パスカル 「パンセ」拾い読み INDEX

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断片

抜粋

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1精神と文体に関する思想

4

精神

哲学を軽蔑することこそ真に哲学をすることである。

→ソクラテス風のパラドックス。デカルトのような理性主義的な自我を中心とする世界観への警鐘からパスカルは出発している。

7

精神

人は精神が豊かになればなるほど、独特な人間がいっそう多くいることに気がつく。普通の人たちは、人々のあいだに違いのあることに気がつかない。

→我々の眼は、パターン化、概念化して人を見ていて、人それぞれをよく見ていない。

9

繊細

人を有効に訓戒しその人の誤りを示そうとするには、かれが物事をどの方面から見ているかに注意しなければならない。なぜなら、それはふつうその方面では真なのであるから。そして、この真であることをかれに認めてやり、そのかわり、誤っている他の方面を知らせてやるのだ。かれはそれで満足する。というのは、かれは自分が誤ったのではなく、ただあらゆる方面から見るのを怠ったのだということに気づくからである。

→人は、あらゆるものを見ないことには気を悪くしないが、誤ったとは言われたくないもの。他人と議論を不毛に終わらせないためにもこの箴言は、心に留めておこう。

14

談話

自然な談話が、ある情念や感銘を描く場合、人は自分が聞いていることの真実、すなわち前から自分のうちにあったのだが、そうとは知らずに真実を発見し、そこからそれを感じさせてくれた人を愛好するようになる。なぜなら、その人は我々にその人のよいものを示したのではなく、我々のよいものを示してくれたのだから。

他者との関係や会話はこんな風にありたいもの。

17

談話2

川は、進行する道であり、人の行きたいと思うところへ運んでくれる道である。

他者との相互作用のうちに成り立つ談話は、主題に適切で、過ぎたところや及ばぬところがないようにしなければならぬといっている。「おのずから」をポイントにしている。

21

秩序

自然は、そのあらゆる真理を、それぞれの中においた。われわれの技術は、それらの一つを他に閉じ込めようとする。だが、それは自然的ではない。各々の真理は独自の位置を持っている。

→自分の都合のよいように、概念を無理に整理したり統一しようとしたりしがちであるが、各々の真理は独自の位置を持っていることを、知っておかなければならぬ。人間の各々についても同じことが言える。

35

オネットム

人から「彼は数学者である」とか、「説教者である」とか、「雄弁家である」とかいわれるのではなく「彼はオネットム」といわれるようでなければならない。この普遍的性質だけがわたしの気に入る。

→人と人との自然で節度ある交わりを理想とする〈オネットムhonnete homme(紳士,教養人)
→「世の著述家たちは、何か特別で、一風変わった特徴によって自分の存在を示そうとする。だが私は、文法家でも詩人でも法律家でもなくまさに人間ミシェル・ド・モンテーニュとして、私という普遍的な存在によって自分を示す」(モンテーニュ「エセー」第3巻2章「後悔について」
→パスカルは、このモンテーニュの言葉を受けている。

43

著作

ある著者たちは自分の著作のことを「わたしの本、わたしの注解、わたしの物語、等々」と言う。。。。。むしろ「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語、等々」と言うべきである。その理由は、ふつうそれらのうちには、かれら自身のものよりも他人のものがいっそう多くはいっているからだ。

→「On the Shoulder of Giants」という言葉があるように、先人や他人の業績の上で我々の発明や発見があることを、忘れがち。

2
神なき人間の惨めさ

63

モンテーニュ

モンテーニュの、(中略)享楽的な気持ちは許すことができる。(中略)しかし、かれの死に対するまったく異教的な気持ちは許すことができない。(中略)かれはだらしなくふんわりと死ぬことばかりを考えている。

→モンテーニュには、パスカルのような絶対者に対する欠如意識(悲惨)はなく、単純で自然な日常の人間に魂の偉大さを見出そうとしていた。

70

中間

自然は我々を丁度(中間)においたので、我々が秤(はかり)の一方を変えると、他方をも変えることになる。

自然は極端なところにはとどまりえないという意味。

72

人間の不均衡

我々は茫漠たる中間に漂い、常に不確実で浮遊し,一方の端から他方の端へ押しやられる。(中略)それゆえに我々は確実や安定を望んではならない。

→人間にはそもそも堅固な足場はない。宙ぶらりんな存在である。確実や安定は望むべくもない。だから確実や安定にこだわるなといっている。動的な均衡の上に置かれている。

72

人間の不均衡(2)

我々の寿命は十年延びたところで、永遠からはやはり無限に隔たっているではないか。

→無限を考えることが出来るのは人間だけである。人間が無限とかかわりうるのは言語である。言語は、時間空間を超える事ができる。死んだ人間が誰かという意識が残ることもその証拠である。(渡部昇一)

72

人間の不均衡(3)

人間は彼自身にとって自然のなかでもっとも不思議な代物である。

→パスカルは、この章の最後で「精神が肉体に結合する仕方は、人間によって理解されることは出来ない。しかもこれこそまさに人間である。」と述べている。自意識を持った存在。私が終われば世界が終わってしまうと感ずる不思議な存在。

77

デカルト

わたしはデカルトを許すことができない。かれはその全哲学の中で、できることなら神なしで済ませたいとおもったであろう。だが、かれは、世界を動かすために、神にひとはじきさせないわけにはいかなかった。それから先は、神に用がないのだ。

→今日の合理的科学主流の社会へ導いたデカルトの出現以降、科学の発達はすざましい。しかし一方で発達するほどに分からないものがはっきりしてきた。その人知を超えるもの、理性を超えるものを認識することが、現代社会において求められている。理性、科学に頼りすぎると落とし穴が待っている。(渡部昇一)

82

想像力

想像力は全てを左右する。それは、美や正義、そしてこの世にとってすべてである幸福を作り出す。

→「考える葦」は全てを意識のスクリーンを通して認識するほかない。ところが主体は、スクリーンに映しだされるものに、自らの価値観と感情を投影せずにおかない。それがパスカルのいう想像力である。(塩川編)

82

想像力

人間は、真について正しい原理を少しも持たず、偽についての立派な原理を多く持っている。

→人間は、真実を知って惨めになるよりも、偽りでも幸福になるほうを選んでしまう。

84

想像力

想像力は空想的な評価によって、小さいものを拡大し、われわれの魂を満たすまでいたらせる。また不敵な高慢によって、偉大なものを縮小し、自分の尺度にはまるまでにいたらせる。神について語るときなどが、それである。

