●ラリー・ドッシー「癒しのことば」春秋社より引用
…ところで祈りの力に注目する第1の理由はそれが癒しに及ぼす効果を科学的に調査するためではない。本当の理由はもっと深いところにある。それは祈りが、われわれが何者なのか?人間の運命はいかなるものかについて無数の重要な教えを語っているからだ。後で述べるように祈りとはまぎれもなく非局在的な、すなわち特定の場所や時間に縛られないできごとだ。祈りは今ここという枠組みを超えて働く。距離を問わず、また現在という時間の枠にとらわれずに作用する。そして祈りが人間の心の働きによって始動するのならわれわれ人間の心にもまぎれもなく非局在的な一面があることになる。もしそうなら人間の中には時間や空間を超越した永遠不滅なる何かが潜んでいるといえるだろう。
非局在性とはつまりとてつもなく大きいものとかものすごく長い時間ではなく、無限の時間と空間である。なぜなら非局在性を限定することはことばの上からも明らかな矛盾なのだから。西洋ではこの人間の心に潜む無限の一面は魂と呼ばれてきた。とすると祈りの力が経験的証拠から明らかになればそれは人間が内なる神と呼ばれる神的素質を備えている証拠にもなろう。無限性、偏在性、永遠性などはみな神の属性と考えられてきた性質なのだから。人間が祈りなどの非局在的活動に携われるという事実は人間の精神について驚くべき意味を秘めている。その深遠さに比べれば祈りが自分を救ってくれるだろうか?という実際的、即物的な関心は卑小にさえ見えてくるのではないか?(p10)
「現代人は芸術の世界のみならず人生そのものにおいても意味や価値の奥行きをーいうなれば聖なるものをー失ってしまったのだ」キャサリン・レーヌ(英・詩人)(p16)
イエスが生まれながらにして盲目の男と出会ったとき弟子のひとりが質問した。 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか?本人ですか?それとも両親ですか?」
「本人が罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもない、神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書九ー1ー3・欽定英訳聖書)(p20)
植物も動物も鳥も魚もみな病気になる。多くの症例に示されているように彼らもガンや関節炎、バクテリアやウィルスの感染症など人間と非常に似通った病を患う。事故に遭えばトラウマを抱えこむし、歳を取れば老衰に苦しむ。だが動物や植物が病気になってもわれわれは接する態度を変えたりしない。批難したり、責めたりもしない。庭の木がガンに罹ったり、害虫に食い荒らされたとしても「おまえは木として失格だ」と責める人はいない。犬が股関節形成異常を患ってもそれは犬の「落ち度」ではないし白血病にかかった猫に心がけが悪かったせいだなどと誰が言うだろうか?
自然界では病の発生も自然の営みの一つであり、倫理的、道徳的、精神的弱さの現れではないのだ。
われわれは病に倒れたすべての生命を尊びながら人間に対してだけはそうしない。ニューエイジ信望者の多くは丹精こめて育てたバラの木にアブラムシがついてもバラを責めようとは夢にも思わないだろうが自分がちょっと喉を痛めたときは一転して何か落ち度があったのでは?と批難の矛先を己に向ける。だがわれわれ人間もまわりの生き物と同じく自然の一部に他ならない。病に倒れた植物や動物に向けられる優しさ、あたたかさ、そして許しの心は人間自身に対しても向けられて良いのではなかろうか?(p22)
癒しにおける祈りの働き、そして精神と肉体との関係を真に理解したければ曖昧さや謎を許容する心を育まなければならない。すすんで未知の中に立つ心をもたねばならないのだ。(p25)
喜びに照らされた瞬間にだけ神を見ようとする人がいる。ーだが彼らが見ているのは喜びや輝きであって神ではない。(マイスターエックハルト)(p33)
生きる力とは肉体の中にだけ閉じ込められているのではない。それは身体からあふれ出て後光のように人間を包み込む、そして遠くにまで作用を及ぼす。この半物質的な光のなかで人間の想念が病を好転させたり、悪化させたりする力を持つ。(パラケルスス)(p68)
「究極的には人間の魂をどれだけ尊重できるか?がその医師のもつ科学の価値を決定する」(ノーマン・カズンズ)(p185)
続けて彼(ローリングサンダー)は治療についての持論を述べ始めた。彼は言った。「病気にはシャーマンの歌が効くときもあれば祈りや薬草が効くときもある。そしてまた人工的な化学薬品を含む現代的治療が有効な場合もある。賢明なヒーラーは状況に応じて治療を使い分けるものであり、自分もただひとつの方法論に固執したりはしない。(p201)
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