1.日本人の伝統的思惟方法(中村元-増田四郎編「西洋と日本」中公新書)

1. 与えられた現実の容認

1-1現象界における絶対者の把捉→現象に絶対のものを捉える。隠されて存在するものはなにもない。動を強調。自然と一体
1-2現世主義→身さながらに仏になる。
1-3人間の自然の性情の容認→制約は守る。心の中は問わない。
1-4人間に対する愛情の強調→慈悲、敵の弔い
1-5寛容宥和の精神→処刑がなく、永劫の罰もない。悪人にも仏性。
1-6文化の重層性と対決批判精神の薄弱→ぎりぎりまで批判しない

2.人倫重視的傾向

2-1人間関係を重んずる→丁寧語
2-2個人に対する人間関係の優越→自他不二
2-3有限なる人倫的組織の絶対視
2-4家の道徳の尊重→孝、会社
2-5位階的身分関係を重んずる
2-6国家至上主義
2-7特定個人に対する絶対帰依→開祖崇拝
2-8帝王崇拝→天皇崇拝
2-9宗派的派閥的閉鎖性
2-10人倫における活動の強調→在家仏教

3非合理主義的傾向

3-1情緒的直観的に話を決める→論理的にどこまでも追求しない。
3-2単純な象徴的表象を愛好する→念仏

2.自然

<PHYSIS>
 
自然[NATURE]の言葉は、ギリシャの[PHYSIS]からきている。
おのずと生まれ、成長し、衰え、死ぬもの一般が自然であり、アリストテレスは、「みずからのうちに運動変化の原理をもつもの」と定義した。
すなわち、古代ギリシャでは、死せる無機的自然ではなく、生命ある有機的自然が自然の原形である。
自然はなんら人間に対立するものではなく、生命的自然の一部として包み込まれている。
人間を包み込む生ける統一体である。
これは、中国やインドの伝統的自然観についてもほぼ同じことが言える。(平凡社「世界大百科事典」による)

<自然に立脚した精神>
 16〜17世紀最初に日本にやってきたポルトガルなどヨーロッパ人は、日本の茶の作法の中に「精神」があることに当時のヨーロッパ人は驚いたという。(角山栄「茶の日本史」中公新書)
鈴木大拙の「禅と日本の文化」によれば、キリスト教にブドウ酒があるように、仏教には茶があるとはいう。
禅は、人が持っている一切のものをすてて、「自然」に立脚することを教えるが、茶道は世俗を否定する形式(目に生花、絵、鼻に香、耳に湯音、口に茶、手足の格を正す)をとおして、その「精神」をとらえようとする。
その精神とは、「和、敬、清、寂」だという。
和.....社会がわれわれの上に人為的においた絆を捨てて自由、自然にむきあって同類と語らい会う。
敬.....有限性の自覚(反省)と他者をないがしろにしない。つまらぬ草の葉でさえ。
清.....五感の汚れから心を自由にする。
寂.....世俗から離れ永久的な価値ある事柄に記憶を新たにする。

  一方、ブドウ酒の世界にも「精神」がある。
イエスが弟子たちにパンとブドウ酒をわけ与えて「これはわたしのからだ、血である」(マタイ)と述べた聖体拝領(コミュニオン)の儀式である。
メルロ・ポンティによれば、「この儀式は、われわれ人間を含めて世界の万物が同じ一つの肉を分かち持った同胞であるということの象徴的表現であり........「自然」こそ肉であり母である」と。
それは、科学や知によって「公認された世界」以前の「生(なま)の存在」であり、万物の個々を結び付けている根源を確認できる。

この茶とぶどう酒の「精神」には、日常の飲み物を通して、人間の根源が「自然」にあることを常に想起させ、「世俗」「人為」を相対化する狙いがある。

4.人間の堕落した性質上永久に改まらない

「馬の国」へいくと、ガリバーは、自分がヤフーに近いことを直観的に知るが、自分が他のヤフーに比べてわずかばかり理性的であることに自惚れ、フーイナムの一員になったように錯覚する。
帰国後の妻子と生活でのガリバーの思い上がりは、高慢さの喜劇である。
スウイフトは、人間は「理性的動物(animal rationale)」ではないが「理性を働かせることのできる動物(animal rationis capax)」といっている。
人間は純粋理性たる天使ではなく、また動物そのものではなく、その中間的存在なのである。
各個人のもつ理性は私利、激情に支配されて誤りを犯しやすい。
スウイフトは、理性よりも過去から蓄積された経験、知恵、宗教を重視する。
「理性的動物」になろうとする、あるいはそう思い込んだ瞬間から人間は馬になる。
つまり「なり得ない」という反語的表現である。
 

