20世紀の Rômazi

20世紀の Rômazi 

Simizu-Masayuki

 

【この論文は,財団法人日本のローマ字社発行の雑誌

“Rômazi no Nippon” (2000/12号)に発表したものです.】

 

1.  国語・国字問題の起こり

2.  かな文字のあゆみ

3.  Rômazi のあゆみ

4.  日本式ローマ字のあゆみ

5.  分かち書きのあゆみ

6.  ローマ字教育

Atogaki

この Rômazi no Nippon も,20世紀の最終号となりました.

 この機会に<20世紀のRômazi >の総まとめを行なっておくことは,21世紀に向かう方向を探るためにも大切なことと思います.ここに記すことがらは本誌の読み手にはよく知られたことばかりでしょうが,これを一本の流れとしてとらえるためにあえて取り上げることとしました.なにぶん,短い時間に,短いページにまとめたものですから,誤りや独断,重要な事柄で漏れた点も多いかと思います.お教え願います.

 


1  1.国語・国字問題の起こり

 江戸幕府の封建制度のこわれにむかうとき,日本人の間の言語生活に目を向けられるようになりました.

 1866n.(慶応2)に,前島密は「国家の大本は国民の教育にして,其の教育は士民を論ぜず国民に普からしめ,之を普からしめんには,成る可く簡易なる文字文章を用ひざるべからず」として「漢字御廃止之儀」を時の将軍慶喜に差し出しました.

 1869n.(明治2)には,南部義籌は「国語の独立と発達」を掲げて「修国語論」を大学頭山内容堂に提案しました.

 1873n.(明治6)には,福沢諭吉は「第一文字之教」の序文で「今ヨリ次第ニ漢字ヲ廃スルノ用意専一ナル可シ其用意トハ文章ヲ書クニムツカシキ漢字ヲバ成ル丈ケ用ヒザルヤウ心掛ル事ナリ」と述べています.

 これらが,<かな文字論>,<ローマ字論>,<漢字制限論>のはじめと言われています.

 南部のローマ字論は相当荒っぽい議論でありましたが,1874n.の西周の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」(「明六雑誌」第1巻第1ページ)は,ほぼ完成した<ローマ字国字論>になっています.

 じっさい,前島は日刊紙「まいにちひらかなしんぶん」を1873n.に創刊していますし,南部は1874n.に「Nippon Bunten Uhimanabi」(ローマ字書き日本文法書)をだしています.福沢も,当時としては漢字制限を徹底した本をいくつもだしています.

 こうみると,@かな文字論Aローマ字論B漢字制限論,の3種の国字運動がほぼおなじ時期に並んで生まれたようにみえますが,その中身をよく調べる必要があります.

 福沢の序文は,よく読むと,<漢字全廃論>で,その手段として漢字を少なくしようというものです.前島も1874n.(明治7)には「将来五洲ノ文字一ニ羅馬ノアルハベットニ帰スルノ勢アリ.故ニ今国字ヲ用フルハ直ニ羅馬字ヲ用ユルニ如カズト.」(興国文廃漢字儀)と書いています.後に,「当時は攘夷鎖国の時で...」とも書いているように,時節柄,攘夷の相手の国の文字を言い出せなかっただけのようです.

2.かな文字のあゆみ

 「かなのくわい」の中心的指導者のひとり大槻文彦も「洋字ニ改メズンバ日本文法ツイニナルコトアルベカラズ」(広日本文典)と言っているように,日本語に適した文字としてはローマ字に一目おいていたようです.

 1883n.に有栖川威仁親王を会長とする「かなのくわい」ができ,一時5,000人もの会員がいたそうですが,1890n.にはおとろえました.「ひらかな文が実用にならないことが分かったため」(松阪忠則)のようで,多くのかな文字論者は「かな文字の改良」に努力しました.

 1920n.(大正9)に,山下芳太郎は「仮名文字協会」をつくって「改良したカタカナ」を広めることになりました.これが現在の「財団法人カナモジカイ」です.

