古楽100

1 グレゴリオ聖歌、ソールズベリー聖歌
グレゴリオなど聖歌は癒しの音楽といわれるが、何度も聞きたくなる歌というのは必ずしも多くない。繰り返し聞いたり謳いたくなる聖歌を挙げてみる。
 (グレゴリオ聖歌) 
◆サルヴェ・レジーナSalve,Regina
◆来たれ,造り主なる聖霊よ Veni Cretator Spiritus
◆過越のいけにえを Victimae paschali laudes
◆シオンよ汝の救い主を讃えよLauda Sion、
◆われは御身を敬虔にあがめAdoro te devote
◆偉大なる秘蹟Tantum Ergo
◆おお聖なる晩餐O Sacrum Convivium
◆アヴェマリアAve Maria
 (以下は、ソールズベリー聖歌)
◆すべての者の救い主なるキリストよChriste Redemptor omnium
◆世の救い主なる主よSalvator mundi,Domine
◆日の出より日が地に沈むまでA solus ortus cardine

*ソールズベリー聖歌:イギリスではカトリック時代から典礼でローマ式のグレゴリオ聖歌をそのまま歌わず、イギリス独自の正確を加えた典礼が行われていた。

2 スラヴ典礼音楽 「十字架挙栄祭」「四旬節と復活祭の聖歌」
スラヴ典礼はビザンツ典礼の流れをくむギリシャ正教の典礼である(スラヴ諸国において独自の民族的色彩のもとに発展したビザンツ=スラヴ典礼)。
楽器を使用しない、独特の旋律をつなぎ合わせた旋法という特徴がある。
大地の香りというか、海岸に打ち寄せる静かな波の音を聞くような、豊かでいつまでも聞き入っていたくなるような不思議な典礼音楽である。歌詞は、典礼だから祈りそのものであるが、祈りがこのような素晴らしい音楽のなかで行われることを大変羨ましく思う。
3 中世イギリスの歌  「夏は来たりぬ」「天使がひそかに」ほか
まだ多声音楽の中心がフランスにあった13世紀ころに、作者不詳の「夏は来たりぬ」など6声で輪唱による世俗歌がイギリスに存在していた。
音楽史上奇跡に近いといわれている。
民謡風の素朴なリズムが多声で躍動する。
この頃の数々のマリア賛歌の曲なども素朴で温かい。古楽の魅力は、この頃の民衆的な素朴な歌に原泉がある。「天使がひそかに Angelus ad virginem」はラテン語であるが、その英語版の「ガブリエルは天父から」や、「祝福あれ(Edi be thu)」などの小曲を聞くと至福の喜びを覚える
4 モンセラートの朱い本
スペイン・バルセロナ郊外のモンセラート山の黒い聖母像で知られるモンセラート修道院に伝承される14世紀の朱い写本(1399製作)には、巡礼者たちによって歌い踊られた10曲の歌が残されている。
民謡や賛歌などで、単旋律、2声、4声のポリフォニー歌曲もある。素朴で力強い旋律は大変魅力的である。
「声をそろえていざ歌わん」や「7つの喜び」などの掛け声のようなマリア賛美には、人々の素朴な一体感と喜びが伝わってくる。
「あまねき天の女王」は、時間が止まってしまったような、ゆったりした世界の中で満たされた響きを享受することが出来る不思議な曲だ。
5 ギヨーム・ド・マショー  「ダヴィデのホケトゥス 」
ギヨーム・ド・マショー(仏1300-1377)は、ポリフォニーの本格的なミサ曲を最初に作曲した人である。
一人の作曲家がミサの通常文をすべて作曲する「通作ミサ」の最古のものがマショーの「ノートルダム・ミサ」である。古楽の黎明期であるゴシック期は、ノートルダム学派(1160-1250)、アルス・アンティクワ81250-1320)、アルス・ノヴァ1320-1380)の3期間に分けられるが、マショーは、アルス・ノヴァの時代の中心的な作曲である。
マショーは、モテトゥスや世俗曲も作っていて、「ああこの苦しみ!どうして忘れられよう」などの面白い浮気女の歌などもあるが、音楽的に面白いのは、「ダヴィデのホケトゥス 」という器楽曲。ホケトゥス とは「しゃっくり」の意味。旋律が短い音譜に区切られ、それを複数で急速に交互演奏する技法で「しゃっくり」をしているみたいな感じになる。不思議な音の展開でなかなか楽しい。
(「ゴシック期の音楽」(A))
6 ダンスタブル  モテトゥス「聖霊よ、来たりたまえVeni Sancte Spiritus/創り主なる聖霊よ、来たりたまえVeni creator Spritus」
ジョン・ダンスタブル(英1390-1453)は、中世末期イギリスの最大の作曲家といわれ、大陸とイギリスの和声を融合しルネッサンス音楽誕生をもたらした人と言われている。
この曲は、中世音楽の手法である複雑なイソリズム(旋律を反復する一定の繰り返されるリズムに埋め込む手法)を用いている驚異的なモテトウスである。
二つのグレゴリオ聖歌のVeni Sancte SpiritusとVeni creator Spritusと前者の改編した曲に基づく4声を、反復するリズムにまさに埋め込みながら展開させる。Veni Sancte Spiritusが旋律の中心になっているものの、同時に違う複数の旋律、歌詞が展開し、不思議な曲である。
ダンスタブルは、天文学者、数学者でもあったというから、複雑な技巧もさもありなんというところか。
このほか  モテトゥス「サルヴェ・レジーナSalve,Regina」も美しい。
グレゴリオ聖歌の旋律にこだわらず自由に作った3声の曲。優しく淡々と歌われてゆ
く。
7 ギョーム・デュファイ   シャンソン「ああ,わが悲しみ」 
デュファイ(フランドル1400-1474)のシャンソンのなかでは、「もしも私の顔が青いなら」が、同名の彼の代表作のミサにその旋律が使われていることで有名であるが、数あるシャンソンのなかで一際印象的な旋律が、「ああ,わが悲しみ(Helas mon dueil)」である。現代のフォークソングにも通ずる叙情的な旋律は、一人だけのものではく、皆と悲しみを共有する旋律である。
ほかに、「「よい日,よい月、よい年」「新年の日」「もしも私の顔の青いなら」など。
8  オケゲム 「レクイエム」「けがれなき神の母Intemerata Dei Mater」
オケゲム(Johannes Ockeghemフランドル1410頃-1497)のレクイエムは、史上最古のポリフォニー・レクイエムといわれるものである。
中世のあいだは死者のためのミサは、グレゴリオ聖歌によって演奏されてきたが、デュファイやオケゲムによって初めて多声化された(残念ながらデュファイの曲は、残されていない)。
オケゲムの「レクイエム」章のひとつ(トラクトゥス)に詩篇42「鹿が谷川を慕うごとく」が取り入れられている。
「魂は神を慕いあえぐ」「お前の神はどこにいる」など神に見放されてしまう絶望の時期の詩である。
死という絶望を前に神の恵みを信ずる祈りを、嘆くことも叫ぶこともなく音楽は黙々と続く。
また、モテトゥス「けがれなき神の母Intemerata Dei Mater」は
聖母に関するモテットのひとつであるが、曲が大変美しい。
5声で歌われる。楽園を追われた人間の、「過渡的な存在」から天国という「永遠への国」への復帰という切なる願いは、やがて死に至る人間の深い祈り。カトリックの特有の文化であるが、罪深きエヴァの子である人間は、イエスへのとりなしをけがれない聖母マリアに哀願する。
9 ジョスカン・デ・プレ 「オケゲムの死を悼む晩歌」 「アヴェ・マリア」
ジョスカン・デ・プレ(フランドル、1440-1521)は、ルネッサンス音楽の最盛期の大作曲家の一人。
彼の作品のなかで、とくに美しいといわれる作品。
オケゲムの死を悼む曲が、オケゲムを引き継ぐデ・プレによって作られ、このように美しい5声によって歌われ、次世代へと音楽の調和の輪が広がってゆくことに感動する。
歌詞のなかに、次の世代の作曲家、ジョスカン、ブリュメル、ラ・リュー、コンベールの4名が出てくる。
またアヴェ・マリアは、グノーやアルカデルトなど旋律の美しいものが有名だしたくさんあるが、デ・プレのは多声音楽だから、ひとつの旋律ではなく、波のように、複数の旋律が調和して聞こえてくる。
マリアに託す多くの人々の祈りの声がそこにあるといった感じだ。穏やかで平和な時間に満たされる。(10-11,T25)
10 ジョスカン・デ・プレ  シャンソン「千々の悲しみ」
ジョスカン・デ・プレ(フランドル、1440-1521)のシャンソン「千々の悲しみmille regrets」は、「天正の少年使節」が秀吉の前で演奏トしたとされる曲。
当時スペインなどで流行、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世が大変好きだったことから「皇帝の歌」とも言われている。(この曲はモラレス、ゴンベール,ナルバエスなどが編曲している。)
この曲とは別にジョスカンには、「わが愛しき人Que vous ma dame」などのシャンソンがある。
グレゴリオ聖歌の一部が定旋律になっているモテゥス・シャンソンなれど、繰り返し現れる切ない響きが印象的。(Q,C68,11-5)
11 イザーク 「私は安楽に暮らせない」「インスブルックよ、さらば」(シャンソン)
イザーク((フランドル、1450-1517)は、デ・プレと並び立つ大家である。
「インスブルックよ、さらば」は、インスブルック冬季五輪の閉会式で歌われるなど、今も歌われていて有名であるが、「私は安楽に暮らせない」というシャンソンも、深いバスの音が心に染みてくる。何度聞いても飽きない一曲である。
12 イザーク モテトゥス「至高なる羊飼いよ」他
イザーク((フランドル、1450-1517)は、ジョスカン・デ・プレと並び立つ実力派でである。
シャンソンなどのほかに宗教音楽でも「使徒のミサ」や重厚なモテトゥスで聞くものを圧倒する。
モテトゥス「至高なる羊飼いよ」などは、重厚な中にも自然な伸びやかさがある。
また「あなたはまったく美しい」は、ハーモニックな調べの後半、何度もあらわれる沈黙があり、終息に向かい引き潮を聞いているような美しさがある。ほかに、「いとも賢きかの処女が」など。
13 オブレヒト  モテトゥス「祝されたまえり、マリア」「めでたし、十字架よ
ヤコブ・オブレヒト(フランドル1450-1505)は、ジョスカン・デ・プレの同時代者で、イザーク、ラ・リューなどとともに活躍。
オランダのユトレヒトでオブレヒトが楽長をしていたとき、高名なユマニストのエラスムスが少年聖歌隊員として歌っていたといわれる。
オブレヒトは平明な作風といわれ、モテトゥス「祝されたまえり、マリア」「めでたし、十字架よ」の2曲は、グレゴリオ聖歌などのプレーンチャントの複数の旋律と歌詞が4声、5声でそれぞれポリフォニックに模倣し合いながら歌われ大変楽しく聞くことが出来る。
14 ラ・リュ- 「レクイエム」
ピエール・ド・ラ・リュ-(フランドル1460-1518)は、オブレヒトなどとともにジョスカン・デ・プレの同時代者。
彼の「レクイエム」は、オケゲムのレクイエムに続く古いポリフォニーのレクイエムである。
この曲は、まるで死者を柔らかく包んで雲に乗せて送るような雰囲気がある。
