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●影(シャドウ)について

1、「影(シャドウ)とはその主体が自分について認めることを拒否しているが、それでも常に直接、または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと…例えば性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向…を人格化したもの」「影は自分の人生の生きられなかった反面」(ユング)

2、「我々の人生に現れるあらゆる人は自分が誰であるか、ということの一面を反映しているのであり、その側面は、一つの感情的な救済のために作られているものなのだ。」
(ラムサ著「ラムサの教え」星雲社より引用)


3、「誰が、ということよりも『何が』自分から力を奪っているか?を問いかけることから始まる。気を奪っている人間とは実は自分のある部分の反映にすぎない、と理解しなくてはならない。例えば誰かに嫉妬しているとしたらあなたにとって問題はその人ではなく、その人に反映された自分の影なのだ。嫉妬している対象の人に焦点を合わせても、自分を癒すことにはならない。次から次へと同じことを教える教師が送られてくるだけであり、新しい教師は前の教師よりも強烈になっていくことだろう。あなたの課題とは、その教師に反感を持つことではなく、教えられるレッスンを学び取ることなのだ。自分の力が枯渇している原因がある特定の人にあると誤って判断すると恐れと批判の悪循環に陥る。あらためて自分の力の中心点に意識を向けて、その人物が自分との関係においてどんな種類の力を持っているかを感じとることが必要だ。自分の視点の対象を教師(相手)ではなく、その学びにおくことができれば、それだけですでに象徴的なものの見方のメリットをかなりの部分を手にしたことになる。」(C・メイス「7つのチャクラ」サンマーク出版より引用)

4、われわれ人間は誰しも影を持っているが、それを認めることをできるだけ避けようとしている。その方策として最も良く用いられるのが「投影」の機制(メカニズム)であろう。投影とはまさに自分の影を他人に投げかけるのである。しかし投影といっても誰彼となく相手を選ばずにするのではない。その意味において投影を受ける側も投影を引き出すに値する何かを持っていることも事実である。

夢分析を始めると、まず影の像が出現することを述べたが、夢分析によらない普通の会話のカウンセリングの場合にも影の話題がよく出てくる。自分の周囲にいる「虫が好かない」人を取り上げ、それをひたすら攻撃する。自分はお金のことなどあまり意に介していないのだが同僚のXはお金にやかましすぎる。彼はお金を人生で一番大切だと思っているのではないか?などと一生懸命に訴えるのである。彼はお金のことならどんなことだってするのではないか?などというときに、その人の示す異常な熱心さと、その裏にちらりと不安感のよぎるのとを、われわれは感じるのである。このような話し合いを続けていくと、結局はこの人が自分自身の影の部分、お金の問題をXに投影していたことが解り、この人がもう少し自分の生き方を変え、影の部分を取り入れていくことによって問題が解決され、Xとの人間関係も好転することが多いのである。

このとき大切なことは、Xに対して強い悪感情を抱いたとき、自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。確かにXは個人的な影の投影を受けるに値する現実的な行動…例えば少しケチであるなど…をしているのであろう。しかし「金のためなら何でもする男」などというとき、それは現実を越えた普遍的な影の投影になっている。つまりわれわれは自分の影の問題を拒否するときに、それに普遍的な影を付け加え、絶対的な悪という形にして合法的に拒否しようとするのである。このことのために、ある人からまるで悪の標本であるかのごとく言われる人物に実際会ってみると、話に聞いていたほど悪人ではない、と感じることが多いのである。

各人はすべて影を背負っている。しかし正真正銘の悪人というのはめったにいないものである。ひたすらに悪人として攻撃していた人物が、それほどでもないことに気づいたとき、われわれは「投影のひきもどし」を行なわなければならない。つまりその人物に投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚しなければならない。投影のひきもどしは勇気のいる作業である。

青年期になると、子どもはまずその影を両親(特に同性の親)に投影することが多い。これももちろん両親の現実のあり方が関係してくるわけであるが、思いがけず両親の影を発見して驚いた子どもはそれに普遍的な影を混入させて両親を批難したり批判したりする。ここでももちろん子どもは投影のひきもどしに成功するかぎり、成人として成長したことになるのであるが影の発見が子どもの自立への動きを促進する点に注目するならば人間の成長のある段階には必ず影の働きを必要とする、と考えることもできる。

