「鏡は横にひび割れて」

アガサ・クリスティ

★★★★

Out Flew the web and floated wide;
The mirror cracked from side to side;
'The curse is come upon me,' cried
The Lady of Shalott.
           − Alfred Tennyson
織物はとび散り、ひろがれり、
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
        − アルフレッド・テニスン


あらすじ
 アメリカの名女優がセント・メアリ・ミード村に夫婦で引っ越してきた。村の人々や関係者を呼んで行われた引越し祝いのパーティーで突然招待客の一人の夫人が死ぬ。飲み物の中には毒が入っていた。その死の直前、女優はその夫人と話をしていて、突然シャロット姫が「鏡は横にひび割れぬ」と口ずさんだ様な凍りついた表情をしていたのを目撃されている。事件は解決せぬまま、次の犠牲者が.....。

感想
 クリスティが70歳を過ぎてから書いた晩年の名作です。新住宅地まで出来たセント・メアリ・ミード村での事件に村の人々の井戸端会議が物語を進めます。つまり、この本には長ったらしいウダウダした状況説明は一切無く、ほとんど全てマープルと個性あふれるマープル家のお手伝いさんや近所の物好きなおばあさん達との日常会話で成り立っています。確かに事件と無関係な会話がいくつもなされますがそれがまた良いのです。(個人的には、事件そっちのけで、そちらの方が気になってしようがありません。)また、結末も「うん!」と思わされます。(ちょっと悲しい終わり方ですが。)クリスティが晩年になったからこそ書けた秀作だと思います。久しぶりに「楽しめる」推理小説を読みました。これからはタクシーのことを「インチ」と呼ぼうか!

おまけ
 その1)感想にも書いたがこの本で「インチ」というタクシーが2回登場します。その昔インチという名の男が汽車から下りてくる客を馬車に乗せていたことが始まりで、息子は車に変えて後を継ぎ、その後バードウェルという男が「インチ」とういう屋号を残し商売を譲り受けたと書かれている。今ではロバーツという男が「インチ・タクシー」を経営している。セント・メアリ・ミード村の老婦人(マープルを含めて)はどこかへ行く時は今でも「インチで」と言ってるそうな。

 その2)この本でマープル家の手伝いとして、井戸端会議の大好きな世話好きミス・ナイトと、いつも歌を唄いながら掃除機をかけるチェリー・ベーカーの二人が登場します。二人とも通いですが、最後にチェリーは新住宅地の今の住まいを離れて夫婦(旦那の名はジム)でマープル家に住み込みたいと申し出ます。ただしこの本中ではマープルはまだ了解しません。マープルは昔働いていたフローレンスを思い出し、「フローレンスがいてくれたら...」となつかしみます。正確には「アミイ、クララ、アリスらも感じのいい女中」と回顧しています。それほどこのナイトとチェリーは今風の女中でマープルにとって不十分だったのかもしれません。それから週に3日来てくれる庭師のレイコック爺さんも忘れずに。

 その3)この事件は「書斎の死体」以来再びゴシントン・ホールで事件は起ります。「書斎の死体」が発表されたのが1942年ですから、ぴったり20年後の事件になるのでしょう。

 その4)作品名の「鏡は横にひび割れて」はイギリスの19世紀の詩人アルフレッド・テニスン(1809-1892)の作品のひとつ「シャロット姫」に出てくる一節です。四部からなるこの作品の概要を紹介します。

 第一部 − 川の両岸には、はるか地平のかなたまで広がる麦畑があり、その畑中を一筋の白い道がキャメロット城へと続いている。吹く風に柳の裏葉は白くひるがえり、ポプラの小刻みなふるえは、さながら川面のささ波と軌を一にする。川中の小島の孤丘の城にただひとりシャロット姫は住んでいる。

 第二部 − 姫は夜となく昼となく、色鮮やかな、妖しい織物を織り続けている。部屋につるした鏡に映る、外界のさまざまな様子を少しの人間的関心もなくただ眺め、そしてその風景を織物の織りこんでいるにすぎない。そして鏡の中の映像でなく、実際に自分の目で直接キャメロットのほうを見下ろすようなことがあれば、姫の身の上に一つの呪いが降りかかるだろうという囁きは耳にしていても、どんな呪いなのか知る由もなく、別に他に何の心配もない。しかし、やがて、最近結ばれたばかりの恋人たちの姿を鏡の中に見て、「影の世界に半ば退屈したわ」という心境になる。

 第三部 − ランスロット卿の颯爽たる登場である。燦々と輝く太陽が木の葉越しに目もくらまんばかりの輝きを放ち、卿の真鍮のすね当てや楯は燃えるような光を出している。宝石をちりばめた馬勒はさながら黄金の天の川である。キャメロットを指して卿が馬を進めるとき、鈴の音は楽しげに鳴りひびき、よろいかぶとも、そしてかぶとの下に流れる美しい黒髪も、姫の見つめる清澄な鏡の中に悉く映し出されて輝いている。ランスロット卿はついに川のほとりで「ティラ・リラ・ティラ・リラ」と歌う。この歌声に姫は織物の手をとめ、呪いの起こるのも気にとめず、直接、外界の景色に目をやる。ここで俄然、織物はとび散り、鏡はわれてしまう。姫は呪いの起こったことを覚える。

 第四部 − 嵐ぶくみの東風が樹木を折らんばかりに吹き、光芒褪せた森はただどよめきのあるばかり、城楼そびえるキャメロットにも篠突く雨を注ぎ、さながら墨絵のような風情である。城をさまよい出た姫は、波に漂う捨小舟を見つけ、死の舟旅へと赴く。暗夜の川を漂い下る姫の白衣に木の葉が舞い散る。姫のいまわの歌は低くひびく。やがて姫の歌声も消えて、静かにこと切れていく。やがて着いた町の岸辺には、騎士をはじめとして貴賤を問わずあまたの人々あいつどい、氷のような姫のむくろに怖れを抱き、十字をきる者もある。しかし、ランスロット卿は、しばし、瞑想の後、「神のおん恵みうるわしの姫君に垂れたまわんことを」と囁いて、敬虔な祈りを捧げる。

「鏡は横にひび割れて」という一節は、第三部で、シャロット姫がランスロット卿に恋心を覚えて、呪いの降りかかるのを承知で鏡の世界から離れて外界を見た瞬間に起きた出来事です。


She left the web, she left the loom,
She made three paces through the room,
She saw the water-lily bloom,
She saw the helmet and the plume,
     She looked down to Camelot.
Out flew the web and floated wide;
The mirror cracked from side to side;
'The curse is come upon me,' cried
     The Lady of Shalott.
  姫は織物の手を止め、機からはなれた。
部屋の中を三歩あるいた。
水蓮が、咲いているのが見えた。
   姫はキャメロットの方を見おろした。
織物はとび散り、あちこちに散乱した。
鏡は端から端までひびが入った。
「呪いが私にふりかかったのだ」と叫んだ。
   シャロットの姫君は。

 上が「鏡は....」の文句を含む1スタンザ(1スタンザは9行から成っています)です。ハヤカワ文庫の冒頭に「くもの糸は走り、ひろがれり」と書いていますが、これはwebという単語を織物と訳さず、誤って「くもの糸」としており訳者の大チョンボだと思います。
 さてこのクリスティ「鏡は横にひび割れて」の最後の一文が「シャロット姫」の最後の一文にもなっています。ここではあえて紹介しませんので、読了後に「そうか!」と思って下さい。

参考文献
「テニスン研究 −その初期詩集の世界」
西前美巳著
中教出版