音域が低いので、肉声と器楽の組合わせで演奏されることが多いがそこがまた魅力である。彼の作品中もっとも傑出したものとされているが、聞く人引き込んでゆくような不思議な優しさがある。このほか、モテトゥス「めでたし女王、哀れみ深きみ母Salve regina」は美しい小品。
15 ブリュメル 「エレミア哀歌」
アントワーヌ・ブリュメリ(仏1460-1520)は、ジョスカンなどと同世代の作曲家で、北フランス、ジュネーブ、イタリアなどで活躍した人であるが、余り記録もなく良く知られていない。
エレミア哀歌は、なにげない音の流れに、秘めた悲しみが漂うような感動を覚える曲である。
16 W.コーニッシュ「悲しみにくれて」「ああロビン」(世俗歌:キャロル)
W.コーニッシュ(英1465-1523)ルネッサンス初期のヘンリー8世時代の傑出した作曲家。
このような美しい曲が、この時代になぜ作られたのかと思われるほど印象深い。
特に「ああロビン」は有名で不思議な音がする曲であるが、それに劣らず、「悲しみにくれて」も、十字架に釘付けにされたイエスの受動の極限ともいうべき姿の悲しみを歌っている。
一方、コーニッシュは宗教曲であるモテトゥスも聞き応えのある作品を作っている。
「サルヴェ・レジーナ」「キリストの母なる処女よ、喜べ」など美しい曲があるが、「スタバト・マーテル」が傑作である。装飾的なパッセージと簡単なパッセージの繰り返す対比と幅広い音域が、多くの連なる山脈を俯瞰するような壮大で美しい流れを作り出している。
17  レリティエル   モテトゥス「ニグラ・スム」 
ジャン・レリティエル(仏、伊1480-1552)はジョスカン・デプレの弟子である。
彼のモテトゥス「ニグラ・スム」は、パレストリーナが、それをもとにパロディミサ「ニグラ・スム」として作曲していることから、注目されいるのであるが、レリティエルの素朴な美しさは胸に染み入ってくる。
「ニグラ・スム」は旧約のソロモン雅歌にテキストがあるが、「私は、色が黒いが美しい。だから王に愛されて、ご自分の寝室に導き入れられた。」という元来エロティックな歌詞が、主とマリアの詩に変えられていったもの。聖と俗が融合するおおらかさもある。
18 ニコラ・ゴンベール   モテット「命半ばにわれら死ぬ」世俗歌「兎狩り 
ゴンベール(フランドル1495-1560)は、ジョスカン・デ・プレの弟子であり、ジョスカンより不協和音などを積極的に取り入れた複雑なポリフォニを作っている。
モテット「ムーサたちよ嘆け」は、ジョスカンの追悼曲で不協和音などの効果がよく現れている代表例である。
ゴンベールは、自作のモテット「命半ばにわれら死ぬ」をもとに、パロディミサを作っている。
和声の、低音に深みと複雑な音の推移に魅了される。
「命半ば」というのは、「永遠の命」に対する言葉なのであろう。
「罪深いわれらに苦い死を与えないでくれ」という祈り歌。聖職者だったゴンベールは、預けられた少年を陵辱した罪に問われて、ガレー船での服役を宣告されたという。
最近のカトリック教会も同じような問題を起こしている。
教会は、世俗社会の関係に支配されていて、ペテロ、パウロの時代とは程遠い。
しかし,人間は「命半ばに」死んでも、音楽は、神への祈りの言葉として歌い継がれてゆくだろう。(cd:35)
また、ニコラ・ゴンベールジャヌカンの「狩の歌」のような世俗の歌も作っている。
「兎狩り」がそれである。日本のデュークエイセスの「筑波山麓合唱団」思い起こさせる。
(CD:34-11)
19 ジャヌカン  シャンソン「狩の歌」「鳥の歌」「女のおしゃべり」
クレマン・ジャヌカン(仏1485-1558)はフランスの世俗歌謡シャンソンの作曲家であるが、言葉に鳥や動物の擬音や擬態語を取り入れるとともに、市民の日常生活を描写した歌を作り出していて、その独特でダイナミックな音の世界に圧倒される。
「鳥の歌」「狩の歌」など鳥、動物と言葉の混成体が、四声の複雑な音の組み合わせで展開するその技は神がかりでさえある。無条件に面白いし、この時代にこのような優れた労作が数多く作り出されていたことにただただ驚くばかりである。  
20 モラレス  モテトゥス「より良き生活のうちに」「羊飼いたちよ、語れ」
クリストバル・デ・モラレス(西1500-1553)は、モテトゥスにおいて素晴らしい曲が多い。
すべてに劇的な表現力と抑制の調和が実現されている。なかでも、「より良き生活のうちに」「羊飼いたちよ、語れ」が一層心に滲み込んでくる。
「より良き生活のうちに」は、歌詞が、「人間は,埃から生まれ死して埃に返るにすぎない存在である。」打ち砕かれた謙虚な心こそが人間にふさわしいと悔い改めを求める。「羊飼いたちよ、語れ」は「キリストのご誕生を」と歌うくだりに、えもいわれぬ喜びが感じられる。
このほかのモテトゥス「キリストのしもべアンドレア」「ヤコブは嘆きぬ」など美しい調べに堪能できる。 
21 トーマス・タリス  「エレミア哀歌」
トーマス・タリス(英1505-1585)の「エレミア哀歌」は、ルネッサンス時代の英国における宗教曲の中でバードのミサ曲(3声、4声、5声)とともに特に美しいものとしてと知られる。
「エレミア哀歌」は旧約聖書に出てくる預言者エレミアが、紀元前6世紀、新バビロニアに滅ぼされたエルサレムの荒廃を嘆いたとされる歌である。原典のヘブル語で、詩の各節が、ABCのアルファベットで始まるように作られている。
「エレミア哀歌」は、タリスのほかにも、アントワーヌ・ブリュメリ(仏1460-1520),ホワイト(英1538-1574)やパレストリーナ(伊1525-1594)なども優れた曲がある。 
22 トーマス・タリス   「4声のミサ」、モテット、アンセム
トーマス・タリス(英1505-1585)は、「エレミア哀歌」で有名であるが 「4声のミサ」や数々の「モテット」、「アンセム」「ミサ」が聞き応えある。
バード(英1543-1623)とともに、エリザベス1世時代、カトリックから英国国教会のために、ラテン語から英語を用いて音楽を作ることを要請された時代の作曲家である。
アンセムとは、イングランド国教会の礼拝(サービス)のなかの短い合唱曲で、英国国教会版モテットのことである。彼のラテン語によるモテットにすばらしいものがある。
「祭祀たちは食を断ち」(38-4)「神に従わない者は」(38-8)「わが罪を消し去りたまえ」(39-10)など悔悛モテットは、「エレミア哀歌」に通ずる感動がある。他に(NAXOS)「聖なる宴」「世の救い主」[見よ奇跡を」「御身の手に主よ」なども美しい。
また、アンセム「If ye love me]は、たった数分の短い英語による曲であるが、ラテン語でなくても、優れた音楽が可能であることを示した一曲である。ヨハネ福音書でイエスが「聖霊を与える約束をする」件の歌詞であるが、英語による軽みと明るさが、ラテン語にない新しい祈りのトーンを生み出している。
 「4声のミサ」は、4声の比較的シンプルなまとまりの中で快いハーモニーが展開する。ゆったりした流れに美しいささやきが交叉する。特にグローリア、クレドが美しい。
「ミサ曲の心地よい響きは、人間の(和声的)肉体に神が音として受肉する」(ウイルフリッド・メラーズ)ことであり、ポリフォニーはより深い表現を作り出す。
23 アントニオ・デ・カベソン 「ディファレンシアス」「 ティエント」
アントニオ・デ・カベソン(西1510-1566 Antonio de Cabezon)は、モラレスなどとともにイベリア半島の大作曲家の一人。
フェリペ(カール)2世に仕えた盲目の宮廷音楽家でオルガンの作曲家ある。
スペインには古くからオルガンが使われてきたが、カベソンが16世紀,スペイン音楽にオルガン曲を開花させた。
彼は、スペインのバッハとも言われる。
「ディファレンシアス」は、変奏曲という意味である。
「騎士の歌」「イタリア風パヴァーナ」{ミラノ風ガリアリダ」などのディファレンシアス作品、およびべルソ(詩篇の1行につけた旋律をもとに作曲された対位法的楽曲)は、深い音楽の源流からこんこんと沸き出でてくるような素朴で新鮮な響きを感ずる。
また,カベソンには「ティエント」(スペインのオルガンの楽曲形式)の連作がある。
24 パレストリーナ「教皇マルチェルスのミサ」 
この曲は、ルネッサンス後期の大作曲家パレストリーナ(伊1525-1594)の代表作。
ルターの宗教改革でドイツ語による「コラール」が生まれ独自の教会音楽が育ってゆくなか、カトリックのミサの言葉が不明朗といわれた多声音楽を、言葉がよく聞き取れるという典礼の要請と芸術の完成度を両立作品として知られる。端正で明るく、透き通るような美しさがある。
また
「スタ-バト・マーテル」はペルコレージが有名だが、パレストリーナのこの曲も美しい。
調和した響きに、静かに打ち寄せる波のようなリズムがあり、おそらく聖母の極限の悲しみというべきの詩との緊張感が持続しているからであろう。
25 パレストリーナ  モテット「鹿が谷川を慕うごとく」「バビロン川のほとり」
パレストリーナ(伊1525-1594)の代表的なモテット。
詩篇42、詩篇137に基づくものであるが、バビロンの捕囚など、イスラエルが破壊され、神に見放されてしまう絶望の時期の詩である。敵を倒す神はもはやいない、ひたすら苦しみをともにしてくれる受苦の神がいるだけである。
聖書には、羊がよく出てくるが、鹿が出てくるのは珍しい。愚鈍で迷いやすい羊と比べ、繊細でひ弱なイメージがある。喉が渇ききっていてもどこかノーブルな鹿のように、パレストリーナの曲もやさしく美しい。
このほか、モテット「我は日々罪を犯しPeccantem me quotidie」も胸にしみいるような一曲である
26 ラッスス  「音楽は神の贈り物」他
ラッスス(フランドル1532-1594)は、パレストリーナとともにルネッサンス・ポリフォニーの完成者といわれる人である。
「音楽は神の贈り物」は6声部のモテトゥスであるが、ポリフォニーに深みがあり、調和のとれた美しい曲で、題名にふさわしい。
歌詞は「音楽は最高の神の贈り物であり、人を感動させ、神をも感動させる、音楽は激しい心を和らげ、悲しい気持ちを励ます。音楽は樹木さえ、また、恐ろしい野獣をさえ感動させる」というもの。日々古楽を聞く我々にとっても、音楽はまさに神の贈り物である。
また
「シオンよ汝の救い主を讃えよ」Lauda Sionは、グレゴリオ聖歌のセクエンツィア(続唱)の一つ。
この曲をベースにラッスス(フランドル1532-1594)が作曲した6声部のモテトゥス。
もとの聖歌にとらわれず、自由に作曲している。
この曲の言葉は、聖トマス・アクイナスによるものであるが、聖歌は聖体の祝日に歌われる。
ラッススのこの曲は20分以上、4部の言葉を歌いついで行くのだが、全く飽きることがない。
ポリフォリーの快い響きの中で音の流れに心を委ねることが出来る。
27 ラッスス 「レクイエム(5声)」
ラッスス(フランドル1532-1594)のレクイエムも素晴らしい。
ラッススのポリフォニーには、ナチュラルな美しさがある。
湧き出る泉の音をいつまでも聞いているような魅力がある。「レクイエム(5声)」は、グレゴリオ聖歌の「レクイエム」とポリフォニーによる声楽部が交差して歌われ、声楽部は常にグレゴリオ聖歌の定旋律を用いてポリフォニックに展開されていく。ラッソには4声の「レクイエム」もある。 
 
