クイーンの定員 #089


信・望・愛
Faith, Hope and Charity

アーヴィン・S(シュリュースベリ)・コッブ
Irvin S. Cobb

ボッブズーメリル 1934年
Indianapolis: Bobbs-Merrill


Bobbs-Merrill
1st Edition

「愛すべき老プリースト判事の創造者が書いた皮肉でユーモアのかけらすらない探偵=犯罪小説−−けっして書きなぐった作品ではない、報復と推論、殺人と雰囲気の短編集である。」

エラリイ・クイーン著『クイーンの定員』からの引用(名和立行訳)


 1876年アメリカのケンタッキー州で生まれたIrvin Shrewsbury Cobbは数々の出版社で記者や作家として働き、Saturday Evening Postに勤めていた時にはプリースト判事物を同紙に掲載します。Cobbはユーモア作家、短編作家として紹介されることが多く、生涯に書いた短編は300を越すと言われています。特にミステリ作家として売ろうとした訳では無さそうで、出版された短編集もミステリと普通小説が入り混じっています。本書『Faith, Hope and Charity』もジャンル・ミックスの短編集で、普通小説も何作品か含まれています。
 エラリイ・クイーンが本書を選んだ理由は明確に書かれていませんが、おそらく「信・望・愛」が収録されているからだと思われます。プリースト判事物が収録されていることも理由の一つでしょうが、それだけであれば『Back Home』(1912)や『Down Yonder with Judge Priest』(1932)を選ぶはずです。それだけ「信・望・愛」の存在感は圧倒的で、その出来は本短編集のなかでも飛び抜けています。一度は自由の身となった三人の脱走者が、それぞれ皮肉的な結末を迎える因果応報の物語は、ミステリ史上に残る傑作なのです。
 本書に収録されているミステリは犯罪小説にジャンル分けされるタイプのものが多く、推理の過程を楽しむ様な作品はありません。そこに描かれているのは冷たい残酷な犯罪と、それを犯した人々の数奇な運命で、エラリイ・クイーンが評したように、そこにはユーモアのかけらもありません。
 英語は非常に難解で、読むのはとてもつらかったです。古語が使われていたり、会話文がほとんど無かったりしたこともあって、内容を理解するために何度も読み返さなければなりませんでした。