(米田一彦「スウイフト」英米文学史講座5 研究社)

5.日本の資本主義は、儒教資本主義

森嶋通夫氏は、「続イギリスと日本」(岩波新書)の中で「日本の資本主義は、儒教資本主義」であると次のように述べている。
「資本主義の前提条件である禁欲主義を受け入れなかったならば、日本では近代資本主義は決して結実しなかった。
徳川幕府の文教政策により、儒教は日本人の中に深く、広く流布し、倫理として禁欲的行為が崇高な行為であることを教えた。
儒教は、
(1)国家に対する忠、
(2)親に対する孝、
(3)友人に対する信、
(4)年長者に対する敬
を強調する。
したがって、儒教のイデオロギーの下で、日本に年功序列と終身雇用制を基礎にした国家主義的資本主義が発展したことは自然である。
儒教は常に人間相互間の相対的関係を問題にし、個人の行為を神と言う絶対の尺度で評価することをしないから、個人主義は窒息させられてしまうが、 にもかかわらず儒教は、主知主義的、合理主義的である。
明治維新以降、日本は、西洋科学をそしゃく吸収することに成功し、和魂洋才の資本主義が定着した。
イギリスが新教資本主義というならば、日本の資本主義は、儒教資本主義である。」

6.「魔女狩り」

「魔女狩り」は、ヨーロッパの近代化、特にキリスト教の脱魔術化のプロセスで現われた。
特に16〜17世紀、宗教改革時に、ドイツで激しく行われた。
ケンペルの郷里のレムゴ−も、そのひとつである。
この現象は、<ヨーロッパのキリスト者の内なる未開性>をあらわすものとして、後にユダヤ人迫害にみられるように、すぐれた隣人愛を目標としながら排外性、残忍性を潜在させるという自己矛盾を露呈した。
最近では、魔女迫害という現象を、啓蒙主義的、近代主義的立場からもっぱら前近代における迷信や狂喜の所産としてのみとらえるのではなく、心性や人間関係レベルを含むより広い文脈の中で解明されるようになってきている。 ニーチェが「神は死んだ」と叫んで以来、いわば、キリスト教が長い歴史の中で捨象してきたために、捉え切れていない人間の肉体、自然性といったものが、東洋文化の見直しとともに、さまざまな形で見直されるようになってきている。

1.十字形

十字は、太陽、月、星、空、水、火、風、大地、雷電、生命の樹、豊穣、破壊と創造、復活と救済、吉祥、繁栄、超越、中心、統合などの象徴として、古代から最も広く用いられてきた図形であり、方向性と中心を示すことによって、混沌から秩序を生み出す機能をもつものとかんがえられる。ユングはこのように普遍的にみられる十字表象は、人間の心の深層における所産であり、元型的な性質をもつとした。(世界大百科事典)

2.オランダの人工的な幾何学的国土、地形などが発想の土壌
「世界は神がつくったがオランダは人間がつくった」という諺があるように、オランダにおける地形の直角と直線は、海から低地を守るための何世紀にも亘る労働の証拠である。
気紛れで変わりやすい自然を超越したいという欲望が、直角と直線による普遍的な単純性を生みだした。
とともに、オランダの国民性の純粋性には、カルビニズムという宗教的信条の厳正といった影響も見逃せない。

3.芸術観
美とは、好みや魅力のことではない。
「自然」が現前することである。
「自然」とはあれこれのものが生成し、たち現われてくるはたらきにことで、あらゆる存在者をすべて己の働きのもとに存在せしめるものである。
美の顕現とは、そうした自然の働きに対応して、なべて「ひとつのもの」によって根源的に統一され調和している場合のことである。
(市倉宏祐「ハイデガーとサルトルと詩人たち」より)

1.アドルノの同一化原理批判
アドルノは「アウシュビッツのあとで詩など書くことは野蛮である」といい、普遍化ないし同一化原理による内外の自然の抑圧を徹底的に批判した人である。

