1. なぜ両者が結びつくのか

2. 宗教体験の類似性

3. 捨て聖、清貧の聖

4. 歴史的、社会的背景の共通性

聖フランシスコと一遍上人

5. 聖フランシスコの歴史的背景

6. 一遍の歴史的背景

7. 無縁な人々を招き入れた
  天の家


1. なぜ両者が結びつくのか

アッシジの聖フランシスコといえば、ジオットの壁画で「小鳥に説教する聖人」が大変有名です。映画好き音楽好きの方ならば、「ブラザー サン、シスター ムーン」の映画や主題歌を思い出すでしょう。
一方「一遍上人」といえば、「捨て聖」、踊り念仏などの遊行上人として有名ですが、とくに「一遍聖絵」が日本の絵巻物のなかでも、鎌倉時代の当時の実際の様子を忠実に記録している歴史資料として大変注目されています。
この二人が、なぜ結びついてくるのか。

2.


宗教体験の類似性


それは、この二人の宗教体験の類似性にあります。一遍の研究者である高野修氏は、著書「一遍上人と聖絵」やNHK「宗教の時間」等で両者の類似性について次のように触れています。

「一遍もフランシスコもその出発点は一切を捨て去ることからでした。
一遍は捨てることについて、すべてを捨てよと言います。そして、捨てようと思った心もまた捨てなさいと。なぜなら捨てるというと、またそこに分別が顔を出すからです。
フランシスコも「なんじ、もし完全ならんと欲せば、往きて持てるものを売り、これを貧しき者に施せ、さらば天において宝を得ん」と、また「人もしわがあとに従いきたらんと欲せば、おのれをすて、おのが十字架を負いて従うべし」、さらにまた「途中なにものをも携えざることを命ぜり」と、聖書の言葉をその心にきざみこんでいたのでした。
その意味で、一遍もフランシスコも乞食集団でした。ともに道場(教会)を持たなかったわけですが、何処にも家を持たなかったと言うことは、何処へ行っても自由であったということなのです。神仏の愛を伝達するものとしては、自由でなければならないからです。自分の都合で人を愛してはいけないからです。愛するとは自分を捨てることであると、一遍もフランシスコも私に語りかけているのです。」

己のすべてを徹底して捨てる行為を通して神仏の愛を伝達する人物が、12〜13世紀に直接文化交流のなかったイタリアと日本において、出現したことに、改めて驚かされます。

(己の所有物や己自身も己のものではなく、目に見えない大いなる力によって生かされ、借りているに過ぎないという考え方は、キリスト教、仏教にもある)


3.


捨て聖、清貧の聖


聖フランシスコと日本における仏教界との類似性は、高野山を開基した明恵上人や天台真盛宗の開祖である真盛上人等が上げられることがあります。いずれも、フランシスコが小鳥に説法をした逸話や「太陽の賛歌」の詩にみられるような自然への慈しみに共通性をみています。

これに対し、一遍との類似性のポイントは、徹底して己を捨て「もっとも小さき者」を救済し「天の家」をつくりあげようとするところにあります。一遍は「捨て聖」といわれ「捨てる心も捨てる」といっています。一方フランシスコは「清貧の聖」といわれ、捨てることの究極である己の肉体の死を清貧の到達点として親しげに「姉妹なる死」と呼んでいます。

両者の類似性は、次のような諸点に整理出来ます。

一遍 聖フランチェスコ
1239〜1289 1182〜1226(伊)
捨て聖 清貧の聖
宗教 ・阿弥陀仏への絶対帰依
・釈尊の原始教団を範とする
・神への絶対的信頼から福音宣教
・イエスの原始教団に倣う
無所有の精神 ・ 捨てる心も捨ててしまった(名号に死し蘇る) ・無所有の精神(創造者である無限の存在者に返す)
・托鉢による勧進乞食

・ 阿弥衣
・托鉢と奉仕(金銭から切り離された労働)
・縄帯
乞食、ハンセン氏病者など非人救済 ハンセン氏病者救済
道場は無用 → 遊行(時衆)  教会なし。小さき(貧しい)兄弟会
対自然観 山河草木、風の音、波の音も念仏=阿弥陀の声 ・小鳥、野生の動物、野の草花、太陽月星に神の声を聞く
歌人、念仏踊り(芸能への親和性) ・吟遊詩人『太陽の賛歌』
行動の記録 絵巻物:聖絵(聖戒、円伊) 壁画(ジオットー)

4.


歴史的、社会的背景の共通性


なぜ、神仏の愛の伝達するために、極限に等しい無所有の思想と行動がこの時代に現れたのでしょうか。
両者の間には、直接文化交流はなかったとはいえ、歴史的、社会的背景としては、次のような共通点を見いだすことが出来ます。

(1) 都市及び貨幣を媒介とする人間関係への変化の時代
(2) 宗教(仏教、キリスト教)の大衆への浸透の時代
です。

ここで、両者の歴史的、社会的背景を簡単に見てみましょう。


5.