 かな文字文では,「かなづかい」の問題がおこります.「かなのくわい」でも,かなづかいの統一ができず,3種類の機関誌をだしたほどです.

 学校教育の場でも,1900n.(明治33)には「棒引きかなづかい」(rei トーキョー,チョーチョ),1908n.に「歴史かなづかい」(トウキヤウ,テフテフ),1924n.に「発音かなづかい」(トウキョウ,チョウチョ)などと,めまぐるしく変化しましたが,1945n.の敗戦までは「歴史かなづかい」が主流でしたから,満足なかなづかいのできるのは少しの限られた人でした.

 1946n.の内閣告示「現代仮名遣い」が現在もその骨格を保っています.半世紀以上も続いてきたことは過去になかったことです.これにはいろいろの理由が考えられますし,いくつかの問題も生じていますが,省きます.

3.Rômaziのあゆみ

 Rômazi の団体は,1885n.(明治18)に,外国人300人を含むおよそ7000人の会員を持つ「羅馬字会」ができました.

 あらゆるローマ字論者の大同団結であったわけですが,すぐローマ字の書き方を統一することになりました.

これは

第一 仮名の用ひ方に依らずして発音に従ふこと.

第二 尋常の教育を受けたる東京人の間に行はるる発音を以て成るたけ標準とすること.

第三 羅馬字を用ふるには其子字は英吉利語にて通常用ふる音を取り其母字は伊太利亜語の音(即ち独逸語又は拉丁語の音)を採用すること.

となりました.

 今流にいうと,第一は「現代語音による」,第二はなるべく「東京語(共通語)で」ということで,ローマ字運動の始まりから一貫していたことは驚くべき先見性といえましょう.第三は「子音は英語,母音はイタリア語の音韻に従え」ということです.外国人会員も多く,西洋崇拝の時代ではあっても,「国語の独立と発達」を掲げて出発したローマ字論者の全員がこれに納得できるはずはありません.

 ちょうどおなじ年,1885n.に,田中舘愛橘は「理学協会雑誌」に「本会雑誌ヲ羅馬字ニテ発兌スルノ発議及ヒ羅馬字用法意見」を発表しています.これは,

@        いわゆるローマ字論

A        日本語として,必要で十分な音の区別をしたローマ字つづり.(日本式ローマ字)

B        文の中の言葉の意味や働きに基づいた「ことばのつけはなし」.(分かち書き)

このAの考え方が,のちにできた「音韻論」の思想でしょう.のちに田丸卓郎によって完璧とも言えるかたちで@は「ローマ字国字論」(1914n.),AとBは「ローマ字文の研究」(1920n.)にまとめられ,ながく<日本式ローマ字運動>のバイブルとして受け継がれてきました.

1905n.にも「ローマ字ひろめ会」として大同団結したこともありましたが,ヘボン式ローマ字は世界の言語学者にも相手にされず,運動団体としては<日本式ローマ字運動>だけとなっています.

1886n.には,田中舘らは「ローマ字新誌社」をつくって雑誌“Rômazi Sinsi” を発行しました.

1909n.に,「日本式ローマ字の本を出版する目的」の「日本のローマ字社」をつくりましたが,雑誌”Rômazi Sekai”や”Rômazi no Nippon” のほか,たくさんのローマ字関係の単行本を出版してきました.

1914n.(大正3)には,日本のローマ字社の発行する “Rômazi Sekai” の購読者があつまって「東京ローマ字会」をつくり,これが発展して1921n.に「日本ローマ字会」となって現在まで続いています.