投影の機制で少し複雑なのは「白い影」の投影の問題である。個人の生きてこなかった反面は必ずしも悪とは限らない。例えば他人に対する親切さを抑圧して生きてきた人は、その親切という「白い影」を他人に…例えば上司に…投影する。この場合も投影は現実を越えたものとなって、ほとんど絶対的な親切心をその上司に期待することになる。ところが実際にその上司が期待通りの親切心を示さないとき…そんなことはできるはずがないのであるが…すぐにその人を不親切な人だといって批難する。このようなことは案外多い。白い影の投影は他人に良い面を期待するように見えながら結局はその人を攻撃することになるが、その際も当人は自分の責任ということ、自分の影を背負うということについては、まったく無意識であることが特徴的である。

影の反逆

投影の機制は非常によく用いられるが、これが集団で行なわれるときは、その成員はその影を自覚することがますます難しくなる。集団のすべてが同一方向、それも陽の当たる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影について誰も気づかないのは当然である。その集団が同一方向に一丸となって行動してゆくとき、ふと背後を振り向いて自分たちの影の存在に気づいたものは集団の圧力のもとに直ちに抹殺されるであろう。そのことほどその集団にとって危険なことはないからである。犠牲者は集団の行動の背後の影に吸収され、ただ消え失せてゆくのみである。

このような集団が強力であることはもちろんである。しかしどのような強いものも何らかの弱点をそなえている。このような集団はある時に強烈な影の反逆を受け、それに対して全くの無防備であることを露呈する。凝集性の極度に高い集団は短期間には、その強力さを発揮するがいつかはそのもろさをつかれて影の反逆に屈する。影は外部から攻撃してくるときもあるし、内部に突如として生じるときもある。このような極端な反転現象は歴史を少しひもといてみると随所に見出すことができるものである。…中略…影の反逆は個人の生活においても起こりうる。ある個人の自我があまりにも一方向にかたよった構造をもつときそれはいつか影の反逆を受けなければならない。

シェークスピアの悲劇は影の生成と活動をみごとに描いてみせてくれている。オセロウにおいてはイアーゴウが「影の主人公」であることはもちろんである。イアーゴウがオセロウを陥れる動機についてよく云々される。イアーゴウ自身が独白の中で、それを申し立てるが時によって異なったり矛盾したりする。しかしこれはむしろ当然のことであろう。あまりにも立派であまりにも疑いを知らぬオセロウ。そのオセロウの存在はイアーゴウの存在を必然的に呼び起こす。つまりオセロウとイアーゴウとは組になって「できている」のであって、何かが何かの原因とか結果というようなものではないのだ。イアーゴウも要するに犠牲者の一人であり、彼自身も自分の動機について知るはずがないのは当然である。だからこそあれほどまでにすべての人が彼にだまされるのである。マクベスの場合のように「運命を」示す妖女はオセロウには出現しない。にもかかわらず、やはりオセロウの悲劇は運命的に思える。それは個人を描きつつ広義の「自然」を描いているともいえる。シェークスピアの悲劇で多くの人が死んでゆくのを体験しながら、われわれは台風の後の晴天の日のような感じを与えられるのもこのためであろう。

影の肩代わり

影を抑圧して生きながら影の反逆を全く受けていないように見える人もある。しかしよく見るとその人の周囲の人が、その影の肩代わりをさせられている場合が多い。たとえば宗教家、教育者といわれる人で他人から聖人君子のように思われている人の子どもが手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合がそれである。世間の人はどうして親子でありながらあれほど性質が異なるのかといぶかったり、息子の親不孝ぶりをなじったりする。あるいは聖人君子と言われていても案外子どもには冷たいのではないかとか親子関係を勘ぐったりする。しかしこれはこのような次元では了解できないことであり、たとえ親子関係に一般的な意味で問題が無いとしても親の「影のない」生き方自身に、子どもの肩代わりを現象を呼び起こす力が存在しているのである。一般に信じられているように親が悪いから子どもが悪くなる、という図式で了解されるような場合は治療も簡単である。しかし、いわば親が良いために子どもが悪くなっているとでも言うべきときは治療はなかなか難しいのである。