28 ロバート ホワイト 「エレミア哀歌」 
ロバート ホワイト(英1538-1574)は、トーマス・タリス(英1505-1585)より少し後の作曲家で、ヘンリ8世からエリザベス1世に変わる、丁度、宗教改革によってカトリックからプロテスタントのスタイルへの変更を余儀なくされた時代の人である。
特に、「エレミア哀歌」は、タリスの作品とともに傑作とされている。
20分を超える長い曲なれど、聞くものを少しも飽きさせない。悲しみに満ちた響きがグイグイと迫ってくる。
また、モテトゥスも素晴らしく「主、汝にこたえたまわんことを」、「光にして日なるキリスト」など美しく崇高な曲がある。
29 コヴェントリ・キャロル  「ラリ ルラ、小さき子よ」
コヴェントリ・キャロルとは、16世紀の英国のコヴェントリで歌われてきたクリスマスキャロルで、「ラリ ルラ、小さき子よ(July,july thou little tiny child)」は作者不明、「ララバイ(子守唄)」は、ウィリアム・バード(英1543-1623)の曲である。
いずれも単なる子守唄ではなく、マタイ伝に出てくるがヘロデ王がベツレヘムで行ったという大規模な幼児虐殺事件を描いていて、イエスの降誕に伴う幼児への鎮魂歌である。子守唄のやさしさのなかに、母親の悲しみが広がってくる。特にバードの曲は、5人の歌手によるポリフォニーであり、多くの母親の言葉にならない深い嘆きが聞こえてくるようである。
30 W.バード  コンソートソング(清らかな英国半島) 
W.バード(英1543-1623)は、ミサの名曲があるが、コンソート・ソングの作曲者としても素晴らしい。
コンソート・ソングというのは、ヴィオールの合奏(コンソート)の伴奏を持つ独唱、または2重唱の歌曲であるが、「清らかな英国半島Fair Britain isle」「喪服の天使in angel's weed」などを聞くと、死者を悼む哀歌,悲歌ということもあるが、胸に迫るものがある。「美しいスザンナSusanna fair」も美しい。また、「キリストは蘇りChrist rising again」コンソート・ソングが、小合唱に展開した賛美歌であるが、聞くものの心をとらえて離さない。
31 W.バード 「Sing joyfully unto God 」
「われらの力の神に向いて喜び歌い Sing joyfully unto God」 (詩篇第81編) は、W.バード(英1543-1623)の礼拝用アンセムのひとつ。アンセムとは、イングランド国教会の礼拝(サービス)のなかの短い合唱曲のことで、この曲は、一緒に歌いたくなる楽しい曲である。特に、「Blow the trumpet in the new moon(角笛を吹き鳴らせ、新月に)」という件りがくると、思わず口をついてしまう。この詩篇には、「(神が)雷の隠れたところで答える」というキーワードがあり、ルターの「隠れた神」という発想の典拠になったといわれている。つまり、苦しいときの神頼みというように、人間の都合で神が現れるという発想を強く彼は否定した。
また、「捕われ人を連れ帰ってくださいTurn our captivity 」(詩篇第126 編)も印象に残る作品である。
悲惨なバビロンの幽閉から帰還する喜びが「they shall come with jollity」という効果的な繰り返しの中で、表現されている。「涙とともに種撒く人は、喜びの歌とともに刈り入れる」といったこの詩篇の歌詞が素晴らしくじっくりとこの美しい曲を味わうことが出来る。
「アヴェ ヴェルム コルプス(めでたし まことの おんからだ)」といえば、モーツアルトの曲が合唱などで必ず歌われ有名であるが、バード(英1543-1623)の曲もすばらしい。
アヴェ ヴェルム コルプス(めでたし まことの おんからだ)というのは、カトリック特有の聖餐のパンとぶどう酒がキリストの体に変わるという秘蹟を祝う歌である。
おおもとのグレゴリオ聖歌は、最後に「ああ、愛するイエス、あわれみ深いイエス、マリアの御子イエス」と歌う時、子供のようなかわいらしさがある。
十字架にかけられたイエスの受苦が人間への愛の始まりであることを素朴に歌う。
バードの曲は、この後、さらに、「私をあわれみください」を付加し、何度もくり返えす。
静かに流れる短い曲であるが、聞くだけでもまた歌ってもその流れに溶け込んでゆくことが出来る
32 W.バード  「5声のミサ」
バード(英1543-1623)の代表作は、「3声のミサ」[4声のミサ」[5声のミサ」である。
いずれも余計な装飾がない端正な曲ばかりである。
あまりにも完璧なハーモニーでただただ聞き従う以外にないような面もあるが、音と音が組み合わさって作られる力強さにいつの間にか呑み込まれてゆく。
中でも「5声のミサ」は、熟達したポリフォニーに感動する。最後のアニュス・デーの美しさは格別である。
33 ヴィクトリア 「死者のためのミサ曲」
ヴィクトリア(西1548-1611)は、ルネッサンス期スペイン最大の音楽家。
教会音楽家でミサ曲のほかにも、「アベマリア」をはじめ印象深いモテトゥスが数多くある。
「死者のためのミサ曲」は、皇帝マクシミリアン2世の皇后マリア(フェリペ二世の妹)の死を悼んで作曲された。
レクイエムの単旋律聖歌を定旋律として他の5声がポリフォニックにからむ形で展開するが、悲しみやさまざまな感情を完全に昇華してしまうようなハーモ二ーが美しい。
34 ヴィクトリア レクツイオ「我が心は生活に疲れたり」 他
ヴィクトリア(西1548-1611)のレクツイオ「我が心は生活に疲れたり」は、ヨブ記10章1-7節から歌詞が採られている。
レクツイオというのは、朗読に曲をつけたものである。
聖務日課でヨブ記が歌われるというのは、結局は、自分のために神を求めているにすぎない、という応報思想への厳しい戒めである。
ヴィクトリアのこの曲を繰り返し聴いているうちに、朗読の言葉のリズムが曲に生かされていて、一緒に声に出してつぶやきたくなる。
またヴィクトリアはグレゴリオ聖歌の交唱「アヴェ・マリア」をベースにヴィクトリア(西1548-1611)は4声と二重合唱のための「アヴェ・マリア」を2曲作っている。
前者は、グレゴリオの原曲がそのまま生かされた、デ・プレに劣らぬ美しいポリフォーである。
後者は、マリアへの祈りを切々と歌う。
35 レヒナー  モテト「もし主の御手から恵みを得るならば」 ハスラー モテト「主よいつまで私を」
レヒナー(独1550-1606) ハスラー(独1562-1612)はルネッサンスからバロック移行期のドイツの重要な作曲家である。ルネッサンス期は、音楽の後進国だったドイツが、ルターの宗教改革とともに新たな歩みを始めた。ルターは<万人司祭>の理念から母国語によるコラールを誕生させた。以来、ルター→ラッスス→レヒナー→ハスラー→シュッツ→バッハへとプロテスタント音楽は台頭してゆく。
レヒナーのモテト「もし主の御手から恵みを得るならば」は、胸にずんと染み入ってくるような美しさがある。
歌詞の中に「主が与えられ、主が奪われる...、裸で生まれ、そこへ裸で戻る」といういだりがあり、神への素朴な気持ちを音楽が紡ぎ出している。
一方、ハスラーのモテト「主よいつまで私を」は詩篇13に基づいているが、ほかにも「おお何とすばらしい贖罪」「主、イスラエルの神よ」などすばらしいモテトがある
36 ジョバンニ・ガブリエリ   カンツォーナとソナタ
ジョバンニ・ガブリエル(伊1553-1612)は、ルネッサンスからバロックへの過渡期に、分割合唱、通奏低音などによる作曲をした人。
聖マルコ寺院における宗教曲集「サクラ・シンフォニア集1,2」が、当時のドイツのハスラー、シュッツ、M.プレトリウスなどへ影響を与え、初期バロックのドイツへの移植を促した。
分割合唱様式は、半世紀前の聖マルコ寺院楽長であったヴィラールト開拓したヴェネツィア楽派の特徴であるが、ガブリエリにおいては、楽器、声楽を高度に配置した作曲が特徴。
「サクラ・シンフォニア集2」は、すべてがモテット。
「サクラ・シンフォニア集1」は、モテットのほか、器楽曲もあり、
「カンツォーナとソナタ集」は、逆に楽器楽曲のみ。
彼の「カンツォーナとソナタ」は、洗練された優しさあふれる音楽で、心が休まる。
とくに、4番、8番、13番、19番、21番など素晴らしい。
彼は、ラッソに学んでおり、当時のフランドル、イタリア、ドイツなど音楽の交流の密接さを感ずる。
37  G.アッレーグリ    「ミゼレーレ」
アッレーグリ(伊1552-1652)「ミゼレーレ」は、パレストリーナの「教皇マルチェルス」とともにヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に鳴り響いていたといわれ、その典礼でしか聞くことのできない秘曲だったそうである。
その秘曲を、ローマを訪れたモーツアルトが一度聞いただけで全曲書き写してしまったというエピソードがある。
天井の高い教会に、下から駆け上がって行く声が同時に上から降り注いでくるような極度な高音が繰り返される。
ミゼレーレMiserereというのは、部下を戦場に送りその妻を奪うという卑劣な罪を犯したダビデの悔い改めが素材になっている詩篇51篇「私を哀れんでください」が歌詞になっている。
罪を犯してしまう人間の悲痛な叫びを美しい音楽が包み込む。
38 トマス・モーリ  マドリガル「蕾にさえも悲しみは」他
トマス・モーリ(Thomas Morley英1557-16029) は、ジョン ウイルビー(Jhon Wilbye 英1575-1638)、トーマス・ウィールクス(Thomas Weelkes英1576-1623)とともに ルネッサンス音楽末期のイングリッシュ・マドリガルの作曲家として、なかでもモーリは主導的な立場にあった人である。
モーリスの場合は、当時のイタリア・マドリガルを範として作曲しているが、「今や五月」「蕾にさえも悲しみは」「4月は愛しい人のおもざし」「やさしいニンフが君の恋人を」など軽快な曲が多い。
「4月は愛しい人のおもざし」の歌詞がユニーク。(4月はやさしいひとのおもざし。その瞳には7月が宿る。胸元には9月。だがその心の奥には凍て付くつく12月。)
もともとイギリスには、13世紀頃からしっかりした固有の世俗歌曲の伝統があった。
その伝統に軸足を置いているのが、バードやギボンズなどである。ギボンズのマドリガル「しろがねの白鳥」は、美しい曲だが、歌詞が「この世に多いのは白鳥よりガチョウ、賢者よりも愚者の方が多い」となかなか辛らつ。
39 マレンツィオ  マドリガーレ「露に濡れた夜明け前に」他
ルーカ・マレンツィオ(伊1553-1599)は、ルネッサンス末期のイタリアの作曲家でマドリガーレの大家として知られる。
マドリガーレは、16世紀初頭からイタリアで現われた形式で、自由詩にあわせたメロディがポリフォニーで作られる。
ヴィラールト、ローレ、ジェズアルド、モンテヴェルディなどとともに代表的作曲家の一人。