→現代のわれわれも、神を恐れない。そのくせ、何事か手に負えないことがあると、ただ、うろたえばかりで「苦しい時の神頼み」をする。

97

習慣

習慣の力ははなはだ大きいので、自然が単に人間としてつくったものから、人はあらゆる身分の人間をつくりだした。自然は一様ではない。一様にしたのは習慣である。

→習慣は自然を拘束するから、多様性を認めず、いつのまにか偏見が誤りを犯してくることに気づかなくなってくる。習慣が自然になってくるのだ。

99

意志

意志は信仰の主要な器官の一つである。(中略)意志は(中略)自分の見たくない事物の性質を理知に考察させないようにしむける。

→無神論者は神は信じていないが無神論は信じている。信仰は、信ずるという意志が支えている。理性的な考察には、いろいろな理由や言い訳などが生じてくるが、最終的には、意志が決断し行動する。意志は理知の上にある。だから、その意志が間違ったものと結びつかないように常に用心する必要がある。

100

自愛

(人々が)我々のありのままの姿を知り、我々が軽蔑すべきものであるならば、軽蔑するのは正しいことである。このような思いこそ、公平と正義に富んでいる心から生ずるべきものである。

ところで、我々の心にそれと全く反対の傾向がみられるとしたら、我々は自分の心について何と言うべきであろうか?

なぜなら、我々が真実とそれを語るものとをきらい、人々が我々に好都合なように自分を欺いてくれることをこのみ、我々が現にあるものとは別なものとして人々から評価されるのを望んでいるのは事実ではないか?

→パスカルは随分と厳しいことを、ずばりと言ってのける。我々は、「自分の、ありのままの真実の姿など人様には見せたくない、常に自分に好都合なように評価されたい」といつも思っていると。

103

悪徳

ところで、悪徳においては、偉人も普通人もかわらないということに気がついていない。偉人が、どんなに高くそびえていても、かれらはどこかで最下等の人間と結びついているからだ。かれらはわれわれの社会からまったく離れて、空中にかかっているのではない。いな、いな、かれらがわれわれより偉大だとしたら、それは頭角をあらわしているだけだ。かれらの足はわれわれの同じく下にある。かれらはすべておなじ平面にあり、おなじ地上に立っている。そして、この末端において、かれらもわれわれや、もっと卑賤な人々や、子供や動物と同じようにひくいのだ。

→こんな風に、「偉人」を透視してみせる、鋭く且つ愉快な人間観察は、パンセならではのもの。

109

憂慮と願望

自然は、我々をどんな状態においても常に不幸にするので、我々は願望によって幸福な状態を描く。なぜなら、それらの願望は、我々のげんにある状態に、我々のげんにない状態の楽しさをつけ加えるからだ。そして、我々がその楽しさに到達したとしても、それによって幸福にはなるまい。それというのは、我々はその新しい状態に応じる他の願望をおこすであろうから。

→人間の飽くなき願望と気まぐれ、この繰り返しの人生。

111

気まぐれ

人間は、奇妙なむら気な変わりやすいオルガンである。そのパイプは正しい音階に並べられていない。ふつうのオルガンしか弾けない人は、このオルガンで和音を出すわけにはいくまい。鍵盤がどこにあるかを知らなければならない。

→断章125でも「人間は、生来、信じやすく疑い深く、小心であってだいたんである。」といっている。
人間の気まぐれを楽器にたとえているところが面白い。
壊れたり、不協和音だらけの楽器は、とても聞くに堪えなく付き合い切れない。が、根気よく合奏しながら和音を探して行くしかない。

116

種類

全てが一であり、全ては多である。

→人間の性質や自然の種など、無限の多にひたすら驚くばかりであるが、しかし、全てのことは同一の主(あるじ)に導かれる(断章119)。カオスのまま、まとまっているような世界。

122

変化

時が悩みや争いを癒すのは、人が変わり、もはや以前の人ではないからだ。感情を害した人も、害された人も、もはや以前のかれらではない。

→「忘れることは赦す事だ」ともいえるが、時が人間の関係を修復してくれる。

125

相反

人間は、生来、信じやすく疑い深く、小心であってだいたんである。

→私たちは、ウソや矛盾だらけで生きているのです。人間は、どこかにへばりついて意思を貫き通すほど、固定はしていない”宙ぶらりん”な存在である。(渡部昇一)

130

倦怠

もしも兵士か労働者が、自分の労苦について不平を言ったら、何もさせずにおくがよい。

→情念もなく、職務もなく、気晴らしもなく、勉励もなく、全く休息しているほど、人間にとってたえがたいことはない。(断章131)

135

倦怠2

われわれが喜ぶのは、戦いであって、勝利ではない。(中略)二つの相反するものが衝突するのを見るのは愉快であるが、一方が支配権を得るともはや残忍でしかない。

→「議論も、意見をたたかわすことは好むが、見出された真理を見つめることは少しも好まない。真理を喜んで認めさせるには、それが論争から生まれるのを見せなければならない。」とも言っている。

136

気ばらし

わずかなことが我々をなぐさめるのは、わずかなことが我々を悩ますからである。

→日々、本当に些細なことに振り回されている。わずかなことが我々を引付けるからだ。

139

気ばらし(2)

人間の不幸はすべて、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来する。

→常識は、仕事と気晴らし、仕事と無為を区別する。しかし仕事が目指す目標は達成されてしまえば意味を失うし、あらゆる目標は死によって消滅する。それなのに人があくせく働くのは、無為にとどまっていられないからであり、仕事は無為から逃走するための気晴らしである。(塩川編)

140

気ばらし(3)

彼は天使でもなければ、野獣でもなく、ただ人間である。

→断章358にも同じような言葉が出てくる。

人間は、天使でも、獣でもない中間的な存在である。人間は、考える力があり、動物のように淡々と生きて死ぬことは出来ない。一方、天使のように精神的な存在として生きてゆくことも出来ない。天使になろうとするとおそらく化け物なんかになってしまう。

中間的な状態を離れるのは、人間を離れる、とも言っている。

144

人間の研究

人間を研究する人は、幾何学を研究する人よりも、もっと少ないのだ。

→人間が生きていく上での問題は、自然科学のように仮説をたてて証明し論理を積み上げていくようなやり方ではできない。(渡部昇一)
→「人間の研究」で問題になる人間は、役割とか肩書きを負った専門家ではなく生身の丸ごとの人間、モンテーニュのいう「普遍的存在」である(塩川)

146

人間の研究2

人間はあきらかに考えるためにつくられている。...かれの義務は正しく考えることである。ところで、考える順序は自分からはじめ、自分の創造主と自分の目的から始めることである。

→自分を自分たらしめている根源から考えよということ。パスカルは神を考えているが、無限の多様性を、多様なまま一つに集めようとする存在の意思に己の意思を従わせて生きることに満足すべき確かさがあることをいう。

