スウィフトとケンペルの関係年表

下記年表からみて、ケンペルの「日本誌」の草稿をスウィフトが「ガリバ-旅行記」の素材として取り入れる可能性があったかどうか。草稿を読んでいたとすれば、時間的には不可能ではなかった。

スウィフト

ケンペル
1693年 ケンペル92年長崎を出発しアムステルダムに戻る
1694年 ケンペルのスケッチの一部が、アムステルダム市町ウィッツエンからロンドン 王立協会のリスタ-博士に送られ、王立協会の「フィロソプィカルトランザク ション(哲学紀要)」に公表される。
1713年  スイフトは、ロンドン政界の舞台の表裏で活躍していた時期で、友人の文人たち(詩人のホープ達)と「スクリブレールスクラブ(文人会)」をはじめており、会員共同で「マルティヌススクリブレ-ルス回想録」を発行することになる。

ケンペル「廻国奇観」レムゴ-で出版。

(イギリスでは読者に大変な印象を与えた。)

1714年 「ガリバ-旅行記」の「小人国」の2/6章、3部の5/6章を書き上げ、さらに、巨人国、「人間であることを嫌悪させるような国」を書く予定であることを予告していた。
1716年 ケンペル死す。
1719年  ダニエルデフォ-のロビンソンクルーソが出る。
1720年 「ガリバ-旅行記」書きはじめられる。
1721年 ケンペル「日本誌」の草稿がゾルマン経由でスローン卿(1660-1753)の手に渡る。スローン卿の若い秘書で司書でもあったショイヒツア-(1702-1729)に翻訳を委ねる。
1722年 「ガリバ-旅行記」1/2部が書き上げられる。
1723年  4部「馬の国」出来上がる。
ヴァネッサ、ステラとの愛のもつれから、自殺。
1724年 ドレイピア書簡続々出る。
1725年  「ガリバ-旅行記」3部が出来上がる。
以降は推敲に時間を費やす。
12月「ガリバ-旅行記」書き終える。 
1726年 10月「ガリバ-旅行記」出版。
1727年 「日本誌」発行。