イタリアの貴族社会の社交的芸術として栄え、ペトラルカ、タッソー、サンナローザなど、優れた詩人の詩をメロディー化しており、マレンツィオのドリガーレは大変、質のよい優れた曲が多い。
作詞者不詳の「露に濡れた夜明け前に」、サンナローザの詩「小さな天使」、ペトラルカの詩「愛の神がいつも」、タッソ「墓に着いて」など、詩も素晴らしく聞き応えがある。
40 ジェズアルド 「ミゼレーレ」
カルロ・ジェズアルド(伊1560-1613)は、モンテヴェルディと並ぶイタルア・マドリガーレの代表的作曲家。
妻と愛人を殺害した痛苦の人生を送った人のようである。
ミゼレーレMiserereというのは、部下を戦場に送りその妻を奪うという卑劣な罪を犯したダビデの悔い改めが素材になっている詩篇51篇によるが、苦渋の生涯を送ったジェズアルドにも特別な思いが込められているのかもしれない。ジェズアルドの「ミゼレーレ」には大変魅力的な深い響きがある。
41 スヴェーリンク オルガン曲「われ汝を呼ぶ、主イエス・キリスト」他 
ヤン・ピーテルスゾン・スヴェーリンク(蘭1562-1621)は、17世紀初頭のオランダのアムステルダムの旧教会のオルガニストで、即興の名手とし、北ヨーロッパにその名を知られていた作曲家。
バロック鍵盤音楽の書法を開発し、その後展開するドイツオルガン音楽に大きな影響を与えている。
彼の門下生にドイツのシャイトやシャイデマンなどがいて彼らがドイツでオルガン音楽の種まき役をした。
「われ汝を呼ぶ、主イエス・キリスト」はコラールの4つの変奏曲で、定旋律のコラールが音域の変化、対位法、フーガなどへと展開する。
ブクステフーデやバッハのオルガン小曲に同じ題名の作品(BuxWV196,BWV639)があるが、聞き比べると楽しい。
「わが青春はすでに過ぎ去り」は、多くの変奏曲の中でもっとも有名な作品。
ドイツの弟子を通じてもたらされた世俗曲の旋律をもとにした六つの変奏曲。
「わたしの若い命は終わってゆく.......私の悲しみも、こうして流れ去るのだ。」といった哀調を帯びた旋律。
その歌詞の通り、「流れ去る時間」を思いつつ静かに耳を傾けることが出来る素晴らしい一曲だ
「大公の舞踏会」は、イタリアの舞曲旋律に基づく四つの変奏曲で実に楽しい。
主題は、エミリオ・デ・ガヴァリエリのアリアの基づくものといわれている。
クラヴィオルガンによるCDもあり、屈託のない旋律と明るい変奏は、メルヘン的な魅力を味わうことが出来る。
42 ダウランド  リュート曲「涙のパバーヌ
ジョン・ダウランド(1563-1626)は、バードともに英国におけるルネッサンス音楽の代表的作曲家である。
主にリュート曲が中心。とりわけ有名なのが、「涙のパヴァーヌ(Lacrimae)」で、世俗歌「Flow my tears(流れよ我が涙)」を器楽用に作曲したもの。
ダウランドのリュートの曲には、「ダウランドの涙」「常にダウランド、常に悲しき」など「つねに悲しむ」をモットーとする作曲家である。
人間は、基本的に孤独であり、常に悲しい存在である。ダウランドの曲は、そんな人間の常態を、「爽やかな悲しみ」として表現してくれる。
ダウランドの曲はリュートひとつだけの独特の悲しみ坩堝の世界という感じがあるが、バス笛の効いたリコーダ合奏などで聞くと教会のオルガン曲のような深みと厚みがあり、「サー・ヘンリ・アンプトンの葬送」などなかなか荘厳である。
43 ドゥアルテ・ロボ  「レクイエム」
ドゥアルテ・ロボ(ポルトガル(1565-1646)は、ヴィクトリア(西1548-1611)の影響下にあった隣国ポルトガルにおけるポリフォニーの第一人者である。
彼の「レクイエム」はヴィクトリアの「死者のためのミサ曲」に劣らず、まことに美しい。
彼らは、日本にキリスト教が伝えられた頃の作曲家である。当時、日本人の間でキリスト教が、急速に広まったのは、キリスト教の死者に対する丁寧な扱いがあったことが要因のひとつにあげられている。
信長、秀吉の頃、セミナリオ(神学校)を通して宗教音楽などが紹介されていたが、葬儀などでも、グレゴリオ聖歌などが歌われていたにちがいない。
当時、平和裏に異文化交流が行われていたら、もう少し、日本の音楽や宗教も違った展開をしていただろう。
ロボの「レクイエム」のなかで、コンムーニオ(聖体拝領よう)のところで、「主よ、あなたは慈しみ深いかたですから(quia pius es)」のフレーズが、鳥の鳴き声のようにかわいらしい旋律で繰り返されるところがあり、とても心が安らぐ。
44 モンテヴェルディ [マニフィカト]他
モンテヴェルディ(伊1567-1643)は、バロック期初期の巨人である。
聖務日課用の大作「聖母マリアの夕べの祈り」が有名であるが、この中でも、その終曲であるマニフィカトが美しい。マニフィカトは2種類作曲されていて、ひとつは7声の合唱と器楽によるもの,もうひとつは6声の合唱と通奏低音だけのものである。この後半の通奏低音だけのものが、とりわけ美しい。
マニフィカトというのは、「賛美する」という意味であるが、受胎告知を受けたマリアが神を賛美する歌である。
「主は、この賤しい主の卑女(はしため)にも目を留めてくださった」とマリアが歌う可憐な声が、そのまま聞こえてくるような素敵な一曲である。
通奏低音のオルガンが、歌をやさしく支える。
また、宗教的マドリガーレに「悲しみの聖母マリア」「マリアよなぜ泣くのか」といった美しい曲がある。
モンテヴェルディは、マドリガーレをポリフォニーから通奏低音つきの独唱歌曲に変化させ、この分野でのバロック音楽を確立したといわれている。
これらの曲も、歌詞重視のホモフォニックな流れに、不協和音、長調から短調への移行など変化にとみ、大変美しい。歌詞も、「十字架のイエスを嘆くマリア、そしてイエスの復活を告げるもの」で、人々の心は、敵を愛するという極限の愛に生きたイエスを再び蘇らせないではいられないのであろう。
45 モンテヴェルディ マドリガーレ集:「アリアンナの嘆き」ほか
モンテヴェルディ(伊1567-1643)は多くの優れたマドリガーレを残している。ヴェネチアのサンマルコ大聖堂の楽長を努め宗教曲を作曲する傍ら、いわばオフタイムにマドリガーレを作曲。ジェズアルドとともに代表的なマドリガーレ作者である。
モンテヴェルディは、マドリガーレ集を1~8巻まで作曲し、後半の5巻あたりから、マドリガーレを通奏低音つきの独唱歌曲に変化させ、この分野でのバロック音楽を確立したといわれている。「こうして死にたいもの」(4巻)「私の魂は」(5巻)→「あなたを愛しています、私の生命よ」(5巻)、「アリアンナの嘆き」(6巻)、「私はリラを奏で」(7巻)へと楽器の比重が増えてくる。そして「恋する者はみな戦士だ」(8巻)に至って、独唱,多声、楽器を駆使した変化に富んだ構成により集大成される。
なかでも6巻にあるマドリガーレ「アリアンナの嘆き」は有名で、オペラ「アリアンナの嘆き」の中のアリア(オペラの他の部分は、散失してしまったといわれる)で、ポリフォニックな要素は少なく、通奏低音つきの重唱歌曲という形になっている。ギリシャ神話の「アリアドネ(アリアンネ)とテセウス(テセオ)」を素材とした曲で劇的な表現が強くなってきている
46 M.プレトリウス 教会音楽「シオンのミューズたち」
ミヒャエル プレトリウス(独1571-1621)は、ドイツプロテスタントのコラールや賛美歌を編曲をした人として重要な作曲家である。
主要な作品は、教会音楽「シオンのミューズたち」と理論書「音楽大全」などである。ドイツでは、10年年上のハスラー、10年年下のシュッツ、シャイトなどと、また、イタリアのガブリエルなどとも交流があり、ドイツプロテスタントのコラールの展開とともに、教会コンチェルトの様式をドイツにもたらしている。
「シオンのミューズたち」では「マニフィカト」、「コラール」、モテット「来たりて主を喜び歌わん」「マグダラのマリア」「われ主を愛せり」など力作がある。
詩篇130による4声のコラール「われ深き苦しみの淵より汝に叫べり」はルターの賛美歌「貴きみかみよ悩みの淵より」をもとにしている。
モテット「来たりて主を喜び歌わん」は、分割合唱様式でガブリエリなどの影響がある。
また「マグダラのマリア」は、リコーダが絡んだ重唱で、中田喜直の「小さい秋」を連想させるフレーズがありなかなか楽しい曲である。
詩篇116にる「われ主を愛せり」は、ルター訳によるものであるが、死を取り扱った詩篇で、死後の世界には冷淡な旧約世界においては例外的に死者と神のつながりを歌っている。プレトリウスが自己の死を予感して作曲したと言われている。
47 ジョン・ウイルビー  イングリッシュ・マドリガル「甘き蜜吸うハチたち
ジョン ウイルビー(Jhon Wilbye 英1575-1638)は、 ルネッサンス音楽末期のイングリッシュ・マドリガルの作曲家。
イングリッシュ・マドリガルは、トーマス・モーリ(Thomas英1557-16029) をはじめジョン・ウイルビー、トーマス・ウィールクス(Thomas Weelkes英1576-1623)などエリザベス朝時代の宮廷作曲家達によって、イタリアの形式を真似て作られたが、イタリア程複雑で無く、英語にあったイギリス独自のものに発達させていて、多声だが和声を主体にした曲が多い。
中でもウイルビーの作品「甘き蜜吸うハチたちよ」「さらば愛しのアマリリス」「おいでやさしい夜」などは、卓越した美しさに加え、深い情感を感じさせる。聞くだけでなく、出来ることならば多声のコーラスに中で歌う喜びを分かち合いたい衝動に駆られる。また、ウィールクスの「太鼓を打ち鳴らせ」など印象に残る作品。
48 フレスコバルディ 「フィオーリ・ムジカーリ(音楽の花束)」
ジローラモ・フレスコバルディ(伊1583-1643)は、声楽界におけるモンテヴェルディと並んで、初期バロックの鍵盤楽器の最大の作曲家である。ローマのサン・ピエトロ寺院のオルガニストであり、聖歌に代わる典礼用のオルガン曲などを作曲し、弟子のフローベルガー(独1616-1667)を通して、ブクステフーデやバッハなどドイツのオルガン音楽に至る道を敷いたといわれる。後のバッハなどにも影響を与えている。
その「オルガン・ミサ」の代表作が「フィオーリ・ムジカーリ(音楽の花束)」である。トッカータ、キリエ、カンツォーナなど種々な作品からなる音楽の花束という意味。優しい響きのキリエやカンツォーナ、厳粛さをもったトッカータなど魅力的な作品が多い。『主日のミサ 』『使徒のミサ』『聖母のミサ』の3部分からなる。聞き応えのある作品群。
他にも彼のリチェルカーレ集、ファンタジア集、カンツォーニ集といったオルガン曲を聴いていると、リチェルカーレ2番、ファンタジア5番など、遠くから語りかけて来るような不思議な響きを感じて感銘する。
また、逆に、カンツォーナ5番などは、鳥の囀りなどが入った楽しい曲。
49 シュッツ 「音楽による葬送」