147

人間の研究3

我々は自分の中で、自分自身の存在の中で営む生活に満足しない。他人の観念の中で、架空の生活をしようと思い、そのため見栄を張ろうと務める。われわれは絶えず自分の架空な存在を飾り、それを保持しようと務め、真の存在をなおざりにする。。。。勇敢であるという評判を得るために卑怯者にもなりかねない。

→人間は他人との関係で生きている限り多かれ少なかれこうした傾向を持つ。我々自身の存在がいかに空虚であるか、思い知らされる。

148

人間の研究4

我々はいたってうぬぼれが強いので、全世界から知られ、自分の死後、生まれてくる人々からも知られたいと思う。またわれわれはきわめて空虚なので我々をとりまく5,6人の連中からほめられれば、よい気になって満足する。

→全くこの通り。パスカルは、これでもかこれでもかと人間の空虚さを容赦なく言ってのける。

150

虚栄

「虚栄はかくも深く人間の心に錨をおろしているので、兵士も、従卒も、料理人も、人足も、それぞれ自慢し、自分に感心してくれる人たちを得ようとする。そして哲学者たちさえ、それをほしがるのである。また、それに反対して書いている人たちも、それを上手に書いたという誉がほしいのである。彼らの書いたものを読む人たちは、それを読んだという誉がほしいのだ。そして、これを書いている私だって、おそらくその欲望を持ち、これを読む人たちも、おそらく。。。。

→この一節は、モンテーニュの1巻41章の「自らの名声は人に配分しないこと」からの借用、敷衍であるが、この見解には、だれもが認めざるを得ないであろう。

159

栄誉

かくれた美しい行為は、もっともおもんじるべきものである。

→「完全な勇気とは、人前でなしうることを目撃者なしにすることである。」という箴言を踏まえたもの。
善い行為が美しいのではなく隠れていることが美しい。とすれば
、美しい行為はわれわれの知らぬところで行われていることになる。他人に「助けて」といえない隠れた苦しみがある一方、隠れた美しい行為もまた多々あるにちがいない。

162

空しさ

クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の表情はすっかり変わっていただろう。

人生の空しさを示す恰好の例として、パスカルは恋愛の原因と結果の不釣合いを挙げる。痘痕をえくぼと思い込む恋愛が一大事を引き起こす。クレオパトラの顔の造作に生じた微細な変化は、彼女を恋するローマの英雄たちの争いを通じて、地中海世界の版図を塗り替えたかもしれない。(塩川編)

166

気ばらし(4)

「死を考えずにそれをうけるほうが、死の危険なしにそれを考えるよりも容易である。

(”死の恐怖は、死そのものよりも身にこたえる”)

→一日に何万という人が死に、日常茶飯事のことであるから、死そのものには、考えるほどの恐怖はないのかもしれない。しかし一方で「死の恐怖」は、延々、累々と宗教や哲学を山というほど作り上げてきた。

168/171

気ばらし(5)

「人間は死と悲惨と無知とを癒すことが出来なかったので、自分を幸福にしようとして、それらをまったく考えないように工夫した。気ばらしは我々を楽しませ、しらずしらず死に至らせる。

→日常、死と悲惨と無知など考えなくても生きられるように人間は出来ている。

172

悲惨

我々は決して、現在の時に安住していない。・・・・・・・・・・
きわめて空虚にも我々は、現に存在しない時を思いめぐらし、現存する唯一の時をうかうかと過ごしてしまう。これは現在がふつう我々を苦しめるからだ。我々がそれを見まいとするのはそれが我々を悩ますからだ。 ・・・・・・・・・・・・
未来だけが我々の目的である。だから、我々は生きているのではなく、生きようと望んでいるのだ。また、幸福になろうとと常に準備しているので幸福になれないのはやむを得ないことである。

→意識の時間性の観点からみても、人は無為にとどまれない。そして幸福が、今このとき味わうものとすれば、人は決して幸福になれない。なぜなら人は仕事を通じて幸福になる準備をしているばかりなのだから。(塩川編)

181

悲惨(2)

反対の災いを心配することなしに、幸福を楽しむ秘訣を見出した人は、金的を射た人だといえよう。が、それは永久の運動(注1)だ。」(「パンセ」181
(注1)永久の運動が不可能であるように、それは不可能という意味。

→反対の災いを心配することなしに生きるなどいうことは不可能なことだよ、といっている。対立や争いがなく過ごしたいと思っているが。

3
賭けの必要性について

187

永遠の悲惨

敬うべきというのは、それ(宗教)が人間をよく知っているからである。

→人は宗教を軽蔑しているが、宗教は理性に反するものでもなく、人間をよく知っているものである。

195

永遠の悲惨2

この世の生活は一瞬間にすぎず、死の状態は、それはどんな性質のものでも、永遠であることは、疑う余地がないからである。。。永遠の悲惨という危険にさらされている。

→無神論のニヒリズムから脱出するための人間への問いかけ。
断章146でパスカルは
「人間は考えるために作られている。彼の義務は正しく考えることである。考える順序は、自分から始め、自分の創造主と自分目的から始めることである。」といっているが、このあたりに人間の幸福を考えるヒントがある。

198

永遠の悲惨3

小さなことに対する人間の敏感と大きなことに対する無感覚とは、奇怪な転倒のしるしである。

人間は日常の些細なことには敏感であるが、死とか災害など巨大なものにはもともと鈍感であるように出来ている。忘れた頃にやってきて慌てるのだが。

199

永遠の悲惨4

いくらかの人々が鎖につながれて、みな死刑の宣告をうけており、そのうちの幾人かが毎日他の人々の前で絞め殺され,のこったものは、自分の運命も仲間とおなじであると観念して、悲しげに望みなく互いに顔を見合わせながら、自分の番が来るのを待っていると想像せよ。これが人間の状態の写し絵である。

人間の状態が死刑囚のそれであるとは!。

205

恐れと愕き

「私の一生の短い期間が、その前と後との永遠のなかに「一日で過ぎてゆく客の思い出」のように呑み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることを恐れと驚きを感じる。なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなくて現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由は全くないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。だれの命令とだれの処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。

→この断片は、私にとっては大変ショックな文章である。私をまさに絶望の虚無に投げ込む。私は、あらゆる私をはぎとられ、裸でさまよう。全くの偶然の世界に、とりつく島がない。

206

恐れと愕き(2)

この無限な空間の永遠の沈黙が、私を脅かす。

座標の原点を失った無限の時空間の中に放り出され、自分の居場所を定めることが出来ない私はただ驚きあきれるばかりである。(塩川編)
→人間が無限を知る能力を持っているということは、そのことによって自己の存在のはかなさを感ずるとともに、他方そのはかない存在を支えてくれる無限の力を想像することも可能にしてくれる。

