「タラントは大きい」


   マタイによる福音書25章15節
「すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラント与えて旅に出た。」

   この章節を、受洗して間もなくの頃、幾度か読み返した。そして自分にはどれほどのタラントが与えられているのかと思ったりもしたが、そんな解釈では、狭くてつまらない。神からそれぞれ与えられた才能を、それぞれがどのように扱うか、その扱う姿勢について語っているのだ。 1タラントを与えられた僕が、神に咎めを受けるのだが、ここに深い意味があると思った。

  人間にはそれぞれに成功という機会をひとしく神から与えられている。能力の大小はあっても、その人でなければできない、輝かしい道をひとりひとりに備えられているのだ。その道を自ら閉ざすような行為を神はお咎めになったのだ。また1タラントとはそんなに小さいものではないことを僕に解らせたかったのではないだろうか。

 人間というものは、えてして、無意識のうちにも自分にとって都合のいい判断を瞬時にしてしまうことがある。きっと自分には最高のタラントが与えられているかもしれない。そうでなくても少なくとも二タラントはなどと思ったりする。またその逆に謙遜の意味で私は一タラントしかない存在ですからといわれる方がとても多いのに驚く。

 謙遜は美徳としても、なんとなく、心のはばたきをとどめるようなひびきはないだろうか。難しいことは解らないけれど、マタイの福音書25章15節では、神の豊かさ、おおきさについて語っているように思う。宗教は民族、文化、風土、環境、時間、によって、知らず知らずのうちに、その国というか、その地方独特なものになってしまうことがあるのではないか。

 また、清く貧しく美しいことこそが信仰というのもある。私が神に出会った、きっかけはデール・カーネギーの書物に出会ったことによるところがおおきい、今の会社を再開して、どん底の只中にいたころ学んだ、ポール・J・マイヤーも、ナポレオン・ヒルも、前者と内容は同じだった。みな肯定することで、否定が一切ないことに気づいた。その内側にあるものはなんなのだろうと思った時キリストにいきついた。だからキリストは肯定、豊満、甦がえる豊かな命なのだ。清く貧しく美しくという中には限定やなにか枠のようなものを感じさせるものがある。

 永い間一タラントの量がどれほどの量かを知る機会に恵まれなかった。何年かたって、1タラントは100ポンドだということをある時書物で知ることができた。100ポンドと言うことはキロに換算して約46キロ、46キロの金塊を想像してみた、時価で6,500万円、会社の資本金にしたとしても立派なものである。
これほどに神の賜物はおおきい、だからねじまげてうけとめるなんて、以っての外と神はお咎めになったのだ。

 もう20年も前の話になる。神の豊かさが、大気のなかに増幅していくようないい話を聞いたことことがあった。おそらく戦後間もなくの頃のことだと思う。日本のキリスト者がアメリカの教会の招待で生まれて初めて、ナイヤガラ瀑布を訪れた時、感動をこめて、これは私の父親の所有物であると、なみいる人の前でそう挨拶をしたという。翌日の新聞にはおおきく次のような見出しで「ナイヤガラ瀑布の持ち主の息子来る」と報じられたと言う。

 神の豊かさとは、このようなユーモアさえ生み出すのだ。誰が計算したのでもない、神の愛が生み出したのだ。神は遠くて怖い存在ではない、もっと手繰り寄せよう、ひとりひとりの心のうちに。
神はいつもひとりひとりの心のうちにすむことを願っておられるから。
その恩寵の中で、神の豊かさを、もっと知りたいと思う。