ハインリッヒ・シュッツ(独1585-1672)は、17世紀のドイツ音楽を確立した人でドイツ音楽の父と言われている。
大バッハ誕生100年前に生まれている。
受難曲やモテットを多く作曲している。「音楽による葬送」は、シュッツの領主であった伯爵に依頼されて作曲した埋葬儀式のための教会音楽で、ドイツレクイエムの最初の作品である。
この曲は、「裸で私は母の胎からでた。裸でまた、そこへ帰ってゆこう」という歌詞で始まり一貫して「主よ私はあなたを離しません。私を祝福して下さるまで」と死に打ち勝つ恵みを求め続ける。やや虫のよいストーリで聖句を寄せ集めた感があるが、歌詞を一つ一つ確認してゆくように曲が進んでゆき、死に臨む人に安らぎを与えるような音楽の世界が展開してゆく。

50 フローベルガー 標題音楽「哀歌」 ほか
ヨハン・ヤーコブ・フローベルガー(独1616-1667)は、初期バロック時代の鍵盤楽器奏者、作曲家でフレスコバルディの弟子で、イタリアの音楽をドイツに橋渡しをした。ブクステフーデやバッハに先行するドイツの重要な作曲家である。バロック時代の組曲の構成舞曲(アルマンド、ジーク、クーラント、サラバンド)を確立したとされる。彼には下記のような、いくつかの標題音楽があり組曲に組み込まれている。いずれも題名が面白く情感豊かな曲が多い。
●「皇帝フェルディナント3世陛下の痛切の極みなる死に捧げる哀歌」「ローマ王フェルディナンド4世の悲しき死に捧げる哀歌」
●「私の来るべき死についての瞑想」
ふわふわと未知の場所に登ってゆくような不思議な音楽である。
●「ブランクロシェ氏に捧げる、パリにて書いたトンボー」
トンボー(tombeau)とは、フランス語で墓石や墓碑のことを指すが、音楽用語においては、故人を追悼する器楽曲のこと。この曲は、階段から落ちてフローベルガーの腕の中で息を引き取ったリュート奏者の友人のために書かれたものであるが、曲の最後に下行音階があり、死因を象徴させているのではないかといわれている。標題音楽で、比喩的な作曲法を楽しんだのであろうか。
●「ロンドンで憂鬱を吹き払うために書いた不平」など
●組曲18番→標題がないが、甘い素敵なアルマンドに聞きほれる。
フローベルガーは、ヘルマン・ヘッセの小説「ガラス玉遊戯」の中で、主人公クネヒトが初めて出会う音楽名人のイメージとして取り上げられている。
51 フローベルガー 「トッカータ第11番(聖体奉挙のために)」他
フローベルガー(独1616-1667)については、組曲など標題音楽について取り上げたが、その中で「フローベルガーは、ヘルマン・ヘッセの小説「ガラス玉遊戯」の中で、主人公クネヒトが初めて出会う音楽名人のイメージとして取り上げられている。」と書いた。
ヘッセのフローベルガーへの思いは、標題音楽ではなく、ブクステフーデやバッハへ連なる荘重な鍵盤音楽のイメージを持っていたのではないかと思う。
彼の重厚さをイメージする音楽は、トッカータ、リチェルカーレ、カンツオーナ、ファンタジア、カプリッチョなどの作品群の方にある。トッカータ第11番(聖体奉挙のために)、カプリッチョ第2番、第6番、リチェルカーレ第2番,カンツオーナ第2番等一連の作品を聞くと、その深い響きに感動するとともに、イタリア、フランスの様式を取り入れてドイツの鍵盤音楽への道を開いた先駆的な働きを確認することができる。
52 ブクステフーデ   オルガン曲「パッサカリア ニ短調」
ブクステフーデ(1637-1707)は,J.S.バッハ以前のドイツにおいて最大の教会音楽の作曲家といわれる人で、バッハに多大な影響を与えている。
ブクステフーデのオルガン曲には、プレリュード、トッカータなど沢山あるが、コラールやパッサカリアなどが、素朴で柔らかく聞く人の心に語りかけてきて印象的である。
特にパッサカリアニ短調は、ヘッセの小説「デミアン」の中で、「古いオルガン音楽のえり抜きの曲」で「この異様な深い沈潜的な、自分自身に聞き入っているような音楽に浸った。
それはいつ聞いても快く、心の声を正しとするような気分を一層強くした」と書かれている。このほか、シャコンヌ ホ短調も聞き逃せない作品の一つ。
53 ブクステフーデ  オルガン・コラール「いかに美しきかな暁の明星は」
ブクステフーデ(独1637-1707)については、パッサカリアのような壮大なオルガン曲の一方で、オルガンコラールの作品群は、素朴で美しい魅力がある。
「いかに美しきかな暁の明星は(BuxWV223)」「われ汝を呼ぶ、主イエス・キリスト(BuxWV196)」「甘き喜びのうちに(BuxWV197)」「来たれ聖霊、主なる神(BuxWV199)」「今我ら聖霊に願い奉る(BuxWV208)」など。
バッハやパッペルベルなども同様にコラールに基づくオルガン曲を作っているが、ルター派のコラールの旋律には素朴な明るさと清らかさがあり、それをオルガンの多彩な音色が優しく歌う。大きな力に包まれる安らかさがある。「いかに美しきかな暁の明星は」は、クリスマス・コラールで、上述の他のコラールと異なり<コラール・ファンタジー>といわれ、定旋律から即興的な比較的自由な展開を見せる
54 ブクステフーデ オルガン作品「前奏曲 ト短調149」
ブクステフーデブクステフーデ(独1637-1707)のオルガン作品は、前奏曲やフーガに優れた作品が多い。
特に「前奏曲 ト短調149」「フーガ ハ長調174」のこの2曲は、特に印象に残る作品である。
前奏曲 ト長調149」は、冒頭、大自然の鼓動を思わせる重厚な低音の旋律で始まり、深い世界へと我々を引き込んでゆく。芸術性の高い名作である。「フーガ ハ長調174」は、ジーグ舞曲のリズムによる可愛らしいブーガ。
断片的な小曲であるが、大変美しい。
55 シャルパンティエ     「真夜中のミサ」
マルカントワーヌ・シャルパンティエ(仏1643-1704)は、バッハより少し前のフランスの作曲家で、この「真夜中のミサ」は、クリスマス前夜の真夜中の曲。
当時、フランスで広く歌われていたノエル(クリスマスの歌)が、ミサ曲として仕立てられている。
合唱と器楽合奏で作られ、素朴な笛の音は牧歌的な雰囲気を出している。出だしのキリエを聴いた途端、その美しい安らぎのメロディに魅了されてしまう。
バッハの「マタイ受難曲」のコラールなどの響きとも違って、もっとフランス的な明るい美しさがある。いつまでもこのやさしい響きに浸っていたくなる曲である。
56 ビーバー  「ロザリオソナタ」

ハインリヒ・イグナツ・フランツ・ビーバー(チュコ1644-1704)は、17世紀屈指のヴァイオリンのヴィルトゥオーソ・作曲家」といわれる。
ザルツブルグの宮廷礼拝堂楽長を務めていたこともあり、「教会あるいは宮廷用ソナタ」「ロザリオのソナタ」「レクイエム」など宗教的な色彩の強いヴァイオリンソナタがある一方、「描写的なヴァイオリンソナタ」など、鳥や動物、戦いなどを描写した標題音楽なども作曲している。
マリアを主題とした「ロザリオのソナタ」は、パッサカリアやソナタ6番など高度の技法と深みのあるヴァイオリンの響きによって魂を揺さぶられる。パッサカリアには「守護天使」、ソナタ6番には、イエスが「できることならこの杯を遠ざけください。でも御心のままに」と祈る「ゲッセマネの園」が題材になっている。

57 ゲオルク ムファット  「シャコンヌ ト長調」(「調和の捧げ物」組曲

ドイツのプロテスタントのオルガン音楽において、バッハの先輩たちにブクステフーデやパッヘルベルなどがいるが、その当時の一人、ゲオルク ムファット(Georg Muffat独1653-1704)は南ドイツ オーストリアのカトリック系オルガン音楽を代表する作曲家である。
パリでリュリに、ローマでコレッリに学んでいる。ビーバーとも交流があり、ムッファトは汎ヨーロッパ的な人生を送っている。
この頃のトッカータ、パッサカリア、シャコンヌなどはフランス、イタリアの影響を強く受けている。
シャコンヌは、舞曲というより、和声的に明確な低音旋律の規則的な反復が永遠の調和を感じさせるものがある。オルガンよりも弦楽合奏で聞くとその感を一層強くする。
ムファットのシャコンヌも聞き応えのある長大な楽章であり、バッハへの影響も当然あったに違いない。