211

恐れと愕き(3)

死ぬときはひとりなのだ。

人間仲間との交わりに気晴らしと救いを求めても無駄である。全ての人間は例外なく私と同じく無力で、私を助けてくれないのだから。そして私の孤立無援は死においてもっとも明らかになる。(塩川編)

225
230

神の有無

無神論は理知の力を示している。がある程度までに過ぎない。(225)
神があるということは不可解であり、神がないということも不可解である。魂が身体とともにあるということも、われわれが魂を持たないということも、世界が創造されたということも、世界が創造されないことも、等等。原罪があるということも、原罪がないということも。(230)

→我々は神の存在を理性によって知ることはできない。神は、理性をこえた存在だからである。それに反して、自然の事実のうちには神の存在を許容しなければ説明されないものもある。したがって、人は理性と事実とのどちらかをえらばねばならないようにしむけられる。ここでパスカルは、迷わず、事実上の「神の存在」(神の不在の不可解)をえらぶ

233

神の有無(2)

神はあるか、ないかのいずれかだ。だがどちらに傾けばよいのか。

合理主義と人間中心主義は世界の意味の喪失に通じている。果たして自然と世界を超え、それに意味を与える超越者は存在するのか。だが理性はこの問いに答えることはできない。世界の無限の彼方で、この神の存在をめぐって、一つの賭けが行われているのである。(塩川編)

233

神の有無(3)

だが賭けなければならない。君はもう船に乗り込んでいるのだ。

神を賭けの対象にするのは冒涜的に思われる。そもそもどうしてそんな賭けに参加しなければならないか。しかし人間全ての働きが、不確かな未来の目標を実現するために、現在を手段として利用するとすれば、人生は絶えざる賭けの連続である。(塩川編)

233

神の有無(4)

理性が君をそこまで連れてきたのに、なおも君は信じることができないのだから自分に信じる力がないということを、せめて悟り給え。

不信仰をいやしたいと薬を求めながら、どうしても信じられない人は、すでに信じたかのように聖水を受けミサをあげてもらうなど「愚かになれ」(半可通な知恵を捨て子供に返る)と提案する。そうすれば、大きな障害になっている悪念を減らすことになり、損はしないという。信仰の効用を説く、パスカルの無神論者への説得術。

240

快楽と信仰

もし私に信仰があったなら、まもなく快楽を捨てたことでしょう」と彼らは言う。だが、私は、君にいう。「もし君が快楽を捨てたならば、まもなく信仰を得たことでしょう。」と。ところで、始めるのは君のほうなのだ。

→人間のエゴイズムを肥大させるものは4K(快楽、金、権力、肩書き)といわれる。どれも執着したくなるものばかりで簡単に捨てられるものではない。執着する心がある限り。

4
信仰の手段について

242

隠れた神

聖書は、神は隠れた神であり、そして自然性の腐敗以来、神は人間を盲目のうちに放置し、人間がそこから脱出できるのは、イエス・キリストによってのみであり、この人をほかにしては、神とのすべての交わりは取り去られている、と述べている。

→「隠れた神」というのは、ルターが強調したように、神は理性では把握できない、自分(人間)の都合よいように神を解釈できないとしたものである。人間は、死という永遠の悲惨の前では全く無力な存在であり、「人間の本性の腐敗とイエス・キリストのあがない」(194)の基本認識による信仰以外、神と交わる道はないというもの。

252

習慣

我々は精神であると同程度に自動機械である。(中略)要するに、いったん精神が真理の所在を知ったならば、時々刻々逃れ去ろうとするこの信仰を我々にふりかけしみこませるには、習慣の助けを借りなければならない

頭だけで理解したものの持続性を信用していない。移り気で変わり易いからだ。信仰についても同じこと。理性ではなく直感のうちに置かなければ、ぐらぐらしてしまうだろう。そのためには習慣という説得の道具が必要というもの。(「悟り」を得た坊さんでも、実態はこんなものかも?。)

253

理性

二つの行き過ぎ。理性を排除すること、理性しか容認しないこと。

こうしたバランス感覚を維持するには、適度な緊張と余裕が要る。

256

理性

真のキリスト者は少ない。信じている人は多いが迷信によってである。信じていない人も多いが不信心によってである。両者の間にある者は少ない。

→パスカルは、信者の多くは、迷信によっていると鋭くえぐる。両者の間にある人のことを、「心情の直感から信じている人」を言っている。

260

信ずる基準

君自身への同意、そして他人のではなく、君の理性の変わらぬ声、それが君を信じさせなければいけないのだ。

→他人の言葉や権威に拠って信ずるのではなく、自分自身において信じなければならぬ。当たり前のようで、なかなか困難なこと。

264

正義への飢え

人は毎日食べたり眠ったりすることには退屈しない。なぜなら、空腹はまた生まれるし、眠気もそうだからだ。さもなければ、退屈するだろう。だから、精神的なものに対する飢えがなければ、人は退屈する。正義への飢え。

→これだけ、不正や悪が日常茶飯事とならば、義に飢えかわくこともあるまい。自分についても、半分は、悪になびきそうになる人間のことであるから、いつも善を求める渇きはなくなる事はないであろう。

265

信仰と感覚

信仰はなるほど感覚の言わないことを言うが、しかし感覚の見るところと反対のことをいうのではない。

→それは反対ではなく、感覚よりも上にあるもの。

270

理性と信仰

理性というものは、自分が従わなければならない場合があるということを自分で判断しない限り、決して従わないであろう。だから、自分が従わなければならないと判断するときに従うのは、正しいことである。

→「信仰が理性に先立つべきであるということは、そのまま理性の原理である」というアウグスティヌスの言葉を受けての記述。理性を超える存在を、理性が認めたとき、理性はそれに従う。狂信、盲信の戒め。

271

知恵

知恵は我々を幼子に帰らせる。「幼子のようにならなければ」

→マタイ福音書の言葉であるのだが、無邪気であることがいろいろなことの原点であることを、人間は経験的に知っている。

278

理性と信仰(2)

理性にではなく、心情に感じられる神

→神との出会いは出来事である。しかし目に見えず、手に触れることの出来ない神を人はどこで感知するのか。心とは、物事を直接受容する魂の機能である。だが神がいつどこで心に触れてくるかは分からない。(塩川編)

280

理性と信仰(3)

神を知ることから愛することまで、なんと遠いのだろう

パスカルは知力と文才のかぎりを尽くして、神の正しい認識と自らの信仰体験を読者に伝えようとする。しかし人間業では、人の心は動かない。神への愛は、神からの愛を自覚することによってしか始まらない。(塩川編)

282

理性と信仰(4)

