神様は,あなたの嫌いなにんじんを,あなたの口へ運びます。すべてはあなたのためなのです。あなたはいつまでも乳飲み子のままでいてはいけません。恐れずに噛みしめなさい。目をそむけず嫌というほど味わいなさい。味わいつくしなさい。そして飲み込みなさい。口には苦いその食べ物は,あなたの中で,朽ちることのない,永遠の,清らかな光に変わるからです。
ユーラ,あなたが幸せになる方法を教えてあげます。それはあなたの過去を完全に構造化してしまうことです。何が起こって,それが原因でどうなったか。なぜそれが起こったのか。彼女はなぜそんなに脆弱だったのでしょう? あの人はなぜあなたにそんなことを言ったのでしょう?すべて物事には原因があるはずです。できる限り解明しなさい。冷酷なまでに客観的な自伝を編むのです。気になっていることを,すべて綴りなさい。思い出したくない悲しみも苦しみも,すべて直視しなさい。不思議と鮮明に記憶に残っている子供時代のささいなエピソードを分析してごらんなさい。言葉の鏡に映し出し,その鏡をのぞき込むのです。言葉のあいだから,もっと深い問題が見えてくるでしょう。それをさらに追究してゆくのです。すべてをとことん分析し,何もかも言葉にしてしまうのです。
いちど言葉にしてしまえば,あなたは強くなって,そのことを直視することができるようになります。これに反して,いつまでも心の中だけにしまっておくと,そのことは「嫌な思い出」「思い出したくない思い出」として,かえって折に触れ何度も思い出されるのです。夏休みの宿題と同じです。手をつけずに放っておくと,忘れたくても忘れられず,いつも潜在的に心の重荷になっています。「思い出さないようにしよう」という無意識の努力が重荷になるのです。いちど宿題に直面して,それを終わらせてしまえば,すべてすっきりします。終わらせた宿題のことなど,そうそう思い出すこともないでしょう。心の中にあるものを言葉にする,ということは,今まで意識していなかったものを意識する,直視する,ということです。自分の弱みを直視する強さを持つ,ということです。直視しようとしない限り,それはあなたの弱みとしていつまでも残ります。
その上,「思い出さないようにしよう」という無意識の努力が心の重荷となるのです。自分の弱みを直視し,ありのままの自分に直面すれば,心の苦しみはなくなります。脳の無意識のもやもやを,左脳の言語野でくみあげてしまうのです。構造化してしまうのです。どろどろした生の記憶を,単語のモジュールで"デジタル処理"してしまうのです。ぐしゃぐしゃの部屋を掃除して,なにがなんだか分からない,とほうもない山づみを,なくしなさい。ごみは捨てて,山にうずもれていた大切なものをきちんと棚に並べてごらんなさい。気持ちを整理する,ってことです。あなたを苦しめているのは,そのぐしゃぐしゃ山なのです。あなた自身なのです。
あなたが許そうが許すまいが過去は変わりません。変わるのはあなたの心です。あなたが許せばあなたはそのことによって清められ,美しくなる。あなたが恨みつづけている限り,あなたは決して軽やかになれない。実に,きれいなおけからはきれいな水がくまれ,汚れたおけからは汚れた水が流れ出ます。あなたから憎しみが流れ出るのを見たら,恐れなさい。「心の醜い私を憐れんでください」と神に祈りなさい。美しい水はあなたの内側を洗い清め,よごれた水はあなたの内側をよごします。しかし美しい部分から美しいものを出しても,その部分はもう美しくなりません。すでに美しいからです。あなたの中の醜い部分と向きあってください。あなたが本当の意味で美しくなりたいのなら,それをするしかありません。心を透きとおらせ,心を軽やかにしたいのなら,自分の中の闇を直視し,それに立ち向かうしかありません。
すべての過去を許しなさい。いまあることを,あるがままに,あらしめなさい。すでにあることはそれとして受け入れ,その上に立って,どうするのがいちばん善いか考えてください。すべて事実が出発点です。事実はどうしたって事実なのです。それを「嫌だ」と言って,そこから目をそむけていては,何も始まりません。目をそむけていれば,かえっていつまでも「嫌な」状態が続くのです。不満があるなら,行動しなさい。現実に働きかけるのです。あなたは働きかけることができるのです。働きかけていいのです。