58 パッヘルベル  器楽アンサンブル「音楽の楽しみ」
ヨハン・パッヘルベル(独1653-1706)は、「カノンとジーグ」で有名であるが、バッハの父アンブロジウスと交流のあったオルガニストで、ブクステフーデなどともにバッハに影響を残した人である。
彼は、オルガン曲だけでなく、器楽アンサンブルの作品を書いた。
「音楽の楽しみ」もその一つで、宮廷での「食卓音楽」として演奏された「6 曲のパルティータ」からなる小アンサンブル作品である。「カノン」や5声、4声のパルティータなどとともに、題名どおり[音楽の楽しみ]を味わうことが出来る。4番ホ短調など特に素晴らしい。
59 )パッヘルベル  オルガン作品集

パッヘルベル(独1653-1706)については、ブクステフーデとともにバッハに影響を与えたといわれるように、オルガン作品集に数々の傑作がある。
アポロの6弦琴、プレリュードニ短調、シャコンヌへ短調、ニ短調、リチュルカーレハ短調、さらにルターのコラールにより変奏曲「God the Father dwells with us」など。
プレリュードニ短調は、バッハを想起させる迫力のある曲想、
シャコンヌへ短調、ニ短調は聞く者の心をとらえて離さない。
リチュルカーレハ短調は、不思議な半音階に引き込まれてゆく。特に、プレリュードニ短調出だしの旋律がサンサーンスのヴァイオリン協奏曲3番を想起させ印象深い。
「アポロの6弦琴」は、ブクステフーデに献呈されたといわれる鍵盤盤楽器のための6つの変奏曲である。その中の一つ「アリア”ゼバルディーナ”と変奏」は、アリアの多彩な変奏が、オルガン音楽の音色の多様性と美しい響きを聞かせる。

60

マラン・マレ  ヴィオール曲「聖ジュヌヴィエーヴ教会の鐘の音」

マラン・マレ(仏1656-1728)は、ルイ14世に仕えたヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)奏者であり作曲家である。
マラン・マレについて書かれた小説に、パスカル・キニャールという人の「めぐり逢う朝」がある。
マレの師コロンブとの共感、葛藤を描いたものであるが、この中で「音楽とは言葉では語れぬことを語るためにある。」「死者に残しておく一杯の水のため、、、、生まれる前の命のために。息もせず、光もなかった頃のために」といった師弟の会話があり、音楽の根源を考えさせる。
「聖ジュヌヴィエーヴ教会の鐘の音」は、マレの晩年の曲だが、「ファ・ミ・レ」の3音による鐘の音の連打に曲が展開する。奇怪で不思議な物語が始まりそうな音が進んでゆく。聖ジュヌヴィエーヴはパリの守護聖人。
61 (61) パーセル 「組曲6番」「ラウンド0」「グラウンド」
ヘンリー・パーセル(英1659-1695)は、彼にはいくつかの優れたハープシコードの作品がある。
ちょっとしゃれた感じの「組曲6番」、哀愁を感じさせる「グラウンド」そしてブリテンの「青少年管弦楽入門」の主題にになっている「ラウンド0」など。
「ラウンド0」は、劇付随音楽のアブデラザールの中の第2曲「ロンドー」からきている。音そのものの喜びのようなものを感じさせるパーセル独特の自由奔放な世界がある。
62 パーセル  ファンタジア「第5番、インノミネ」「 ソナタ6番」
パーセル(英1659-1695)は、バロック時代の英国の大作曲家で、彼の「ファンタジア」には不思議な魅力がある。ファンタジアというのは、声楽曲で培われたポリフォニー技法を器楽曲に転用したもので、器楽曲が独自の道を始めた時の音楽である。テキストなしで思うままに旋律を作り出し独自の発想で練り上げてゆく。「声と言葉」から開放された斬新さ、音そのものの喜びのようなものを感じさせる。ファンタジアのどの曲も素晴らしいが、第5番とインノミネの2曲は何度も繰り返して聞きたくなる曲である。「インノミネ」はジョン・タヴァナ-のミサ曲の旋律をもとにいろいろな作曲家が作っていることで有名であるが、特にこのパーセルの曲が際立って印象深い。
ソナタのなかで、優れたシャコンヌを残している。ソナタ6番。
「シャコンヌ」とは、もともとバロック時代の舞曲で、4小節もしくは8小節からなる3拍子の主題を持ち、同一の低音音型に基づいて発展する変奏曲の形を持つ荘厳な曲。心に染み入る大変美しい曲。
パーセルのソナタといえば、何番のことなのか分からぬが、ヘルマン・ヘッセが小説「ガラス球遊戯」の中で、論争者との共通の接点を見出してゆこうとする時のきっかけとなる曲として導入しているが、複数のヴァイオリンが深い通奏低音の上で歌いあうところなど、これらのソナタが、ふさわしく思えてくる。
63 ドメニコ・ガブリエル  「ソナタ ト短調」「ソナタ イ長調」
ドメニコ・ガブリエル(伊1659-1690)は、バロック時代の作曲家でチェリスト。
「チェロのドミニカ」といわれていたようで、チェロの作品が面白い。
なかでも「ソナタ ト短調」「ソナタ イ長調」が印象に残る。ト短調は、のびやかで語りかけるように歌う、何か思い出が詰まった話をするような。
イ長調は、切なく美しい旋律と、軽快なリズムとが交互に展開し、緩急のチェロの魅力を味わうことができる。
64 ジュゼッペ・ヤッキーニ  チェロソナタ 
ジュゼッペ・ヤッキーニ(Giuseppe Maria Jacchini伊1663-1727)は、チェロの黎明期のチェロ奏者で作曲家、ドメニコ・ガブリエル(伊1659-1690)(186参照)に師事したといわれる。いくつかのチェロソナタが素朴で、哀愁を帯びた旋律が親しみやすい。また舞踏的なリズムの楽しさも魅力的だ。「ソナタ・ハ長調」、「ソナタ・イ短調」、「ソナタ・ト長調」などチェロならではの魅力が生かされ、いずれも飽きさせない。 
65 ヨハン・クリストフ・ペーツ  「パストラール協奏曲 ヘ長調」
パストラーレ(キリスト降誕の夜、牧童が笛を吹いたという聖書に基づき田園情緒を描こうとする)については、コレッリで紹介したが、ドイツの作曲家ヨハン・クリストフ・ペーツ(独Johann Christoph Pez 1664-1716)のパストラール協奏曲ヘ長調も素晴らしい。
ドイツ人であるが、イタリアでコレッリに学び、フランスのリュリなどの影響も受けている。
弦楽に2本のリコーダーが加わり、牧歌的な雰囲気を出している。
66

クープラン クラブサン曲「恋する夜うぐいす」「神秘な障壁」他

フランソワ クープラン(仏1668-1733)は、ラモー(仏1683-1764)とともに、フランスクラブサン学派の巨匠の一人。クープランの作品の標題に伴う情景描写が極めて印象的である。
たとえば「恋する夜うぐいす」「神秘な障壁」「修道女モニク」などの小曲をきくと、爽やかなイメージの詩のアニメ動画を見ているような錯覚を覚える。
特に響きを消した音を効果的に使った和声の展開が印象的である
67 ヴィヴァルディ   「スタバトマーテル」
ヴィヴァルディ(伊1678-1741)といえば「四季」があまりにも有名だが、宗教曲においてもすばらしいものがある。
彼は、もともと司祭でもあった。宗教曲といっても、劇音楽に興味を持っていたヴィヴァルディは、宗教的独唱とシンフォニア的なコンチェルトの組み合わせで作られている。
「スタバトマーテル(悲しみの聖母)」は、ペルコレージ、パレストリーナなど多くの作品があるが、ヴィヴァルディの場合も、十字架上のわが子に対し「人として泣かぬものがあろうか」という言い知れぬ悲しみに打ち崩れながらも、苦しみに耐えうる力を絶えざるリズムで支えてゆくような感動的な音楽である
68 ヴィヴァルディ   「調和の霊感
ヴィヴァルディ(伊1678-1741)の「調和の霊感」は12の協奏曲からなり、「四季」と並ぶもっとも有名な曲である。
彼は「赤毛の神父」の愛称を持つ神父で、孤児院付属の女子音楽院の教師として活躍し、この音楽院の演奏のために多くの作品が書かれたいわれている。
子供から大人まで音楽の調和の喜びに導くような明るさがあるのもそんなところから来るのかもしれない。
6番の独奏ヴァイオリンの曲が、ヴァイオリンを学ぶ子供の教則本に載っていて、この曲をより親しみのあるものにしている。このほか、5番、8番、9番、10番など躍動感、情熱、輝きなどヴィヴァルディの個性が遺憾なく発揮されている。
また、バッハが、3,8、9,10,11番などから多くの編曲もしていることも良く知られている。
それだけこの曲には、文字どおり「調和の霊感」が宿っている。
69 テレマン  「リコーダ協奏曲」 
テレマン(独1681-1767)といえば、同時代のバッハやヘンデルより当時は、人気と名声があった人である。
代表作は、「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」。さまざまな楽器を魅力的に鳴らし質の高い作品を大量に作り出しているのだが、ここで取り上げるのは「リコーダ協奏曲」。
バロック時代は、ヴィルトゥオーゾ楽器としてリコーダが人気があったが、テレマンのリコーダ作品を聞くと、リコーダの魅力が最大限に引き出され精気がみなぎっている。ハ長調、ホ短調、ヘ長調、組曲イ短調など傑作が多い。中でもホ短調は、リコーダーとフルートの協奏曲。近くて異なる2つの楽器の組み合わせが微妙な味を醸し出す。
百科全書的で深みに少し物足りなさを感じがちなテレマンの音楽のイメージを払拭する
70 ラモー  「クラブサン集」
ジャン・フィリップ・ラモー(仏1683-1764)は、ジャン・ジャック・ルソー時代のオルガニスト、作曲家、音楽理論家でもある。「クラブサン集」には、「第1」、「第2」、「新」と3集あるが、いずれのどの曲も聴く人を退屈させない。
舞曲がベースになっていることや標題音楽などが楽しさを増す。
すべてが空気のようであり、さわやかな風が耳元を駆け抜けてゆく。
特に第2集の、標題音楽の「小鳥たちの集合ラッパ」「リゴドン」「タンブラン」「恋のくりごと」「ソローニュのお人好し」、新曲集の「ガボットとドウブル」「めんどり」「未開人」「ジプシー」など楽しい。
これらの、聞く人を飽きさせない音楽の秘密はどこにあるのだろうか。
71 D. スカルラッティ  「ソナタ集」
ドメニコ・スカルラッティ(伊1685-1757)は、ヘンデルとチェンバロの腕試しをした逸話がある名手であり、「555のソナタ」を残している。
バッハ、ヘンデルと同じ年の生まれである。
彼のソナタは、フラメンコの踊りやギターの音楽を思わせる音型、両手の激しい対話、憂愁を漂わせる響きなど多彩であり、飽きさせない魅力たっぷりの曲集である。
特にK132ハ長調,K501ハ長調などが印象深い。
72 ヘンデル  詩篇歌「主はいわれたDixit Dominus」
詩篇110番「主はいわれたDixit Dominus」は、ダビデの詩による賛歌であり、マタイ福音書でイエスがこの言葉を語っている。
「主はいわれた。”私の右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足元に屈服させるときまで”と」。イエスが現世におりて人となり、受難して再び昇天するするまでの間の、イエスに対する神の言葉としてとらえられている。この詩篇歌で、ヘンデル(英1685-1759)に勝るものはないであろう。出だしの畳み掛けるようなリズムにすっかり魅了されてしまう
73  ヘンデル  「リコーダソナタ」
ヘンデル(英1685-1759)の作品のなかで、「リコーダソナタ」は、多くの人に愛されている。
リコーダを吹くアマチュアにもプロにも。
曲が明るく、気持ちを平和な調和の世界に整えてゆく。とにかく旋律に無理がなく単純で質素なのであるが、内実が豊かで聞き手の心を満たしてくれる。
ソナタハ長調、イ短調、変ロ長調をはじめ、トリオソナタなどもより豊かな表現力を伴って、リコーダと通奏低音の、他の楽器にはない魅力的な雰囲気に浸ることが出来る。
74 ヘンデル ハープシコード組曲
ヘンデル(英1685-1759)のハープシコードの作品には、魅力的な曲が多い。
ヘンデル自身、ドメニコ・スカルラッティとハープシコードの腕試しをした逸話があるほどの名手である。
「調子のよい鍛冶屋(組曲第5番)」は、もっとも有名でありいつ聞いても楽しくさせてくれる曲である。この原曲は「シャコンヌ ト長調」の主題と変奏にある。
ヘンデルは、ハープシコードにおいて霊感を得た音楽を伝えようとしたといわれるが、彼のリズムや音の展開には湧き出る泉のように心の乾きを潤してくれるものがある。
このほか組曲としては、第4番(ニ短調)、第1番(イ長調)、第7番(ト短調)など印象的である。
特に4番ではコレッリのラ・フォリアを想起させる和音のサラバンド、第1番では、ガルッピを思わせるアルマンド、第7番ではパッサカリアに不思議な魅力がある
75 ルクレール  「ヴァイオリンソナタ」第4巻作品9-10