われわれが真理を知るのは、推理によるだけでなく、また心情によってである。われわれが第一原理を知るのは、後者によるのである。

270では、理性の判断による狂信、盲信戒めているが、ここでは、理性の限界を主張する。推理つまり理性だけでは基本原理は把握しきれない。動物の本能にあたるような直感によらなければならないという。パスカルは別なところでも、我々が求めているのは「哲学の神」ではない、それは人間的なものにとどまる神に過ぎない、と述べている。

283

秩序

この(聖書の)秩序は、個々の点では主として枝葉のものから成り立っているが、この枝葉のものが常に目的を示すように目的に関連しているのである。

→聖書には秩序がないという反論に対して述べられたもの。「愛」は、「哲学の神」のように原理とか推理による証明によって、秩序立てて説明されるものではない。愛には秩序はあるが、理性をこえたレベルのものであることを認識しなければならないというもの。

286

素朴な信仰

(聖書を読まずに信じている人達は)神だけを愛し、自分自身だけを憎まなければいけないということと、しかし、みなが腐敗し、神に近づけなくなってしまったので、われわれと一つになるために神のほうが人間になられたと(考えている)

→キリストへの民衆の素朴な基本認識。「自己を愛することしかできない人間が、神の助けをかりて「無欲」になろうとするが、堕落してしまっている人間には、自力では神に近づけない。そのために、神が人間となられて我々を救いにこられた。」というもの。

5
正義と現象の理由

294

法と習慣

川一筋で仕切られる滑稽な正義

→集団的想像力は、共同体の形成と秩序維持に不可欠である。各地域、各時代の法と習慣、そして常識の根拠はそこにある。ピレネー山脈のこちら側(フランンス)の真理は、あちら側(スペイン)では誤謬である。(塩川編)

298

力と正義

力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言ったからである。このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

→正義と力の現実的な関係を、見事に言い表している。強いものを正しいとして、人類は長い歴史を生きてきた。正しいものを強くしようとして、いつの間にか、強いものを正しくしてしまうこともしばしば。

301

力と正義(2)

なぜ人は古代の法律や古人の意見に従うか?それがもっとも健全であるからか?いな、それが単一であって、多種多様の根を我々から取り去ってくれるから。

「格言」などはこれであろう。

309

習慣と正義

習慣(流行)は快適をつくるように、また正義をもつくる。

→習慣(流行)は、民衆の健全な意見として常に「快適な安定」を作り出すものとして、やがてそれが既成の「正義」となる。現実的な正義は、秩序や力との関連でつくられる。(注)習慣(流行)=原文はmodeとなっている。

319

外観

世人が内的性質のよらないで外観によって見分けるのは、なんと正しいことだろう。

→逆説的な言い方にも思われるが、他人の内的性質は移ろいやすく抽象的であり、その人の本質を必ずしも成していない。したがって、官位や職務など借り物の性質によって他人を尊敬したりする人間の判断は、必ずしも間違っているとはいえない。といった意味であろうか。

320

合理的な理不尽

世の中でもっとも不合理的なことが、人間の無秩序のために、もっとも合理的なことになっている。一国の統治者として王妃の長子を選ぶことなど道理にかなわないことがあろうか。そのような法律は滑稽であり、不正である。しかし、人間はもともと無秩序であり、いつまでもそうであるので、このような法律が合理的、正統的なものになる。

→理不尽と思われる習慣でも、安定性という面では合理性を持つことがありうる。「人間学」といわれるパンセならではの人間観察。

326

識者

法律は正義でないと、民衆に語るのは危険である。というのは、彼らはそれを正義であると思えばこそ従っているのだ。

習慣や法律に従うことは、安定、平和という意味では必要なことである。しかし、そこには何らかの正当性が必要である。現実的な正義は、秩序や力との関連でつくられるとしてでもある。それは、世俗的な社会における人間の知恵であり、能力である。パスカルは、世俗的社会、政治にトップダウン的な正義(理想)を求めなかった。それは、民衆を混乱させるだけだと考えていた。

327

識者

民衆と識者は世間の動きを形作っているが、中途半端な識者は世間を軽蔑し、また軽蔑される。彼らはすべてのことを誤って判断し、世間はそれらを正しく判断する。

この章の別なところでパスカルは次のように述べている。「偉大な魂の到達する識者は、人間の知りうることをひととおりわきまえたのち、自分が何も知らないことに気づき、はじめの出発点であるあのおなじ無知に帰る。」と。

334

邪欲

邪欲と力とは、われわれのあらゆる行為の源泉である。邪欲は心からの行為をさせ、力は心にもない行為をさせる。

→名誉、快楽などの邪欲は我々の行動の源泉であることを認めざるをえないが、財産、権力などと結びついて我欲は肥大してゆく。

6
哲学者
たち

347

考える葦

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するに及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

→「考える葦」パスカルの最も有名な言葉である。人間は「悲惨で且つ偉大」という自己矛盾した存在である。死んでしまう惨めな存在でありながら、自分が死ぬことと、その営みをつかさどる宇宙の力を知っていることで、他の存在者に優っているという。
伝統的に人間は「理性的動物」といわれてきた。動物という類に所属して、理性という弁別特徴で区別される種が人間である。動物が葦と言い換えられた時、風に揺らぎながら、思考によって宇宙に拮抗する特異なイメージが立ち上がる。定義が詩に変じたのである。(塩川編)

354

ジグザグ

人間の本性は、常に前進するとは限らない。それは前進もすれば後退もする。

→355では「自然は<往と還と>の進み方でゆく、それは行き、またかえる。」ともいい、たて続けの雄弁はたいくつであり、連続は不快になるという。人間の本性には、ジグザグが必要。温まるまる前には寒さも快い。

358・359

中間的存在

人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。(358)


我々が徳の中に身を保っているのは、我々自身の力によるのではなく、相反する悪徳の釣り合いによってである。(359)

→最も好きな言葉である。人間は、天使でも、獣でもない中間的な存在である。人間は、考える力があり、動物のように淡々と生きて死ぬことは出来ない。一方、天使のように『精神的な存在として生きてゆくことも出来ない。天使になろうとするとおそらく化け物なんかになってしまう。

中間的な状態を離れるのは、人間を離れる、とも言っている。

363

自然

各人にもっとも似つかわしいのは、各人にもっとも自然なものである。

→パンセは、この言葉のあと「恥ずかしくないことも、大衆に賞賛されると恥ずかしいことになってくる」と続ける。自然な自分らしさが、他者を意識するといつのまにか不自然なものになってくる。

365

考える葦(2)

人間の尊厳のすべては、考えの中にある。だが、この考えとはいったい何だろう。それはなんとおろかなものだろう。−−−考えとは、その本性からいって、なんと偉大で、その欠点からいって、なんと卑しいものだろう

