樹木の歳時記

俳句は、季語が形式になった短詩といわれる。たった17文字でしかも季語を基本にする不思議な詩である。
 
1. 季語が詩の形式になったことの背景については、「人間を宇宙の中心とみるのではなく、花や鳥、山川草木、日月星辰とともに季節という大きなリズムのなかに生きていると見る」考えが日本人にはあるからだという。(俳人、大峯あきら氏:毎日新聞記)

「人間」の視点でみていた世界を、季語を媒介に「自然」から見た世界に変換するところに俳句の意味がある。
参照→芭蕉「奥の細道」の旅

 2. 一方、短詩であることは、秋分にのみ咲く彼岸花に宇宙の不思議を感ずるように、季節のリズムに乗って生滅する森羅万象の旬な瞬間に宇宙を垣間みようとしているからで「最少の言葉で最大の想像力」の効果が生かされている。

樹木の季語は300近くある。
ここに挙げた俳句は約300句。
これらは、樹木と人間の間のいわば「言葉」である。
季節とともに変わりゆく樹木の姿()を、基本構造である裸木()の展開としてとらえてみたいと思う。

→冬の歳時記はこちら
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芭蕉「奥の細道」の旅               

    

17世紀後半綱吉の時代に、芭蕉が、奥の細道を著し、現在の俳句の原点(俳諧)を確立した。
以下は、尾形つとむ氏「芭蕉、蕪村」(岩波現代文庫)による。

「芭蕉は、現実の生活から、旅を栖とする非現実の芸術の世界(奥の細道)に移行し、流転する永劫の流れ(不易流行)に身を置き、再び現実の世界に蘇り、現在の一瞬を生きる自己と人々との交わりを「月日は百代の過客 」という永遠の相で再確認しようとした。」
「当時、綱吉は幕府の財政を立て直すために、儒教の徳治主義を標榜し、きわめて厳しい緊縮弾圧政策を打ち出していた。
こうした時代に、傷められ傷つきやすい社会的な無力者(植物の芭蕉を暗示する)として、実用の世界では何の役にも立たない文芸の世界にひそかに精神の開放を願う人々の核となって、現実の政治の桎梏とは全然別次元の虚の世界、美の別乾坤を樹立した。」
「人間の文化の歴史は、実用(政治史、経済史、文明史)とは関係ない虚の営みで、人間の生存の証としての歴史である。」(前掲書)

どの時代においでも、世界を実と虚の「二重の世界」として捉え、現実の人間の世界を、それを包みこむ別次元の原理で展開している永遠の相から、捉えかえす思想が形を変えて現れる。
日本では、仏教によって「二重の世界」の思想が培われ、常に現実の世界を、虚の世界から見つめ直す生き方を教えてきた。
17文字という閉ざされ局限された孤独な「虚の世界」に入ることで、現実を否定し、同じように孤独に「自然」と向かい合う他者との無限の連帯を実現しようとする思想が、近代の萌芽期に、俳句という、万人が参加でき短詩の表現形式で、個とその連帯のあり方を示したことに、注目したい。
また、この俳句という形式は、「季語」によって「虚」「実」の世界の橋渡しをするというきわめてユニークな特徴を持っている。

補足)芭蕉が「奥の細道」の旅をした翌年に、ケンペルが日本に来ている。芳賀徹氏は、ケンペルの旅と芭蕉の旅を対比して、芭蕉の旅が、箱庭的でセンチメンタルジャーニ-だといっている。飽くまでも旅行記としてみた場合、吹けば飛ぶような国内のちょいとした旅で「月日は百代の過客 」などと大袈裟な旅行記を書いたものだというわけである。(「ケンペルの見た日本」NHKbooks)