それほど劇的ではないにしても、子どもは多かれ少なかれ親の影を背負わされるものである。子どもはそれと苦闘しつつ、結局はそれを背負って親と全く逆の生き方をするか、影を排除しようと努めつつ親と同じ生き方をするか、になってしまうことが多い。親をいろいろと批判しつつ、子どもは結局は親と同じか、あるいは、全く逆か、の二つの生き方を選ぶことが多く、親の生き方を適度に修正することは、ほとんど至難のことと言ってよい。そこには無意識的な影の力が働いているため、意識的な努力に強い慣性が作用しているのである。

永遠の少年

影との関においてどうしても考慮しなければならない問題に「永遠の少年」ということがある。すでに親の影を子どもが肩代わりすることについて述べたが、子どもがその影を親にまったく押し付ける場合もよくある。子どもはやりたい放題のことをして、母親はひたすらその尻拭いをさせられている、これは大なり小なり母子のパターンとして生じることであるが、それが年齢が大人になっても持ち越されたり、程度がひどくなってくると、そこに「永遠の少年」の元型が働いていることが感じられるのである。少年は自分の影を自分で背負うことをしない。自分の影の存在に気づいていないときもある。

「永遠の少年」とはオヴィッドがギリシャにおけるエリューシスの秘儀の少年の神イアカスを指して呼んだ言葉である。エリューシスの秘儀はデメーテル、コーレの神話を踏まえ、穀物が母なる土を母胎として冬には枯れ、春には芽生えてくる現象を基にして、死と再生を繰り返す穀物の姿の顕現として「永遠の少年」の神イカアスが登場する。永遠の少年は成年に達するまでに死に、グレートマザーの子宮の中で再生し再び少年としてこの世に現れる。それは常に少年であって成人に達することがない。永遠の少年は英雄であり、神の子であり、皇子であり、あるいはグレートマザーの申し子であり、救世主であり、トリックスターであり、そしてそのいずれにもなりきっていない不思議な存在である。それは英雄として、救世主として急激な上昇を試みるが、それになりきる前に突然の落下により、母なる大地に吸いこまれてしまう。しかし、それはまた新たな形をとって再生し急上昇を試みる。このような永遠の少年の元型はすべての人の心の無意識内に存在している。このような元型と同一化するとき、その人は文字通り「永遠の少年」となる。


永遠の少年の元型と同一化した人のイメージをユング派の分析家たちは見事にスケッチしてみせてくれる。現代の社会に生きる永遠の少年たちは必ずしも年齢が若いとはかぎらない。彼らは慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢を持っている。ヒルマンが指摘するように彼らの主なテーマは「上昇」であり、理想を求めて急上昇を試みる。しかし彼らは水平方向にひろがる時空間、つまり「現実」とのつながりの弱さにその特徴をもっている。理想を追いつつそれを現実化する力に欠ける。彼らの最も不得手なことは待つことであり忍耐である。現実とのつながりを失ったとき上昇は停止し急激な下降がはじまる。大地に吸い込まれてグレートマザーの子宮に帰ると、しばらく無為の生活がはじまる。彼らは自分が社会に適応できないのは自分の特別な才能が理解されないためであるとか、こんな誤った社会には適応する必要がないのだとか自らに言いきかせて、その無為の状態を合理化している。ところがふとある日、彼らは何かに憑かれたように人類の救済や、警鐘をめざして急上昇をはじめる。そのときの力強さは多くの人を驚嘆せしめ、ときには大きい期待をさえ呼び起こすが、結果としては、おきまりの落下と無為が訪れるのみである。少年が光を求めて高く上昇すればするほど、彼の影は母なる大地に大きく投影される。彼らにとって、それは親であり社会であり、国である。それらに向かって彼らはすべての悪の責任をとることを要求するが、自らの影を背負って立とうとはしないのである。彼らが自らの影の存在を意識したとき、そこに死が訪れる。その死を成人への成長のためのイニシエーションとして迎えるか、母なる大地への単なる回帰とするかは、彼らの自我の強さにかかっている。
(河合隼雄著「影の現象学」講談社学術文庫より引用)



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