自然(客観)は、そもそも非同一であり、同一は主観主義的である。存在概念の内に矛盾があるのに我慢ならなくなって矛盾を押さえつけてしまう。「真理は変化する事象と共に生成してきたものなのであり、真理の不変性とは虚偽である」として「否定弁証法」を唱える。

否定弁証法とは、統一原理や上位概念の全面的支配の代わりに統一の呪縛の外にあるかも知れない観念を引き出そうとするもので、「哲学の任務は、思想にとって異質的なものを思考することである」という。

真実を認識するためには、自らの理性的判断を放棄してはならない。思索に関し、集団に自己を任せてはならない。仲間たちの優れた知恵によって超えられ片付けられていると言うがごときは、議論ではなく規格的スローガンであると。

同一化の原理は、現代の我々の生活のあらゆるものの商品化(交換価値化)に、端的にあらわされている。自然ですら観光産業によって交換価値に組み込まれている。

アドルノによれば、動的な個別的特殊的なものは、たえず自己を、自己の形成した客観ないし全体を否定してゆく弁証法的なものであるが、同一化の圧倒的な支配から現代人は、容易に逃れられそうもない。

(参考:小牧治著「アドルノ」清水書院)

2.音楽という時間は過ぎ去ってゆかない
レヴィ=ストロースは、神話との類似性に関連して、音楽について次のように述べている。
「音楽は、通時的には旋律が、共時的には和音があり、一つひとつの音は、前後の関係の音とともに、同時に発せられる他の音(無音も含む)とも関係をもっている。
同様に、交響曲の総譜も、縦軸と横軸のある2次元な表現方法をとる。
時間は、不可逆で一次元的であるが、音楽は、この「時間」の制約を克服する一つの方法として、通時的、共時的に関係をもった諸要素が互いに共鳴したり、対立したりする、複雑であるが論理的な全体をつくりあげる。
つまり、音楽は、過ぎ去ってゆく時間を否定するために必要な「時間」というわけで、過去、現在、未来はすべてひとまとめにされ、同じ論理の型に入れられる
ラベルのボレロなどは、一つの典型例である。」

(板橋作美他著「レヴィ=ストロース」清水書院)
レヴィ=ストロースは、未開社会の神話にみられる「野生の思考」を、通時的に文明にいたる過去の一プロセスとみなすのではなく、文明と共時的関係にある「異なる文化」として復権させた。

1.人間は、自然から生まれながら、自然との調和を考えるようにはできていない

岸田秀氏は、八木誠一氏との対話「自我の行方」(春秋社)の中で、興味深い見解を述べている。
それは、人間は、本能が壊れてしまって、その代用として自我を作り出したとい うものである。
本能が壊れてしまった人間の生は、歪みと自己矛盾を内在しており、生の営みの一部を「自我」とし、他の部分を抑圧して無意識の領域に追いやることで安定をはかろうとしている。
自我は、人間の一部にすぎないが、絶対化して対他対抗、対内抑圧によって狭い己の殻を守ろうとする。我執とかエゴイズムといわれる状態である。
自我なくして生きられない人間にとって、自我は、いわば必要悪である。
(この点、自我は国家に似ている)
この対談で、自我を相対化して「本来の自己」を回復する可能性を宗教家の八木氏は主張するが、岸田秀氏は、「自己の歪みの自覚」までが人間の限界であるという。

コメント:
本能が壊れたということは、いいかえると、他の動物とは異なり、繰り返す自然の時間や法則を「待つ」という本能の生活から脱皮し、「不測の世界」に対応していることを意味する。
明日を予見し、異なる環境に適応する能力、即ち、因果関係を認識し「目的−手段」の行動様式をとることによって、自然に働きかける能力を持つ。
因果関係をする認識は、先行きに不安を感ずるようになるため、現状を守り必要以上に力を拡大し明日に備えようとし、闘争と自我の絶対化を生み出す。
この本能の脱皮の展開が、本能の基盤そのものの破壊をしてしまったとも言える。
(高坂正尭「近代文明への反逆」)

2.フッサールの「生きた現在」

「われわれがあるものを知覚するとき、視覚に応じて、「現に見えている」部分の地平に、隠れている部分(「すでに見た、あるいはまだ見ていない部分」)が知覚の働きの中に共に与えられている。

このことは、音楽のメロディの知覚の場合にいっそう明瞭である。過ぎ去った楽音は消失してしまったのではなく、現に聞こえている楽音をまさにその楽音たらしめているものとして、保持されている。そうでなければ、メロディを一つのメロディとして知覚することはできない。

