても感謝しています。