聖フランシスコの歴史的背景


阿部謹也著「中世の窓から」によれば、11世紀末から13世紀にかけて、ヨーロッパは、すべてにおいて大きな変換期を迎えていたといいます。
「ヨーロッパ全域に市場、都市が成立し、貨幣経済が全面的に展開するとともに、貨幣を媒介として人と人の関係が徐々に形成されてゆきます。商業の復活を背景とした富の蓄積が際だった成果をみせ、各地に天を摩する大伽藍がその雄姿を見せるようになった。」

三圃農法などの普及、馬具などの発達により農業の生産性が増大し、交通が拡大し、密接になってきます。著しい人口の増加とともに、村からあふれた人々が、開墾や植民に従事したり、商人、小人手工業者、未熟練労働者、放浪者として都市に流入し、都市では、商取引、流通圏が成立し、貨幣による関係が、人と人の関係を規定しはじめます。

中世都市は、身分制原理と、金銭、財力の原理が確執しあう世界であったわけですが、そのいずれの原理からもはみだしてしまう多くの下層民がいました。身分制原理が徐々に衰退してゆくなかで、人々は解放されてゆきますが、金銭、財力の原理で虐げられてゆきます。

一方、11世紀末のグレゴリウス七世以降、ローマ教会は教皇を頂点とする支配機構を確立し、その力を末端まで及ぼすようになってきますが、皇帝との権力争奪にあけくれ、こうした下層民を救う力を持ちえませんでした。フランシスコが、目指したのは、そうした下層民の救済でした。とりわけ、もっとも蔑視されていた賤民層と呼ばれる人たちでした。


ジオット画「貧民にマントを与える聖フランシスコ」

6..


一遍の歴史的背景

一方、一遍についても、網野善彦氏の「一遍聖絵」によれば、やはり「一遍の生きた13世紀後半という時期は、日本列島の社会の歴史の中で重大な転換期のはじまるころ」であったといいます。
「社会は、確実に貨幣経済の段階に入っており、それを背景に、各地に都市ないし都市的な場が形成されて」おり、一遍の宗教は、「そうした場における人々を前提とした方法によって伝導、布教された」とのべています。

これらの人々は、11世紀後半以降、商工業、金融、技能、職人、芸能などに専ら携わり、各地を巡り歩くことで広域的な商業、交通、金融の自律的なネットワークを形成してきた人々で、村落共同体とは「無縁の人々」であったといいます。彼らは、川、神社、寺院、墓、市などを拠点に、世俗の権力や武力とは異質なアジール的な世界をつくっていたと考えられています。しかし富の蓄積からも無縁な多くの人々は、身分外の非人、賤民として排除、抑圧されはじめます。
また、当時の仏教は、天台宗、真言宗など大教団化してゆくにつれ、貴族などとの結びつきが強くなり、民衆から遊離してゆきます。

一遍は、これら行き場を失った非人や女性など弱者の救済を目指して、我執を捨て阿弥陀仏への絶対帰依を説きます。「無所有という原始そのものに徹底して帰ることによって、新しい社会の動きの中に身を投げだそうとしていた」(網野氏)といえるのかもしれません。


7.


無縁な人々を招き入れた天の家

仏教とキリスト教という異なった文化で、どうしてこのような似かよった現象が現れてくるかについて、黒川俊雄氏は「日本の歴史(蒙古襲来)」のなかで
「既成の教団なり教会・修道院なりが封建支配と結びついてしまって民衆から離れつつあるときに、煩瑣な教理や神学としての改革を論ずるのではなく、素朴な民衆の信仰にうったえる宗教運動が期せずして起こる」と述べています。

宗教運動は、「この世」を相対化し、死者(あの世)を含む人間の関係において、死と再生の循環に「命」の運動を見いだしてゆきます。「この世」はいつも「所有の原理」が支配する世界です。身分制原理の後には金銭、財力の原理が支配して来ます。
聖フランシスコの場合も一遍の場合も、貨幣経済への転換期において、「無所有」「我執を捨てる」を説くことで「この世」を相対化し、都市的世界に放出された貧しき「無縁な人々」を招き入れる「天の家」をつくりあげようとする活動ではなかったかと思います。
とりわけ「無縁な人々」のどん底にあったハンセン氏病の人々などを共に受け入れるためには、己を徹底して捨てることなくしては不可能であり、我々を感銘させる両者の偉大さはそのあたりにあります。

フランシスコと一遍の一種の宗教改革運動は、封建支配に反発するものまでとはなりませんでしたが、聖フランシスコは、ヨーロッパの歴史において、イエスの原始教団の生き方を再現した人として、その精神は現代にも受け継がれています。

一遍については、宗祖の真価が現代の我々に必ずしもよく理解されているとは言い難い面があります。一遍死後、室町中期まで、時衆は、遊行聖として無縁な人々を支えるとともに、勧進と結びついた芸能の担い手を多く輩出してきましたが、室町末期から惣村の定着とともに、遊行による布教は衰退期に入り、戦国時代に蓮如の浄土真宗にほとんど吸収されたことや、江戸時代、幕府の権力の傘下に組み込まれ、民衆を救う宗教の役割を失って行きます。

(補足)
現代において、この一遍をよみがえらせた一人が「南無阿弥陀仏」を書いた柳宗悦です。柳宗悦は、大正時代から昭和にかけて民衆芸術運動を展開した人ですが、彼は、名もない庶民の手になる民芸がなぜ美しいかということと、名もなく貧しい庶民の魂を救った一遍の宗教とに一致を見ました。「一遍の人格が大自然と完全に溶け合い大自然そのものになりきっている。」と述べています。