ジャン・マリ・ルクレール(仏1694-1764)は、「フランスのコレッリ」と呼ばれている。
ラモー(仏1683-1764)と同世代のルイ15世時代のヴェルサイユ学派で、ヴァイオリンをコレッリの高弟に師事している。彼の華麗で繊細な音楽は、音楽と舞踊の結びつきから来ている。彼はイタリアで若き頃舞踊手でもあった。「ヴァイオリンソナタ」1巻から4巻まで48曲を作っているが、すべての「ヴァイオリンソナタ」に舞曲風のステップが刻まれ、優雅で美しい。第3巻作品5-7などは、タルティーニの「悪魔のトリオ」を思わせる旋律もある。
晩年にオランダの王女に捧げたという第4巻作品9-10は、美しく味わい深い。

76  ガルッピ  チェンバロ「ソナタ5番ハ長調」

バルダッサーレ・ガルッピ(伊1706-1785)は、後期バロック期のオペラの作曲家であるが、大変魅力的なチェンバロのソナタを残している。チェンバロ「ソナタ5番ハ長調」は、ミケランジェリのピアノ演奏で有名になったが、曲の鳴りはじめた瞬間からその旋律に引き込まれてしまう。
この美しいチャーミングな旋律は、ミケランジェリのピアノ演奏で聞くと、もはやバロックではなく、モーツアルトなどに近いが、チェンバロの演奏は、もっと素朴で別な味わいがある。
77 ペルゴレージ    「スタ-バト・マーテル」
ジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージ(伊 1710-1736 後期バロックのオペラ作曲家)は、バッハより25年後の世代だが、26歳の若さで亡くなっているため、彼より早く世を去っている。
「スタ-バト・マーテル(悲しみの聖母)」は、グレゴリオ聖歌のひとつで、十字架のイエスの足元でマリアがわが子を嘆く悲痛な詩である。
グレゴリオ聖歌は、やや単調な歌であるが、ペルコレージのこの歌は、悲しみの中に明るさもあり、まことに美しい。パレストリーナも美しい「スタ-バト・マーテル」を作っているが、ペルゴレージの魅力には及ばない。
絵画や彫刻で言えば、ミケランジェロなどのイエスを抱くマリア像「ピエタ」などに相当するが、人間の極限の悲しみを表現する難しさがあり、音楽でも、絵画でも秀作は多くない。
78 バッハ  カンタータ4「キリストは死の縄目につながれたり」BWV4
ルターが、グレゴリオ聖歌「過越のいけにえを」Victimae paschali laudesの旋律を改編してコラール「キリストは死の縄目につながれたり」を作り、そのコラールをもとにバッハがカンタータ4番とする。
このカンタータ「キリストは死の縄目につながれたりBWV4」は、死と生命が戦い、生命が死を呑みつくすという緊迫感のあるクライマックスがあるが、
音楽としては、
その前の、罪ゆえに死に囚われる人間の絶望を歌う
ソプラノとアルトの2重唱の第2変奏「死に打ち勝てる者絶えてなかりき」(Den Tod niemand zwingen kunnt)と
死に勝った喜びを歌う
第6変奏「かくて我ら尊き祭を言祝ぎ」(So feiern wir das hohe Fest)が
不思議な響きを持っていて印象的。
バッハは、聞くものに音楽の喜びを与えてくれる不思議な作曲家だ。
第5変奏のバスのアリアは聞き逃せない
79 バッハ     カンタータ第82番「われは足れり」BWV82

バッハ(独1685-1750)のバス独唱の名曲として知られる。ルカによる福音書にある、救い主としての幼児イエスに出会い心満たされて死に赴くシメオン老人の物語で、シメオンを「私」として歌います。”私はもう結構。正しい人たちの希望である救い主をこの腕に抱きしめたのだ。私は今日のうちにもこの世を去りたい。”と。誕生した孫かひ孫を抱き上げる老人のような、深い限りなくやさしい喜びと気持ちが重なり、心が安らぐ名曲である。
80 バッハ     カンタータ106番 「神の時こそいと良き日」
J.S.バッハ(独1685-1750)のこの曲は、「哀悼行事用」呼ばれる葬送用のカンタータである。リコーダー、ビオラ・ダ・ガンバの柔らかい美しい前奏で始まる。死の人間のジメジメしたやりきれなさが、どこかへ吹っ飛んでしまうような独特の響きがある。旧約の、避けられない掟としての死を歌うバス、その後、やさしいソプラノが「主イエスよ来たりたまえ」と救済の手を差し伸べる。直後のアリアとガンバの伴奏がとりわけ美しく感動的だ。終章もリコーダー、ガンバが効果的にコラールを締めくくり、これらの楽器の魅力を再認識させてくれる。
81 バッハ  カンタータ第182番 「天の王よ、汝を迎えまつらん」BWV182
イエスはユダヤ各地で伝道して多くの信者・弟子を得た後、首都エルサレムに入り、やがて十字架にかけられるが、このエルサレム入城を「枝の日曜日」とし、その週の金曜日が受難日、次の日曜日が復活祭となる。第182番 「天の王よ、汝を迎えまつらん」は、このエルサレム入城の時のカンタータである。最初のソナタは、ヴァイオリンとリコーダーによる素朴でのどかな音楽。「ロバに乗って」という場面を想像させる。なんといってもこの曲の要は、5曲目のアルトによるアリアであろう。リコーダーのオブリガートが、やがてやって来る受難を予知させる。
82 バッハ モテット3番BWV227「イエスよ、私の喜びよJesu,meine Freude
バッハのモテットは6曲あるが、いずれも、聖書の聖句や宗教詩、コラールなどのテキストを音楽化したもので、祈りの音楽である。中でも3番「イエスよ、私の喜びよJesu,meine Freude」は、同名のコラールをベースに、それを効果的に生かした素晴らしい作品である。テキストも、イエスに寄り添うことで、死、罪、傲慢、虚栄、富、名誉と戦うといった素朴な内容で、心の安らぎを求める祈り、信仰、霊の勝利を歌う。変奏が多彩で、テキストの内容が音楽となって深化してゆく不思議な一曲である。
83 バッハ     「マタイ受難曲」
バッハ(独1685-1750)の「マタイ受難曲」は、「ヨハネ受難曲」が「初めに言あり、言は神であった」という福音書の前提を踏まえているため、神の支配、栄光が強調されるが、「マタイ受難曲」の方は、イエスの人間的実存の面から展開されているため、イエスの人間としての苦悩などが多くの場面で描写される。ユダの裏切りへの厳しいことば、イエスの苦悩を理解しない弟子への落胆、「我が神、どうして私をお捨てになるのか」という神への信の確認など、きわめてドラマティックな展開を見せる。「ああ、血にまみれ傷ついた御頭よ」が歌われるコラールの旋律が何度も繰り返えされ、そのたびに、胸が締め付けられる思いがする。一度聞いたら忘れられない旋律である。ヘルマン・ヘッセは、ある手紙の中で、このマタイ受難曲について、次のように述べている。「この曲は本当に計り知れぬ偉大な作品です。「いつの日にかわれ去り逝く時」のコラールとか、終わりの合唱の序奏の部分などで、熱い涙がほほを伝うのを感じたほどです。でもベルリンの真ん中で、主イエスの死に立ち会うなんて奇妙なことですね」
84 バッハ  「オルガン独奏のためのトリオソナタBWV525-530」