今は、点的な今ではなく、過ぎ去ったがまだ「生き生きしている」たった今を彗星の尾のようにもっているし同様にまだないすぐの今持っている。

前者を「過去把持(記憶、想起)」、後者を「未来把持(予見、期待)」といい、これらに、「現にある現在」から構成されたのを「生きた現在」という。」

(加藤精司著「フッサール」清水書院)

この「生きた現在」は、われわれが体験する時間であり、主観的であるが根源的である。

単純な継起やくり返しではなく、「今の新しさ」には絶対性(他のものによって産出されるのではない)があり、自己を産出、構成していく流れとして捉えられる。

芸術の営みとしての創造力の源泉は、ここにある。

(根源的な力は、有限である個々を媒体に「生きた現在」における創造力(無意識)として現れる。)

3.二重の世界

「二重の世界」を人間と神の関係で考えると次のような自由と愛の関係としてとらえることができる。

「自由な単独者の自己決定ということが、人間の本来のあり方であるが、近代は、その代わり、神と隣人とのかかわりを否定する形で自律を主張したのではないか。
隣人への愛が自由であり、神への従順が自由であると言うのは、逆説である。
しかし、人間は、垂直面では神とかかわり、水平面では隣人とかかわっている。
自分ではない他者とのかかわりの中では水平面では矛盾する愛も、垂直面では愛のために自発的に自己を否定することが呼び掛けられている。
重力の法則のように、愛の法則が、常に人間の「自由」を介して実現する場に、我々は住んでいる。」
(八木誠一「イエスと現代」NHKブックス参照)

4.言葉は物の名前の集まりで既存の事物や概念と一対一の対応をしていると思い込んでいる典型例

彼によれば、「言葉以前の現実は混沌とした連続体であり、これを区切り、グループ別に分け、カテゴリー化するのは、言語を通してである。
だから、言語のカテゴリー化、抽象能力によって、概念も事物もつくりだされる。」と。
言語学者の鈴木孝夫も「ことばと文化」(岩波新書)の中で次のように述べている。
「人間は生のあるがままの素材の世界と、直接ふれることができない。素材の世界とは、混沌とでも、カオスとでもいうべき、それ自体は無意味の世界であって、これに秩序を与え、人間の手におえるような、物体、性質、運動などに仕立てる 役目を、ことばが果たしている。
ものに言葉を与えるということは、人間が取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎなく、対象の側に必ずしも裏付けのない虚構である。
人間の精神が、人間をとりまく森羅万象の世界に働きかけて作り出すことばは、すべてこの虚構性に支えられている。」と。
つまり、私達に見えている世界は、対象の実在する姿を反映しているのではなくある視点から言葉によって秩序付けられた世界なのである。
それが、対象の実在する姿を反映しているように見えるのは、ある視点から言葉によって秩序付けられた世界が、一定の文化圏の長い歴史の中で沈澱し「前提の世界」として共有されているからである。