収録短編
信・望・愛
−Faith, Hope and Charity−
本国に強制送還されることになったフランス人、イタリア人、スペイン人の三人の犯罪者が一台の列車で護送官と共にニューヨークへ向かっていました。ところが三人は護送官の隙をついてまんまと列車から脱走することに成功します。フランス人は南西に向かい、二日後にカンザス・シティーのホテルに宿をとります。イタリア人とスペイン人は共に西に向かい、一軒の小屋を見つけます。脱走に成功したはずの三人が、それぞれ運命的な最期を遂げる本短編集の最高傑作です。
−Balm of Gilead−
ヴァージニア山脈とケンタッキー山脈に挟まれた谷の街で、タルビー家とザチャリー家は何代にも渡って血を流す争いを繰り返してきました。それに終止符を打とうと街が仲裁に入り、両家の長と数人の親族に街を離れて暮らすよう求めて、両家もそれに従うことになりました。タルビー家の長ジェスロ・タルビーは娘とともにシカゴ郊外に移り住み、娘は昼間働きに出掛け、ジェスロは解体工事の見張り番を夜間行っていました。ジェスロはこれまでの争いの名残からライフル銃を片時も離さず携帯しており、周囲からは物騒だと恐れられていました。そんなある日、若者四人組が銀行強盗を企て、ジェスロの目前を逃亡して行きます。争いに関する冷淡な描写と親娘の温かい会話のコントラストが絶妙です。
−The Crime of the Century−
モンロー・クラム氏は家族に内緒で洗剤会社の宣伝広告募集に応募し、見事一等を勝ち取って五千ドルの賞金を獲得します。モンロー氏は半分を貯金して、残り半分でバーベキュー・スタンドを経営するという堅実な使途を提案しますが、家族は同意しません。家族が賞金を散財することに夢見ていることを知ったモンロー氏は、怒り心頭になって家を離れます。家族のなかで弱い立場にあるモンロー氏の悲痛な叫びが聞こえてきます。
−A Detail of the Depression−
企業弁護士のワーデン・クロフット氏のもとに「ブロードウェイ・ブリトル」を出版しているアンガス・サーレイという人物から電話があり、個人的なことで打ち合わせをしたいからすぐに来るよう求めてきます。要求通りにクロフット氏が一人でそこに向かうと、サーレイと他に男女二人がおり、クロフット氏のプライベートなことで強請りをかけてきました。強請りは蛇の腹のようにスムースにいくという表現が印象に残る犯罪小説です。
−Bird in the Hand−
アパートの管理人を務めるギボンズ夫人の部屋を一人の男が訪れ助けを求めてきます。男が雑誌の購読を頼もうと最上階の部屋を訪ねると、返事が無い代わりに何か助けを求める音が聞こえてくると言うのです。ギボンズ夫人に呼ばれた警察官が鍵のかかったドアを破ってなかに入ると、家主のルーガー氏が泥酔しており、その隣の部屋でルーガー夫人が手首を後ろで縛られ、首を吊って死んでいたのです。部屋には一匹にオウムがおり、「お父さん、止めて!」と繰り返して叫んでいました。オウムのせいで被告となったルーガー氏の裁判シーンで物語は構成されており、検察側と弁護側が弁論を交わしながら事件を再現していき、最後に弁護側がオウムを証人台の上に乗せるという破天荒な行動を見せます。ミステリ的にはつまらないですが、検察官と弁護士の丁々発止が楽しいです。
−Nothing to Write About−
週間「ウィークリー・アルゴス」を出版しているポーランド氏は新人のシュルツ君に軍人会ホールで開かれるセールの取材をしてくるよう求めます。それは退役軍人達が所有していた雑貨のオークションだったのですが、誰も欲しがらないガラクタばかりだったので、全く人が集まってきませんでした。出品物の内容紹介が笑えるノン・ミステリです。
−January Thaw−
イギリス人のチャンプニーとモーティマーの二人はニューヨーク行きの船に乗り込み、麻薬の密輸に成功します。麻薬を売りさばいた後、金持ちになった二人は安住の地を求めてカナダ近くの雪の街へ移ります。そこでチャンプニーはモーティマーの殺害を計画し、資産をすべて自分の物にしようと企てるのです。チャンプニーが自らの脚の骨を折りながらモーティマーが行方不明になったと宿主に告げると、すぐに警察を交えてモーティマーの大捜索が行われますが、雪のせいもあって発見することはできませんでした。そして年が明けたある日、モーティマーは宿主からこの地は一月に雪解けするという話を聞き、顔面蒼白になります。チャンプニーの悪意を文字では表現していないのですが、その冷たい心が強烈に読者に伝わってきます。
−The Lightnings of the Lord−
