「ガリバー旅行記と日本

著  者
 Maurice Johnson,   
Philip Williams,  
Kitagaki Muneharu  
1977

同志社大学に、「東洋を研究する人々」のための"Moonlight"という出版シリーズがあり、「ガリバー旅行記と日本」はそのシリーズの一つである。

<目次>
まえがき
緒 言
1.Purchasとガリバー旅行記
2.ガリバー旅行記とケンペル「日本の歴史」
3.ガリバー旅行記と日本語のいろは



まえがき

 ムーンライト・シリーズがねらいとするところはさまざまであるが、とりわけ、このようなやり方でなければ日の目をみることがむずかしいと思われるような分野に光をあてること、つまり、このような方法でももってはじめてしっくりとかみあわすことができるような知識の総合の場を提供することである。
とくに適当と思われるのは、文化交流の諸問題であって、従来では片方側からのアプローチがなされたにすぎなかった種類のものである。
こういうわけでスウイフトの「ガリヴァー旅行記」のなかに日本的な原型をさぐろうとする試みは、このシリーズの4号として特にふさわしい主題といわなければならない。
世界に知られているアメリカのスウイフト学者、18世紀英文学を講ずる日本の教授、そして25年間にわたって日本で教えてきたアメリカ人この論文はこの3人の学究による研究と解釈の成果なのである。
ガリバが日本を訪れたのはなぜか?
この問題に私の友人の二人仙台のフィリップ・ウィリアムズと京都の北垣宗治がそれぞれ独自に取り組んだことは面白い偶然だった。
ガリヴァーが訪ねた国々のうち日本だけが唯一の実在の国だったが、その日本はスウイフトの時代には、鎖国の最中であった。
15年前からウィリアムズ教授は、「ガリヴァー旅行記」に出てくる日本に関する資料をジョンソン教授の大学院のレポートのため調べ始め、さらに、「パーチャスの巡礼」とエンゲルバート・ケンプファーの「日本誌」を研究してみた結果、一つの考えさせられる結論に到達した。
それは、レミュエル・ガリヴァーの性格を構成するにあたりスウィフトが、17世紀初頭の日本における有名なイギリスの帰化人ウィリアムアダムス(三浦按針)と、ドイツの医者でオランダの貿易使節団の一員として江戸城で将軍綱吉の謁見をうけたケンプファーの性格から素材を得ていることはほぼ確実だということなのである。
北垣教授の方は、1968年に「日本におけるガリヴァー」と題する論文を発表し(「主流」別冊、同志社大学英文学会pp80-106)、またこの共同研究がまとまりかけた頃に、その中間報告として「ガリヴァー旅行記とケンプファーの「日本誌」」を世に問うた。(「英文学世界」英潮社、1974年4月号)。
共通の問題意識が二人の間に緊密な協力をうみ、ついにこの論文にまとまった次第である。
本稿では、ラガードのアカデミーで、がりばーが見学した「文字盤」の点検をはじめ、日本の資料の綿密な考証は北垣教授に負うところが大きい。
スウィフト学者として著名なジョンソン教授はこの論文の構成その他について指導と助言を与えてきた。
その上、付録として、スウィフトのあまり知られていない未完の風刺作品「日本国とその宮廷」についての一文を寄稿してもらえたことを幸いに思うものである。
この共同研究の出発は、8年前にさかのぼる。
それぞれ忙しい教授であり、その他の業務に妨げられて、進み具合は遅々としたものであった。
おまけに北垣教授は、1973年から3年間に亘り同志社大学の学生部長の職にあった。
共同研究は、ふつうは別々に、しかし時々集まりながら続けられた。
その場所はフィラデルフィア、仙台、京都、東京、スワスモア、信州の野尻湖畔、大英博物館、ワシントンのフォルジャー図書館、ハーバード大学図書館などにまたがっている。
私の祖父のコレクションの中にあったケンプファーの「日本誌」の1728年版(現在同志社大学内の「ケーリ文庫」に収蔵)大いに役立ったことは幸いであった。
ただし、ここに掲げたタイトルページ(図版U)は1727年の初版本からとったものである。
フィリップス・ウィリアムズ教授は1950年以来仙台の東北学院大学に派遣されているアメリカ・キリスト教団世界伝導協会(UCBWM)の宣教師であって、アメリカ文学、特にフォークナーやT.S.エリオットを専門としている。
彼は、18世紀英文学にも造詣が深く、サムエル・ジョンソン博士に関する論文などもある。
ペンシルバニア大学から博士号を受けた。
北垣宗治教授は、同志社、セント・アンドルーズ、アーモストの諸大学に学び、後程フォルジャーシェイクスピア図書館で研究した。
現在はハーバード大学に研究留学中である。
専攻は、17−18世紀英文学であるが、特に翻訳の問題に興味を示している。1958年以来同志社大学で教えてきた。
アーモスト館には学生として1943−52年に、館長代理として1970-71に住んだことがある。
彼は、アーモスト館の忠実な息子であって、このムーライトシリーズも1963年の出発以来、彼に負うところが少くない。
モーリスジョンソンは教授は、30年の年月にわたってスウィフトに関する論文や批評を発表してきた人で、「機智の罪−詩人としてのジョナサンスウィフト」の著者として知られている。
フィラデルフィアにおけるペンシルバニア大学の英文学の教授で、大学院の主任教授をも勤めた。
このエッセイを完成させるにあたり、著者たちが各方面から受けてきた暖かいご援助のに対し、謝意をあらわしてほしいとの要望があった。
先ずジェイムズLクリフォード教授、福田陸太郎教授、ドナルドキーん教授、ルイズ・A・ランダ教授、朱田夏雄教授、鈴木善三教授、吉田光刺児教授から与えられた支援、激励は著者たちの忘れ得ないところである。
高山修教授は資料の点で便宜をはかって頂いた。
今中寛司教授からは日本史について貴重なご教示を頂いた。
戸川治之教授には文字盤の拡大写真で御世話になった。
また複雑きわまる文字盤分析については佐々木隆、柳沢正子、井田秀穂の三氏の協力を得た。
あわせて謝意を表すものである。
この書の出版をもってアーモスト館は、古い分析に新しい一歩を踏み出すことができた。編者として喜びに堪えない次第である。
          編者 オーテス・ケ-リ
                        1977年1月  京都にて