1.日本の伝統建築空間における「オモテ」と「ウラ」

  
  寝殿、書院など日本の伝統建築は、基本的には、庭と一体となっていて、屋根と床と縦横の柱、梁、桁だけが固定され、部屋から常に周囲の庭を見ることができる設計思想になっています。
つまり、「自然」に対して開かれた人間のインタフェースが基本となっていて、襖、障子、屏風、畳などの間仕切りはありますが、固定されていません。この開放性は、日本建築の特徴の一つですが、これは、湿気の多い気候条件や島国で山海に挟まれているという(外敵侵入の少ない)地理的条件に依存するとともに、元来人間と宇宙は一体で、人間の体と家(個別性)は「無常」の世界の「仮の庵」いう、道教や仏教思想の影響もあります。
間仕切りなどの空間の区分は、垂直面では床高(序列)、水平面では、オモテ−ウラ(生活−自然,公−私),オクなどの社会的な意味を持っていますが、壁によって固定される部分は、少ない。特に、床は、それ自体で、椅子、卓、寝台などの機能を持ち、間仕切りも舞台装置ように、可変性とともに、もとの全体に戻す可逆性があります。
この開放性の他に、日本の空間の捉え方のもう一つの特徴は、周縁性ということです。
「日本住宅の空間学」の著者、 宇杉和夫さんによりますと、
「日本は、大陸の中心から離れた島国として常に周縁にあり、地形的にも山海に挟まれていて、中心の世界に対する「周縁の小宇宙」のなかに自己の世界を見出してきた。
このことが、常に、周縁から全体を動的にとらえなおす発想につながり、雁行建築やアンシンメトリカルな造形美を生み出してきたのではないか。」といいます。
 間仕切りの仕方にも、同様な発想があり、茶室など数寄屋は、柱による開放的なオモテ世界に対して、壁によるわび、さびの小宇宙(ウラ世界)をつくり、社会的ハイアラーキーや宗教的イデオロギーを拒否した個人の内側の世界を作り出しています。(石井和紘著「日本建築の再生」参照)
 オモテとウラの区分は、建築空間を、「現実」と「自然」の「二重の世界」として捉えることを意味しています。
日本では、仏教、道教などによって「二重の世界」の思想が培われ、常に「現実」の世界を、それを包みこむ別次元の原理で展開している「自然」から見つめ直す生き方を教えてきました。
 たとえば芭蕉の俳諧なども、17文字という閉ざされ局限された孤独な「自然」(旅)に入ることで、「現実」を否定し、同じように孤独に「自然」と向かい合う他者との無限の連帯を実現しようとするものでありますが、わび、さびの茶室空間なども同様の意味を持っています。


2.日本文化とフランク・ロイド・ライトとデステイル


帝国ホテルを作ったフランク・ロイド・ライトは、初期のころ、版画をはじめ日本文化の影響を受け、自然と一体となった日本の伝統建築の簡素、機能性、開放性などの空間的性格を持った建築を作っています。「プレーリイ住宅」といわれるものです。
このライトの作品集が、オランダのベルラ-ヘを介して「デステイル」グループの、ドースブルフやアウトといった建築家を触発し、モダニズムの発端となったといわれています。
「フランク・ロイド・ライトのモダニズム」の中で三沢浩さんは、ニュートの「フランク・ロイド・ライトと日本文化」の論考を踏まえ、次のように述べています。

「デステイルの構成原理は、よく考えてみると、日本の建築伝統に端を発し、ライトを経由して次第に近代性に向けて抽象化され、「プレーリイ住宅」というひとつのフィルタを経て、モダニズムの言語となって昇華されデステイルのなかに咀嚼されていったと考えられる。」

このライトの建築には、日本文化の何が吸収されたのでしょうか。
1893年シカゴ博覧会に日本が出展した「鳳凰殿」がライトに衝撃を与えたと言われています。「プレーリイ住宅」などにみられるライトへの日本の影響を整理すると、次の5点に整理できます。

1.版画のように余白を多く取り、一方に寄せてバランスをくずすアンシンメトリ性
2.柱と壁の点在によって空間をわける開放性。
3.無意味なものをとりのぞく単純性
4.自然との合体
5.「空間こそ建築の真実である」(岡倉天心「茶の本」の中で、「室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見い出すことができるのであって、屋根や壁そのものにはない」と述べている)。

一方、デステイルは何をめざしていたのでしょうか。
モダニズムは、
過去の歴史と文化に根拠を置く歴史主義に変わる、科学と技術の時代を表現する合理的で機能主義的な建築様式ですが、デステイルのリーダであるドースブルフは、次のような新しい造形の原理のための条件を提唱しています。

「新しい、開かれた建築において、閉じられた壁は打ち破られ、そうすることによって、内部と外部の絶縁が取り除かれる。壁はもはや荷重を受けず、そのため配置が自由になり、可動式の間仕切り(内部)や外面の保護膜として存在する面(外部)によって空間が分割される。分割は交差する矩形面によって構成される。色彩は、建築における関係性の均衡を可視的にする手段であった。」

このような条件を充たす建築としてライトの「プレーリイ住宅」(前述の1〜3までの特徴)にドースブルフは注目しました。

この両者の関係に付いて、「デステイル」展示図版のなかで、新見隆さんは、
「ライトが鳳凰殿から学んだもののなかに、垂直線の交差や、縦横のグリッドを原形として、ズレや連続効果で空間を生もうとする型が有り、この点では、ライトは、デステイルよりはるか依然にグリッドのひとであった。」と述べ、
「こうした幾何学的パターンの増殖で自動的に空間を生んでゆくような「手法的空間」は半分以上はジャポニズムである」と言い切っています。