§2 社会との関係 自分の真実に従う,ということを強調すると,「それでは自己中心的なのではないか」「自分ひとりのことよりも,みんなのことを基準に考えて何かをするのがより良い選択ではないか」と考える人もあるでしょう。その気持ちがあなたの真実なら,それがあなたの真実なのです。あなたの真実に従ってください。あなたは「自分のことではなく,みんなのことを考えよう。そのためにはAではなくBを選ぶべきだ」と考えることがあるかも知れません。その場合,それがあなたにとっての真実だから,あなたはBを選ぶのです。心に照らして「Bが正しい選択だ」と思われるから,あなたはBを選ぶのです。これは善いことです。あなたの中の真実にもとづいているからです。
しかし,あなたがつねに「みんな」のことを先に考えるとすれば,あなたは道を踏み外しています。自分の中の真実によらず,"みんなのためになること"という漠然とした社会通念に盲従しているからです。実際問題として,あなたが「こうすればみんなのためになる」と考えたとしても,それはあなたが勝手にそう判断しているに過ぎません。たとえ世界中の人の意見を聞いたところで,ある行為が本当の意味でみんなのためになるかどうかは誰にも分かりません。
もし現在の社会に悪い部分があるとすれば,あなたが善意でした"社会の役に立つこと"は,部分的にはその悪い部分に貢献しているのかも知れません。例えば,ある種の書物やテレビ番組を作る人は,確かにみんなに喜ばれ,企業に利益をもたらし,社会の役に立っているのですが,それはあるいはみんなの魂を堕落させる結果になっているのかも知れないのです。そうなっているかも知れないし,なっていないかも知れない。「みんなの魂」の動静など,人間には予測不可能です。娯楽による息抜きがちゃんとした仕事の能率を高めるのに役立つかも知れませんし,低俗な書物の中の何気ないせりふが,はからずも芸術家に霊感のひらめきを与え,優れた芸術作品を生み出す引き金になるかも知れません。
いずれにせよ,それぞれの人間は,その場その場で自分がいちばんいいと思うことを実行するしかありません。それが人間にできる最上のことなのです。その結果として,そうなることになっているのなら,あなたは自分でも知らないうちに意外な人の役に立っているものです。その時点において。あるいは予期せぬ未来において。でも,そうなるかならないかは,あなたの気にする問題ではありません。あなたにはコントロールできない部分なのです。心に照らして判断した結果,いわゆる"社会の役に立つ"ことをしたくなるときもあるでしょうし,"個人主義的な"ことをしたくなるときもあるでしょう。それはどちらでも良いことです。また,その分類自体,絶対的なものではありません。
「世の中の役に立っていない人間は生きる価値がない」というのは二重の誤りです。あなたには「ある人の存在が世の中の役に立っているかどうか」といった高度な判断をする能力はありません。また,そもそも,人生の意味と社会貢献とはまったく別問題です。寝たきりの病人は,もう生きていてはいけないのですか? 山奥でひとり自給自足の生活を送っている人の人生は無価値なのですか?ユーラ,あなたは"社会"によりかかって人生の意味を規定しようとしてはいけません。「私は社会の一員として,会社に勤め,家庭を持ってりっぱに生活している。だから私の人生には意味がある」というのは,自己欺瞞です。人生の意味を考える場合には,社会であれ何であれ,自分以外のものによりかかってはいけません。〈私はXのために何ができるか? → 私はXの役に立っている。だから私の人生には意味がある〉という方向から考えてはいけないのです。そうではなしに,〈私の真実は何か? いま何をするのが正しいか?〉とあなた自身に問いなさい。あなたの外にあるものではなく,あなたの中にあるものに従うのです。
〈私は真実に生きている。ゆえに私の人生は真実である〉と観じなさい。あなたの魂によってあなたの魂を測るのです。死を待つだけの寝たきりの病人のことを考えてごらんなさい。その人はもう社会の役に立つことはないから生きていてはいけないのですか?いいえ,ユーラ。たとえベッドの上で死を待つだけだとしても,その人はひとりで自分の人生に立ち向かわなければいけないのです。体が健康だとなかなかこの《孤独》に気づくことができません。立って,動いて,働いていると,なんとなく「ちゃんと生きている」ような気がするからです。実際には意味もなくぐるぐる回っているだけかも知れないのですが…。