→考えることは、時空間の深淵の呑み込まれる人間にとって唯一の拠り所のように思われた。しかしそれを人間は自らの責任において統御することが出来るのか、思考の自律と自己責任はどこかで破綻する。宗教への欲求はそこから始まる。(塩川編)

372,375

無の自覚

私がひたすら心がけているのは、自分の無を知ること。(372)

私は、我々の正義を本質的に正しいと思い、またそれを認識し判断するものを自分は持っていると考えていた。(がそれは間違いで)我々の本性はたえざる変化にほかならないことを知った。それ以来私は変わらなくなった。(375)

人間の判断力は移ろいやすく、一つの正義に固執するのはたちまち独断者に陥る。
→377で「謙虚さについて謙虚に話す人は少なく、貞節について貞節に話す人は少なく、懐疑論については疑いながら話す人は少ない。我々は、嘘、二心、矛盾だらけである。そして自分に自分を隠し、自分を偽る。」と述べている。

380

中間的存在(2)

人々の間には不平等がなければならない。このことは真実である。しかし、いったんこのことが承認されると、門戸は最善の支配に向かってだけでなく、最悪の圧政に向かって開かれる。

→精神には柔軟性が必要であるが、このことが最大の放縦に向かって門戸を開いてしまうことがある。

381

中間的存在(3)

若すぎると正しい判断が出来ない。年を取りすぎても同様である。考えが足りない場合にも、考えすぎる場合にも頑固になり、夢中になる

→特にコメントは要らないであろう

382/383

相対

全てのものが一様に動く時には、何物も動かないように見える。船の中にいるときが、それである。(382)
港は船のなかにいる人たちについて判断を下す。ところが道徳においてはどこに港を置くべきであろうか。(383)

世の中が偏向していても、間違った方向に動いているとはなかなか気づかないもの。

384

矛盾

多くの確実な事柄で矛盾するものがある。多くの虚偽の事柄で矛盾せずに通るものがある。矛盾することが虚偽のしるしでもなく、矛盾しないことが真理のしるしでもない

→論理的な整合性や矛盾しないことが必ずしも真ではない。矛盾することの方がむしろ真理を表している場合がある。人間の推論、判断力の偏狭性への忠告である。このあと「385」で「我々は、真も善も部分的に、そして悪と偽と混じったものしか持っていない」と述べている。

385

真偽、善悪

我々は真をも善をも幾分ずつしか持たず。しかも,悪や偽をまぜあわせたものしか持たない。

この世では一つ一つのことが幾分か真実で、幾分か虚偽。何ものも純粋に真実ではない。

396

本能と経験

二つのものが、人間にその全体性を教える。本能と経験

→本能とは善への渇仰で、堕落以前の人間本性の回顧であり、経験とは人間の悲惨と堕落の自覚のこと。このあと397でも、「自分の悲惨を知るのは悲惨であるが、知っている点で人間は偉大である。」と述べている。人間を思い上がらせない、又、失望もさせないパンセの特有の原罪論・中庸論。

404

名誉

人間の最大の卑しさは、名誉の追求にある。だがそれがまさに人間の優秀さの最大のしるしである。なぜなら、地上にどんな所有物を持ち、どんなに健康なと快適な生活とに恵まれていようと、人々の尊敬にうちにいるのでなければ、人間は満足しないのである。彼は人間の理性を大いに尊敬しているので、地上にどんな有利なものを持とうと、もしそれと同時に人間の理性の中に有利な地位を占めているのでなければ嬉しくない。これが世の中で最も美しい地位であり、何物も彼をこの欲望からそむかせることは出来ない。そしてそれが、人間の心の最も消しがたい性質である。

→名誉を追求するこの卑しさが、尊敬される人間になろうとすることで理性的で、自己抑制的な人間関係を作ることになる効用があるというもの。

409

廃王

人間は、かってはかれにとって固有なものであったもっと善い本性から、堕ちたのであるということを認める。なぜなら位を奪われた王でない限りだれが一体王でないことを不幸だと思うだろう。

→死という絶対的な惨めさから人間を救う考え方として「原罪」(失われた真の本性の回復)意識をパスカルは説く。原罪とは、「自由」であり、「考える」力を持つことであり、本性を回復する力を持つことをも意味する。
→しかし失われた本性は、惨めさの意識を通じて人間が失ったものをおぼろげに指し示す。壊れた家も樹木も、おそらくは禽獣もおのれのみじめさを知らない。自然を喪失した「考える葦」だけが、自然の彼方に開けている。(塩川編)

411

生きる力

我々にのしかかり、我々ののどを締め付けるあらゆる悲惨を見せつけられるにもかかわらず、われわれは自己を高めようとするおさえることのできない本能を持つ。

人間の生きようとする力。

412

理性と情念

理性と情念との間におこる人間の内部闘争。どちらも持っているので、人間はたたかわずにはいられず、一方とたたかわず他方と和らぐことはできない。このようにして、かれは常に分裂し、彼自身に反抗する。。

この人間の内部闘争に解決の道はない。情念だけ持つ、あるいは理性だけ持つというわけにはいかない。常に互いを責め合って生きる

414

狂気

人間は必ず狂気しているので、狂気していない人も、ほかの型の狂愚からいえば、狂気しているといえる。

「ただ一人賢者であろうとするのは大きな狂愚である」という注がある。程度の差はあれ、狂っていると用心していた方が良い。

421

不可解な怪物

私は人間をほめることにくみする人々をも、かれをせめることにくみする人々をも、又気晴らしをすることにくみする人々をも等しく非難する。そしてうめきつつ求める人々をしか是認することができない。

人間は、自己矛盾した不可解な怪物であることを自覚せよ、認めよと強調する。

423

下劣と偉大

(人間は)自分のうちに、真理を知り幸福になる力を持っている。だが安定した真理や満足すべき真理を持っていない。

人間は偉大ではあるが下劣でもある。だから、善をなしうる本性を愛し、軽蔑してはならない。しかしその本性はむなしく下劣に堕しやすい。その下劣さは軽蔑すべきだ。偉大で下劣、下劣で偉大である、この両方を知っていないといけないというもの。
(この相反が、真なる宗教的認識に早く導いてくれたと424で述べている)

7.
道徳と教義

425

真の善

真の善とは、すべての人が損失も羨望もせずに、同時に所有することができ、何人も自分の意志に反してそれを失うことのないものでなければならない。

→真の善を、権威や、好奇、学問、快楽などに求める人がいるが、特定な人によってしか所有されないような個々の事物には存在しない。

426

習慣と自然

真の本性が失われたので、すべてのものが人間の本性になる。

→本性すなわち自然は、事物一般であれ人間であれ、その本来のあり方があり、事物の価値判断の基準、いわば座標の原点であると一般に考えられている。しかし人間の自然本性は失われた。第ニの自然である習慣と先天性としての自然を区別することはできない。(塩川編)