バッハ(独1685-1750)のこのオルガンのトリオソナタは、3楽章構成で6曲あるが、詩情に満ちた美しい曲ばかりで、どの曲にも惹きつけられる。3人で演奏されるソナタ形式を一人で、右手、左手、両足で3パートを演奏する。それぞれのメロディの自律性を認識し、他のメロディーとの掛け合いを上手く弾きこなす必要があり、かなり高度な演奏技術が要求される。
ソナタ525の冒頭から楽しい豊かな音色で始まり、切なく美しいアダージョ、アレグロでは、軽やかな小さな生き物が飛び交う。ソナタ526のラルゴ、ソナタ527のア
ダー-ジョなど美しい曲を経て、ソナタ528,529,530に至って豊穣な音響世界に誘う。
 後半では、特に
ソナタ529のアレグロの出だしがかわいらしい行進、小さな喜びがときめく。ラルゴが印象に残る。不思議な魅力を感じさせる音の世界。泉がわきでるような。
85 バッハ オルガン作品「幻想曲とフーガ BWV542」「フーガ BWV578]
バッハの「幻想曲とフーガ BWV542」「フーガ BWV578]は、大フーガ、小フーガといわれている名曲。大フーガ、小フーガという言い方は、BWVの番号が存在しなかったときの名残りのようである。
大フーガのドラマティックで、未踏の空間へグイグイ心をひっぱって行くような展開、そして、目の前に開ける壮大で美しい世界。この音楽の世界は何だろう。すべてが一致結合し価値を認めており充足しあっている。
一方の小フーガは、バランスの取れたまとまった名曲。
86 バッハ オルガン曲「トッカータとフーガ 二短調BWV565」
この曲は、誰でも知っているバッハ(独1685-1750)のオルガン曲の代表作であるが、この曲に触発されてヘルマン・ヘッセが詩を書いている。「バッハのあるトッカータに寄せて」という題がつけられている。
「凝固せる太古の沈黙.....支配する暗黒.....このとき一条の光  雲の裂け目よりほとばしり、光なき虚無の中より 世の深遠をつかむ。..............」 
   ヘッセは、「バッハのトッカータを聞くと、必ず天地創造のイメージが、しかも光の誕生のイメージが湧いてくるのです。」と言っている。天地創造の「光あれ」の始原の瞬間を描くことが出来るのは、人間の無意識の深い層において共鳴しあうリズム、時間の流れを表現しうる「音楽」においてしかない。それは、まさに、オルガンの、バッハの、この曲、なのかもしれない。
打ち寄せる波の往還。
87 バッハ 教理問答書コラール WV682:「天にまします我らの父よ」

穏やかな波動が一点から円を描き天上に広がってゆく

88 バッハ 前奏曲とフーガ「ハ短調BWV549]
ペダルの迫力がすごい。エネルギーがほとばしる。フーガはそのエネルギーを秘めに秘めてリズムを刻む。だんだん激しくなってゆく。
89 バッハ  「パッサカリアとフーガハ短調BWV582」
バッハ(独1685-1750)のオルガン曲の中で、「パッサカリアとフーガ」は「トッカータとフーガ」に並んで素晴らしい。
冒頭の低音主題が大変印象的で、この主題の反復と変奏がグイグイと深くて雄大な世界に我々を引き込んでゆく。
90

バッハ オルガンコラール「深き淵より我汝をよばわる」

オルガンコラール「深き淵より我汝をよばわる」→詩篇130の基づくマルティン・ルターの作詞作曲。
同名のカンタータ第38がある。
詩篇130は罪の深い絶望から神の赦しを乞うという内容。
コラールの単旋律をもとに、深い淵からの重い叫びが響いてくるような荘厳な曲である。
時が生まれ一斉に万象が動き始め伸びてゆ北飼いに絡んでゆく。
そして怒濤のごとく流れゆく
91 バッハ  「フランス組曲 5番BWV816」
バッハ(独1685-1750)の組曲は、このフランス組曲に先立ち「イギリス組曲」がある。「イギリス組曲」は、各曲の冒頭に自由なプレリュードがおかれているが、フランス組曲は、それはなく、舞曲リズムのアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグを核とした組曲である
。バッハは、舞曲リズムから、曲のさまざまな多様性を引き出したといわれている。
繊細なリズム感、洗練された音楽表現、自然な音楽といった性格を創り出してきた。
この組曲の、特に有名でもある5番のアルマンドが流れ始めると、その洗練された音楽表現と自然な流れにうっとりしてしまう。
92 バッハ  「パルティータ全曲 」BWV825-830 
バッハ(独1685-1750)の鍵盤の組曲には、この「パルティータ」のほか「フランス組曲」「イギリス組曲」などがある。「パルティータ」は、「クラヴィーア練習曲集第1部」として最初に出版され、第2部には「イタりア協奏曲」「フランス序曲」、第3部「オルガン・ミサ曲」、第4部「ゴルトベルグ変奏曲」と続く。
「パルティータ」のなかで、印象深いのは1番と6番。1番は、舞曲のリズムを生かしながら、自然にある調和、変化を音で表現しているような繊細さとともにおおらかさがある。第2曲は、イタリア協奏曲を想起させる。
6番は、第1曲が長大なトッカータ。冒頭のあふれ出る感情が曲を最後まで流してゆく。
93 バッハ 平均律クラヴィーア曲集(1)BWV846-869 
24の調による「プレリュードとフーガ」。曲集は(1)と(2)があり、(1)は1722年、(2)はその20年後に完成している。(1)で印象に残る曲は、先ずなんといっても第1曲ハ長調BWV846,この曲を基にグノーが「アヴェ・マリア」のメロディをつけて編曲しことで知られる。こうした短い曲では、第13曲嬰ヘ長調BWV858は、:明るく楽しいプレリュードとフーガが快く美しい。
圧巻は次の3曲。
第4曲嬰ハ短調BWV849のプレリュードの冒頭のモチーフが素晴らしい。フーガは堂々とした巨大な構築空間の中で、かつ濃縮された時間の流れ。
第8曲変ホ短調BWV853は、厳粛で雰囲気の中超越的な感情が鋭く語りかけてくるプレリュード、そしてゆったりと静かに流れ、命のリズムをとらえて運んでゆくようなフーガ。
そして第24曲ロ短調BWV869の長大で崇高なフーガ。
94

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(2)

24の調による「プレリュードとフーガ」の第2集。第1集に比べ音楽性が豊か。全体的にプレリュードが美しい。優雅さ、快適さ、甘美さなど次々繰り広げられる多彩な曲想に、飽きることはない。なかでも、印象に残る曲は、第4曲嬰ハ短調BWV873、第6曲ニ短調BWV875、第8曲嬰ニ短調BWV877、第9曲ホ長調BWV878、第22曲BWV893変ロ短調など。
第4曲嬰ハ短調BWV873は、大変哀愁に満ちた深い表現で胸にしみわたってくるプレリュード、軽快ではあるが、深い情感を維持したまま進むフーガ。
第6曲ニ短調BWV875、波打つようなリズムで振り向きつつもどこまでも駆け上って行くようなプレリュード、そして、下降する力とそれを止めようとする力が拮抗するフーガ、
第8曲嬰ニ短調BWV877、快いアルマンドのプレリュード、深い底へ下りてゆくようなフーガ
そして、天から降りてきて凪の海に浮かびながらその空間に漂い自然のリズムに憩うような第9曲ホ長調BWV878、
更に、13曲以降の後半に入ると、オルガン曲のような重厚さがあり構築的な曲が多くなり、どの曲を聴いても、深い海の底の永遠のときに立脚して、海面の動きを聞き分けているような充実感を味わうことが出来る。その圧巻は第22曲BWV893である 
95 バッハ 「半音階的幻想曲とフーガニ短調 BWV903」
この曲はベートーベンもよく研究したといわれる。
幻想曲の急速なパッセージ、大胆な転調、加えて、「語り歌う」レチタティーヴォ、しばし、バッハの他の曲にみられないこのドラマティックな曲に息をのむ。
この即興的な《幻想曲》で表現は、《フーガ》という厳格性に引き継がれ高められ、濃縮される。
96 バッハ  「イタリア協奏曲BWV971」
バッハ(独1685-1750)のこの有名な「イタリア協奏曲」は、いわゆるソロと管弦楽の協奏曲ではなく、2段鍵盤(チェンバロ)による協奏曲的な形式原理を持ったソロ器楽曲である。
ヴィヴァルディなどのイタリアの合奏協奏曲の作曲原理を取り入れていることから「イタリア協奏曲」といわれている。
1楽章:ヘ長調(アレグロ)→2楽章:ニ短調(アンダンテ)→3楽章:へ長調(プレスト)と、緩/急、長/短、強/弱の効果的な組み合わせが、曲の流れを生き生きとさせると共にまとまりのあるものにしている。
特に1楽章が終わり2楽章が始まってゆく長/短調の変わり目の展開に特別な期待感を抱かせる。
97 バッハ  「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001

バッハ(独1685-1750)のこの曲は、誰もが一度は心酔する名曲である。
パルティータ第2番のシャコンヌは、深い感動を与えてくれる。
一方、ソナタも素晴らしい。第1番の2楽章フーガの始まりの部分や3楽章のシチリアーノの柔らかな響き、第2番の3楽章アンダンテの美しさ、4楽章アレグロの不思議な響きなど魅力一杯である。また、ソナタ3番は宗教色が強いといわれる。1楽章は鐘の音、2楽章はコラールの祈り。3楽章のメロディとバスの響きが素晴らしい。
98

バッハ  「無伴奏チェロ組曲BWV1007-1012」

バッハ(独1685-1750)の「無伴奏チェロ組曲」は、聞けば聞くほど、いつの間にか自分の内面の声を聞いているような気分になってくる。言葉にならない音楽の言葉が語られてゆく。私はその言葉にうなずきながら聞く。
6曲のすべて、前奏曲が、滑り込むように曲にいざなう。第1組曲から第6組曲に至るまで、だんだん深い世界に入ってゆく。スラーが奥へ深く引きつれ、付点のリズムが激しく鼓動する。各組曲の、ブーレ、ガボットが降りtてゆく階段の踊り場で、生き生きと躍動する。第6組曲は、音域が一層幅広くなり、言葉にならぬ言葉を振り絞って語りつくして終える。
99 バッハ  「音楽の捧げもの」BWV1079
バッハ(独1685-1750)のこの有名な曲は、フリードリッヒ2世がバッハに与えた主題により作曲し王にプレゼントした作品である。魅力はこの主題の旋律。
この一連の作品のなかで、やはり「フルート・トラヴェルソ、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ」が素晴らしい。
ラルゴ、アレグロに続きアンダンテが始まると、この曲に出会えた喜びを感ずる。
バッハが王の前で即興した「3声のリチェルカーレ」、即興できなかったが後で献呈した「6声のリチェルカーレ」など話題も面白く、曲集としても堪能できる。
また「2声のカノン」は「求めよさらば見出さん」表題がついているが、カノンの解決法が与えられていない、いわゆる謎カノンといわれている。正方向ではアルト譜表単旋律、また冒頭小節にさかさ向きのバス記号が置かれており、第2小節最終拍から反行でスタートする。反行でも音楽が成り立ってしまう不思議で魅力的な曲になっている。それが、神と人間の応答を表しているようで、表題はそんなところにあるのか。
主題の旋律を一本の樹にたとえるならば、次々とさまざまな樹木が展開されて、やがて、大きな森となって響き始める。この多様なバリエーションの魅力に心を奪われる。
100

バッハ  「フーガの技法」BWV1080

バッハ(独1685-1750)の「フーガの技法」は、一つの主題を複数の声部が追いかけるのであるが、そこには反行、縮小、二重、3重、鏡影、カノンなどさまざまなフーガが展開する。やや衒学的で、感覚に訴える要素を犠牲にしても、対位法の技を極限にまで突き詰めた作品といわれている。18のフーガを詩篇との関連で読み解こうとする試みもある。バッハの音楽には、音楽を超えたロゴスの世界を暗示させるような力があるのは確かだ。