プリースト判事のもとを一人の若い女性が訪ねてきて、殺人の罪で起訴された無実の夫を助けて欲しいと懇願します。プリースト判事は自分の老齢を理由に拒みますが、その女性が戦時中に自分を助けてくれた親友の孫と知って協力することにします。ある夜、酒に酔ったジョン・ハークネスはビル・ローザーという男と喧嘩します。その翌日、ビル・ローザーが殺害され、自宅で寝ていたジョン・ハークネスが逮捕されたのです。ジョン・ハークネスには全くアリバイが無く、さすがのプリースト判事も諦めかけていました。実話をもとにした作品で、プリースト判事が裁判で宗教を語る異色作です。
−Queer Creek−
シカゴの泥棒バウアーはギャング抗争の末逃亡することとなり、その途中でコナーズという元牧場主と出会います。コナーズはマティングリーという博打打ちを交えて銀行強盗を企て、三人は一万八千ドルを手に入れますが、マティングリーは逃亡中に警察によって射殺されてしまいます。その後バウアーとコナーズは逃亡の旅を続けますが、次第にコナーズが権力を握りだし、バウアーをこき使い出します。挙句にコナーズは逃亡生活の世話料をバウアーに要求する始末で、それに腹を立てたバウアーはコナーズを殺害します。一人になったバウアーが奇妙な世界に迷い込む不思議な物語です。
−We Can't All be Thoroughbreds−
ジェロニモを長とするアパッチ族がアリゾナの街を襲い、幼い子供と二人暮らしをしていた女性を連れ去ろうとします。女性は子供を抱えて逃げ出し、子供をうまく茂みに隠しますが、彼女自身はアパッチに見つかり殺されてしまいます。その子供はヤコブス夫婦に拾われ、レンフリュー・ヤコブスという名で育てられます。レンフリュー・ヤコブスは優秀な成績で学校を卒業し、後にアメリカで有数の偉大な実業家にまでなります。ある日、レンフリュー・ヤコブスは出版社から自伝を出さないかと持ちかけられるのですが、彼はそれを丁重に断り、その数日後に死を迎えます。胸を突かれる悲しい家族の物語です。
−The Moral Leopard−
グレイシー・スロカムに二人の男性が求婚しており、そのどちらが選ばれるのかは大きな話題でした。グレイシーは孤児で、叔父のイスラエル・スロカム少佐が彼女の後見人を務めていました。ある日スロカム少佐はグレイシーに結婚するならこの男性だとその名を告げます。フレッド・プライムという男性の一人称で書かれた普通小説で、一匹のカワマスがグレイシーの結婚相手を決定します。
−Masterpiece−
ソリー・レニックス宅で開かれたパーティーで、酩酊したオリヴィア・テムズ夫人はひとり部屋に戻って先に就寝します。パーティーの出席者の一人であるウォーリー・スタッグナーはテムズ夫人の部屋に侵入し、高価な貴金属を盗もうとしますが、テムズ夫人が目覚めてしまい、スタッグナーは近くにあった火かき棒でテムズ夫人を殺害します。そしてテムズ夫人の腕時計の時間を戻して犯行時間を偽装した後、スタッグナーはカードゲームに熱中する人に紛れてアリバイ工作をします。見事に完全犯罪を成し遂げたスタッグナーでしたが、犯罪時の悪夢に悩まされ続け、酒に溺れていきます。最後に意外な結末が用意された倒叙的サスペンスです。
−At the Feet of the Enemy−
州議事堂の一角に設置されるリンカーンの彫像が完成し、その記念式典が開かれようとしていました。多くの住民がその式典に出席するなか、図書館員助手のテシー・テイトは自宅でひっそりと過ごします。彼女は南部の人間で、リンカーンを北部の田舎者としか考えていませんでした。そんな彼女がある日、リンカーンの彫像の下で泣いていたのです。南北戦争時のリンカーンの秘話を描いた普通小説です。
−Cabbages and Kings−
徴兵選抜委員会の検査医だったアドリアン・トラウト医師が結婚後久しぶりに故郷に帰ってきます。土地に関する写本を手に入れるため役所に向かったトラウト医師は、写本ができるまでの間、いったん役所の外に出ます。その数分後、役所の外部で銃声が鳴り響き、役所の事務員が駆けつけると、トラウト医師が胸を撃たれて死んでいたのです。辺りに犯人らしき姿はありませんでした。戦争の惨さを描いた本短編集中最も本格物に近い作品です。
−Ace, Deuce, Ten Spot, Joker−
カジノの大立者が「ダイヤの10」のカードを受け取った後に殺害される物語と、スラッツという男が刑務所の移動で外部に出た瞬間、記者に紛れ込んだ男に殺害される物語と、子供のおもちゃを直そうとして死んでしまう父親の物語――短編のなかに三つの短編が組み込まれた超ミニ・オムニバスです。


『世界短編傑作集4』江戸川乱歩編(創元推理文庫)収録作品
「信・望・愛」