緒  言

 ジョナサン・スウィフトが「世界の遠い国々」に彼の「旅行記」を所収するために色々な旅行記を研究し、これらの本の数々が、彼の蔵書にあったことは、よく知られているけれども、日本に関する資料の取扱いについては特に調べられていない。、
「旅行記」で、日本は、奇異な名前の空想上の島々の中で唯一実在する国として、第3章に取り上げられている。
第1章リリパット、第2章ブロブディングナグ、第4章フイヌムランドにおいても、日本に関する記述資料からヒントを得ているが、第3章のラピュタ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリブ、そして日本への航海が、この論考におけるわれわれの主要な関心事である。
われわれは、ヨーロッパに伝わっていた日本に関する情報とガリヴァ旅行記との対応関係だけでなく、スウィフトが読まれるようによく注意を払った点にまで光を当てようと試みた。
第1章では、スウィフトが所蔵していた「パーチャスの巡礼」(1625)のなかの「ガリヴァ-」の記述と関連する資料を取り上げる。特に、17世紀日本で生活した英国人、ウィリアム・アダムス(1554-1620)に関する資料である。
第2章では、ガリヴァー旅行記とほぼ同時に発刊されたケンペルの日本の観察記をとりあげ、スウィフトがケンペルから特別に借用したアイデアを明らかにする。
最後の章では、ラガード学院での自動記述装置についてのガリヴァ−の奇妙なプレートとケンペルの文字盤との類似性について説明する。
日本の政治、地理や場所の名前、日本におけるオランダ人の行動への批判など、スウィフトが日本に関する参照・記述を調査しているうちに、「日本はスウィフトにとって何であったか」ということが、明らかになり始めた。
諸々の史実は、かれの想像力の坩堝となった。
(中略)
スウィフトの想像力は、日本の実際の旅行記の歴史的な資料を通して、ガリヴァーの性格をつくりだした。
日本にきた二人の旅行者(アダムスとケンペル)から抽出され再構成された姿は、ガリヴァーの姿に非常に似かよってくる。

アダムスは、日本を訪れた最初の英国人で(1600から1620の死まで)、かれの手紙と歴史は「パーチャスの巡礼」に記録されている。
ケンペルは、1727ロンドンで出版された記念すべき「日本誌」の著者で、これらは18世紀から19世紀のヨーロッパの日本に関する知識の主要な源泉であった。

スウィフトが、これらから、採用したガリバ−像は、次ぎのようである。

「オランダ人になった英語を話す船医で、痛ましい経験を経て奇妙な国から最後に日本へ運ばれる。そこでアダムスは反乱者によって上陸させられる(この点は、パーチャスにおけるジョン・サーリの不正確な記述による)。江戸へ連れて行かれ、投獄された後、母国での生活を説明させられる。彼を殺そうと主張するポルトガル人の抵抗に会うが、慈悲深い日本人通訳によって皇帝の前に連れて行かれ、床をなめる儀式をおこない、ダンスや猿真似をさせられ、プライドを傷つけられる(ブロブディングナグのガリバーのように)。皇帝の高い信頼を得て鉄砲や船の秘密や、ヨーロッパの宮廷について講述するなど、支配者の地位の高い助言者の一人として活躍し、100家族の従者を抱える領地を得る。たびたび長崎へ行き、絵踏みを知り、オランダ人のキリスト教への態度を呪う。母国の家族への思いは、揺らいでゆき、だんだん否定的になる。彼が出会ったヨーロッパ人を拒否し、とくに匂いを忌避する。
ついには、完全に、英国に帰りたがらなくなる。日本の生活の服装、習慣に染まってゆき、結婚さえする。」

ケンペルとパーチャスは、小人の国や、野獣的なヤフ-(エゾ)人間、優れた馬などについての情報源でもある。
また、日本は、きわめてエチゾティックで、ロンドン並みの5都市(そのうち2都市はより大きい)がある国で、他国との交流を断つことを、計画的に実施している国として紹介された。
1639年徳川将軍は、西欧との結びつきを断ち、長崎の小さなオランダ商館を除いて鎖国時代に入った。
以来200年間、1853年のペリー黒船来航まで続いた。他の国と安全を保つことが可能な神秘的で、力のある魅力的な社会があった。オランダだけが、年に1−2回、船で牢獄のような居留地に運び込むというわずかな貿易の足がかりを持っているに過ぎなかった。そこは、長崎港の人工の島で100人のヨーロッパ人が住んでいた。、
オランダだけが日本とコンタクト続けたという事実は、スウィフトの関心を引くに十分だった。このことによって、100年前、富の貿易圏から英国が締め出されていた。
このことは、英国人の記憶にわだかまっていて、スウィフトは、オランダへの復讐の機会を狙っていた。
日本における反キリスト教的施策に対するオランダの臆病な金銭がらみの服従は、英国人にとってオランダ攻撃の絶好の材料であった。。
そうした視点からスウィフトはパーチャスをよみ、さらに、ケンペルの翻訳に興味を示し、そこにかれの想像力を駆り立てる材料を見出していた。
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三人の著者は、それぞれペンシルバニア大学、京都の同志社大学、仙台の東北学院大学の英語の教授である。