人間はみな,ただ死を待つだけの病人のようなものです。人生の意味を測るときには,《自分自身》のほかによりかかれるものはないのです。ロビンソン・クルーソーは,無人島で,あらゆる苦しみにたえながら,"誰の役にも立たず"ひとりで生き続けました。その結果,彼は,28年めに,その同じ島に漂着した別の人の命を救うのです。もし彼が「自分の生はまったく無意味だ」と判断して生きるのを中止していたなら,このことは起こらなかったでしょう。そして,このふたりが互いに助けあうことによって,初めて島からの脱出が可能になるのです。この寓話の意味をよく考えてごらんなさい。もし万が一,いままでのあなたの人生にまったく意味がなかったとしても,あなたは28歳のときこの世の中で決定的な役割を果たすことになっているのかも知れません。あるいは56歳のときに。そして,実際には,あなたの人生にはいつでも深い意味があるのです。考えてもごらんなさい。芸術家が上の世界から霊感を得て崇高な作品を生み出すのだとしたら,裸の美である光はどんなに美しいものでしょう。それほど完璧な芸術作品,すべての芸術作品のみなもとに,どうして無駄な部分があるでしょう。《彼》にはひとつとして無駄なタッチなどないのです。あなたはナスカの地上絵です。絵の中の小石です。あなたがあなたの平面において世を見回すと,自分が無意味にそこに転がっているように思うでしょう。でも,神様からごらんになると,あなたは壮大なピクチャーの一部なのです。
§3 「みんな」ではなく 不特定多数の「世の中」「みんな」のことではなく,魂におけるあなたの隣人のことを,考えてあげてください。「みんな」などという人はどこにもいません。ただ,ひとりの魂と,ひとりの魂が,たまさか出会い,すれ違い,隣人となるのです。銀河の中で地球が孤独な星であるように,人の子の魂も孤独です。この地球上では,数十億の魂が,星のようにまたたいています。その中で,あなたの魂は,たったひとつの小さな星です。星は何十億もありますが,あなたは一生のうちにそのうち何人の人と魂において交わることができるのでしょう?
私たちは本当にまれにしか出会えないのだから,出会った人には心からのあいさつを送りなさい。百万光年の孤独の中で思いがけず人と出会ったときのように,喜びあいなさい。抱きしめあい,口づけを交わしなさい。あなたの持っているものでその人が必要としているものがあれば,喜んで差し出しなさい。人間は肉においては嫌というほど出会いますが,魂においてはいつも離れ離れだからです。
数十億の星々の中で,ふたつの星がすれ違い,一瞬またたきを交わし,また去ってゆくという,このことの不思議を想いなさい。あなたがたが憎しみあったまま別れたら,もう永遠にそのままです。
いとしいユーラ,このことを逆向きに考えてごらんなさい。数十億の星々の中で,あなたはたったひとつの小さな星に過ぎません。あなたという星が失われたからといって,この"宇宙"の全体像はほとんど変わらないでしょう。でも,あなたの隣人である星々から見れば,あなたは星座の中の大事な星です。いちばん明るい星かも知れません。
北極星は,遠い地球で自分が「北極星」と呼ばれていることを知りません。四百年前,北極星がそうとは知らずにふと放った光が,いま遠い地球に届き,船乗りたちに正しい方位を教えています。私たちの太陽が放った光も,どこか遠い星で,意外な役割を果たしているのかも知れません。あなたという小さな星についても,これとまったく同じことが言えるのです。
「みんな」と争ってはいけません。すなわち,どんな場合でも,不特定多数の人間を敵視してはいけません。その中には,あなたより魂において優れた人もいるかも知れないのです。争うなら,ある個人に対して,一対一の魂と魂の関係において争いなさい。その場合でも,穏やかに,敬意をもって,正しい良心で,自分の立場を弁明しなさい。あなたがたは互いに教材になっています。人生において困難な人と真っ正面からぶつからなければならないとしたら,それはあなたに課せられた課題です。それはあなたの道の障害になる邪魔な石ではなく,あなたの道の本質的な部分をなす他山の石なのです。
だから,その人を憎むのではなく,かえってその人のためを思い,どうすれば互いに高めあえるのかを考えなさい。その場合でも「あの人は精神的に劣っているから,この私が導いてやるのだ」といった思い上がった気持ちをいだいてはならない。あなたが知らないだけで,相手は本当は天使かも知れないのです。天使が,あなたを試すために,あなたの右の頬を打ちに行くこともあるのです。あなたの頬を打った人間は何も知らずにただ自己の劣悪な性根に駆られてそうしただけかも知れません。けれど,あなたの頬が打たれたという「運のめぐりあわせ」は,実際,天の配剤です。
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