436

弱さ

彼らには人間の気まぐれしか持ち合わせず、善(bien:幸福)を確実に所有するだけの力もないからである。

→パスカルは、別な章で、「我々は、真理を欲するが、不確実さしか見いださない。また幸福を求めるが、悲惨と死しか見いださない(437)」と述べ、「この病は、神から引き離す高慢、地上に縛りつける邪欲から来る(430)」と。

438

神と人間

もし人間が神のために作られたのでなければ、なぜ神にあってのみ幸福なのだろうか。

もし人間が神のために作られたのならば、なぜこんなに神に逆らっているのだろう。

→アウグスティヌス「告白」の有名な言葉「あなたは私たちをあなたのためにおつくりになりましたので、私たちの心はあなたのうちに安んじるまで不安なのです。」を受けたパスカルの言葉。神のために作られたというならば、なぜこんなに、人間は神に逆らうのか、というパスカルの問いかけが面白い。禁断の実を食べて、自由を知った人間がエゴイストにしかなれない悲惨な状況がつづく。しかし人間は自由であってはじめて人間である。悲惨でありながらそれを克服するすべを知らない。

439

神と人間

人間は、かれの本質をなす理性によって、行動しない。

→パスカルによれば、「理性は人間の本質をなすものであるが、それは人類の堕落以前においてであり、そのとき理性は全く正しかったが、それ以降、理性はゆがめられ、見捨てられたのである。」と。
また断章440では、「人間はもはや自分自身で生きることのないように、真理(キリスト)はこなければならなかった」ともいう。

455

エゴ

自我は憎むべきものだ。

→憎むべきは、自我そのものであり、自我の特質であるエゴイズムでも自己愛でもない。自我はその構造上、自らを世界の中心に据えて、己がどのような状態にあろうとも、評価され愛されたいと願う。しかし、どのような状況にあっても愛されたいというのは、不正である。したがってこの主張は、「自己を憎め」という命令ではなく、事実確認である。(塩川編)

456
457

エゴ

なんという判断の錯乱であろうか、人々が、他のすべての人々の上に出ようとし、自分自身の善、自分の幸福との永続を、他の全ての人々のそれらよりも好まずにいられないとは。各人は各自にとって一つの全部である。なぜなら彼が死ねば、彼にとって全てのものが死ぬからである。

→「私は全ての人に対し、全ての人のようになった」(パウローコリント人への手紙9-22)、これは正反対の態度。
他者との関係において、基本的には手前勝手でしかいられない人間。(部分的には愛他的であるが。)

465

幸福

幸福は、我々の外にも、我々の内にもない。それは神のうち、即ち、我々の外と内とにある。

→幸福は、対象的に手に入れるといったものではない。自己を中心に考えると、そうした発想になってしまうが、神の支配における「関係」の内に幸福はあることを言おうとしている。

「自我」を中心に考えると死という悲惨な闇に沈んでいってしまう。
世界は有形無形の「関係」によって作られ、個々人はその関係において生滅している。

472

我意

我意は、全てのことを心のままになしえた場合にも、決して満足しないであろう。しかし、人は我意を投げ捨てた瞬間から満足する。それがなくなれば、人は不満であることはできない。それがあると、人は満足していることはできない。

→我意とは、神から出る恩寵に対して、人間から出る意志のこと。我意を瞬間的に投げ捨てることは出来ても、またふつふつと我意は湧き出てきてしまう。

473

考える肢体

考える肢体に満ちた一つの身体を想像せよ

→「コリントの信徒への手紙」の12にある言葉。「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」....................

己を支えている超越した力を自覚することによって、己の殻が破られ超越者の部分として己が蘇る。その部分は、画一的なものではなく「私」という自律分散的な一部分として、多様な関係の結合により一つの体に統合される。
→「考える葦」は一人で沈黙の宇宙に対峙していた。そのとき、人間の尊厳の根拠である思考は、同時に惨めさの意識と不可分であった。孤独と悲惨の克服は、イエス・キリストを頭とし、信者を手足とする神秘的な身体(教会)においてはじめて実現される。(塩川編)

490

善行

人は善行をすることに慣れず、なされた善行を見てそれにむくいることにのみなれているので、神をも自己流に判断する。

→(注)神の恩恵はあくまで自発的、先行的であって、人間の行為に左右されないが、人は自分の打算的態度から推して神が人間の行為に応じて恩恵を与えるように考えやすい。

502

情念

義人は自ら主人として自分の情念を使役する。支配された情念はそのまま徳である。むさぼり、ねたみ、怒りは、神でさえ自分の属性としておられる。これらは、同じく情念である寛容、なさけ、誠実とともに、りっぱな徳である。我々は、それを奴隷として使役し、それらに食物をあてがい、その食物を魂がとらないようにしなければならない。なぜなら、情念が主人になると、それらは悪徳になり、そのときには情念が魂に自分の食物を与え、魂がそれを食べて中毒をおこすからである

→「むさぼり、ねたみ、怒りは、神でさえ自分の属性としておられる」という件が面白い。人間の「自然」否定しないで、生かしつつ克服する「天然自然」の道をすすめる。

504

ごく小さなこと

義人は小さいことでも信仰によって行う。

→ごく小さい運動も全自然に影響する。大海も一つの石で変動する。どんな行為でも、現在、過去、未来の状態とそれが影響してしておこるすべての関係を見なければならぬ。そうすれば人はよほど慎み深くなるだろう。(505)

529

中間

我々をして善を不可能ならしめるほどの卑下でもなく、悪からまぬがれしむるほどの清浄でもない。

→この言葉の前の527に「イエス・キリストを知ることは中間をとらせる。」という言葉ある。人間が「関係」の中で統合されてゆくために必要な、共通の人間認識といったことであろうか。

.8宗教の基礎

552

神を求める

イエス・キリストが地上で休息される場所は、墓の他になかった。彼の敵は、墓に至るまで彼を苦しめることをやめなかった。

それほどまでに、自我中心のこの世にはイエスの存在は疎ましいもの。452章では「不幸な人に同情するのは、邪欲に逆らうことではなく、人にはそういう好意のしるしを見せ、情け深いという評判を取りたがるものだ」といい、人間にできるのは「見せかけにすぎない」とさえいう。

556

神を求める2

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト者の神は、愛と慰めの神である。
(哲学者、学者の神ならず。)

→だがパスカルがあらゆる手練手管を用いて、神の存在を説得しようとするのは、彼自身に神との出会いの体験があるからである。そしてその神は賭けの対象でないのはもちろん理性の対象でもない。それは、歴史の中に顕現し、その出来事が聖書によって伝えられている神なのである。(塩川編)

557

神を求める3

神が、神を試みるものには自らを隠すということと、神を求めるものには自らをあらわすということはどちらも真である

→注)試みるとは、あたかも神を知ることが自分の権利でもあるかのように、自分の知恵や力によって神を知ろうとすることであり、求めるとは、自分に神を知る資格がないことを悟り、権利より祈りによって神に近づくことである。

568

神を求める4

福音書のうちに引用された預言は、君たちを信じさせるためにしるされていると思うのか?いな、それは君たちを信仰から遠ざけるためなのだ。

→注)聖書は選ばれた人々には分明であるが、見捨てられた人には、その不分明によって、かれらを拒絶する具になるという。

582

真理

人は真理すら偶像にする。なぜなら、愛を離れた真理は神ではないからである。それは神の影像であり、偶像であって愛すべきものでも拝すべきものでもない。まして真理の反対である虚偽を愛したり拝したりしてはならない。

→注)単なる真理はそれを省察する知性に満足を与えそれを見出した理知に誇りの種を供するゆえにそれを目的とすることは邪欲に身をゆだね神に反することである。

583

真理(2)

弱者とは、真理を認めはするが、自分の利害がそれに合致する限りにおいてのみ、それを支持する人々のことである。そうでない時は彼らは真理を放棄する

→誠に耳の痛い言葉である。前出(582)の「愛を離れた真理」のことを言っているのであろう。

13
奇跡

843

真理(3)

地上に真理の国はない。彼女(真理)は知られぬように人々の間をさまよっている。神は彼女にヴェールをかぶせられたので、彼女の声を聞かない人は彼女を知らずにいる

→242の「隠れた神」の考えと同様に、ルターが強調したように、神は理性では把握できない、自分(人間)の都合よいように神を解釈できないとしたものである。

14
教会の分裂

871

単一と多数

単一に帰着しない多数は混乱であり、多数に依存しない単一は圧制である

→まさに名言。

905

内面と外面

神は内面のみをみられるが教会は外面のみによって判断する。神は心の中に悔悛を認めるやいなやゆるされる。教会はわざのうちにそれを認めてはじめてゆるす。

→人間には他人のこころの中は見えぬもの。

己を支えている超越した力を自覚することによって、己の殻が破られ超越者の部分として己が蘇る。その部分は、画一的なものではなく「私」という自律分散的な一部分として、多様な関係の結合により一つの体に統合される。
→「考える葦」は一人で沈黙の宇宙に対峙していた。そのとき、人間の尊厳の根拠である思考は、同時に惨めさの意識と不可分であった。孤独と悲惨の克服は、イエス・キリストを頭とし、信者を手足とする神秘的な身体(教会)においてはじめて実現される。(塩川編)

490

善行

人は善行をすることに慣れず、なされた善行を見てそれにむくいることにのみなれているので、神をも自己流に判断する。

→(注)神の恩恵はあくまで自発的、先行的であって、人間の行為に左右されないが、人は自分の打算的態度から推して神が人間の行為に応じて恩恵を与えるように考えやすい。

502

情念

義人は自ら主人として自分の情念を使役する。支配された情念はそのまま徳である。むさぼり、ねたみ、怒りは、神でさえ自分の属性としておられる。これらは、同じく情念である寛容、なさけ、誠実とともに、りっぱな徳である。我々は、それを奴隷として使役し、それらに食物をあてがい、その食物を魂がとらないようにしなければならない。なぜなら、情念が主人になると、それらは悪徳になり、そのときには情念が魂に自分の食物を与え、魂がそれを食べて中毒をおこすからである

→「むさぼり、ねたみ、怒りは、神でさえ自分の属性としておられる」という件が面白い。人間の「自然」否定しないで、生かしつつ克服する「天然自然」の道をすすめる。

504

ごく小さなこと

義人は小さいことでも信仰によって行う。

→ごく小さい運動も全自然に影響する。大海も一つの石で変動する。どんな行為でも、現在、過去、未来の状態とそれが影響してしておこるすべての関係を見なければならぬ。そうすれば人はよほど慎み深くなるだろう。(505)

529

中間

我々をして善を不可能ならしめるほどの卑下でもなく、悪からまぬがれしむるほどの清浄でもない。

→この言葉の前の527に「イエス・キリストを知ることは中間をとらせる。」という言葉ある。人間が「関係」の中で統合されてゆくために必要な、共通の人間認識といったことであろうか。

.8宗教の基礎

552

神を求める

イエス・キリストが地上で休息される場所は、墓の他になかった。彼の敵は、墓に至るまで彼を苦しめることをやめなかった。

それほどまでに、自我中心のこの世にはイエスの存在は疎ましいもの。452章では「不幸な人に同情するのは、邪欲に逆らうことではなく、人にはそういう好意のしるしを見せ、情け深いという評判を取りたがるものだ」といい、人間にできるのは「見せかけにすぎない」とさえいう。

556

神を求める2

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト者の神は、愛と慰めの神である。
(哲学者、学者の神ならず。)

→だがパスカルがあらゆる手練手管を用いて、神の存在を説得しようとするのは、彼自身に神との出会いの体験があるからである。そしてその神は賭けの対象でないのはもちろん理性の対象でもない。それは、歴史の中に顕現し、その出来事が聖書によって伝えられている神なのである。(塩川編)

557

神を求める3

神が、神を試みるものには自らを隠すということと、神を求めるものには自らをあらわすということはどちらも真である

→注)試みるとは、あたかも神を知ることが自分の権利でもあるかのように、自分の知恵や力によって神を知ろうとすることであり、求めるとは、自分に神を知る資格がないことを悟り、権利より祈りによって神に近づくことである。

568

神を求める4

福音書のうちに引用された預言は、君たちを信じさせるためにしるされていると思うのか?いな、それは君たちを信仰から遠ざけるためなのだ。

→注)聖書は選ばれた人々には分明であるが、見捨てられた人には、その不分明によって、かれらを拒絶する具になるという。

582

真理

人は真理すら偶像にする。なぜなら、愛を離れた真理は神ではないからである。それは神の影像であり、偶像であって愛すべきものでも拝すべきものでもない。まして真理の反対である虚偽を愛したり拝したりしてはならない。

→注)単なる真理はそれを省察する知性に満足を与えそれを見出した理知に誇りの種を供するゆえにそれを目的とすることは邪欲に身をゆだね神に反することである。

583

真理(2)

弱者とは、真理を認めはするが、自分の利害がそれに合致する限りにおいてのみ、それを支持する人々のことである。そうでない時は彼らは真理を放棄する

→誠に耳の痛い言葉である。前出(582)の「愛を離れた真理」のことを言っているのであろう。