4.日本式ローマ字のあゆみ

 田中館がはじめて提案した日本式ローマ字は完全に五十音図にそったもので,ヤ行は「ya yi yu ye yo」ワ行は「wa wi wu we wo」というものでしたが,田丸の「ローマ字文の研究」では「ya i yu e yo」と「wa wi u we wo」となっています.当時,かなでも「わ ゐ う ゑ を」と書き,「ゐ ゑ を ぢ づ くゎ ぐゎ」を「い え お じ ず か が」と区別していましたので,「wi we wo di du kwa gwa」を使うのが正しいとされていました.しかし,次第に「wi we」は使われなくなり,「wo」も助詞の「を」にだけ使われるようになってきたようです.

 1930n.に文部大臣を会長とし,各界の代表者と専門家を委員とする「臨時ローマ字調査会」で徹底的な議論がたたかわされ,その結論が1937n.の「訓令式ローマ字」となりました.ここでの議論は,日本式がわのひとりがちのようでしたが,少しヘボン式がわの意向も汲んだのか,「kwa gwa di du wi we wo」をやめて「ka ga zi zu i e o」としました.(長音の横棒 “ – “ は事務的な間違いと見られています.)

 これに対して,「議論では日本式の完全勝利だから,訓令式にしたがう必要はない.」,「大筋は通っているから,訓令式で妥協しよう」という考えや,田中館の「kwa gwa di du wi we woなどは末の末の問題だ」という意見などがありました.ここで,「訓令式ローマ字は時代とともにまた一歩進んだ日本式ローマ字だ」という理論を出したのが佐伯功介でした.当時,「くゎ ぐゎ ぢ づ」は「か が じ ず」とは違う音韻とみなされていました.佐伯の理論は,「音韻は違うが,発音は同じになっている.日本式の精神は“日本語音の必要最小限の区別”にある」というのでした.現在は,これが音韻と認められているのではないでしょうか.

 1948/10から,文部省の「ローマ字調査会」(のち国語審議会ローマ字分科会)でふたたびローマ字つづりを検討し,1954/12の「内閣告示第1号」ができ,また「国際標準化機構」でも1989/09には ISO 3602が登録されましたが,基本はすべて訓令式ローマ字です.

 現在の日本式ローマ字は訓令式ローマ字であるとみなす人が大多数だと思います.

5.分かち書きのあゆ

 ヘボン式ローマ字運動は,昭和の時代にはほとんどなくなりましたから,田中館・田丸の「分かち書き」は,「田丸文法」と呼ばれて,1945n.の終戦まで唯一の「正しいローマ字」として使われてきました.

 1945/08/15の敗戦で,日本ローマ字会も活動を再開しました.1946/03には,アメリカ教育施設団が日本の国字として「ローマ字の採用」を勧めました.1946/04には,古くからのローマ字運動家土岐善麿,大塚明郎,鬼頭礼蔵,平井昌夫らが「ローマ字運動本部」を作って活発な運動をはじめました.1947/04から始まる「小学校と中学校のローマ字教育」を視野に入れて岡野篤信を中心とした「(株)ローマ字教育会」もでき,ローマ字の本もできました.

 ローマ字の教科書もいろいろとできました.ところが,鬼頭礼蔵,土岐善麿のような長年のローマ字運動家の教科書のほかは,田丸文法とは違った「ぶつ切り分かち書き」のものがほとんどでした.

教科書の発行にさきがけて1946/11に,小林胖,柴田武,日下部文夫らの「ローマ字同志会」は「なるべく簡単なきまりで書けるやうな仕組みの分かち書き」(ローマ字文章法1946/11)を発表していました.この方式に近いものが多くの教科書で用いられていたのです.これが,鈴木重行,宮島達夫,橋本篤行の「東大式分かち書き」(東大ローマ字会の分かち書きの研究,1952/11)へとつながっています.

田中館・田丸らの「戦前のローマ字運動はインテリ主導」でした.書くのにむつかしい田丸文法もローマ字運動のリーダーに知的な満足を与えたようです.「書き手ひとりに,読み手は数千,数万」といい,「むつかしくても読む人に便利な書き方」を目指したもののようです.

 戦後のローマ字教育で事情が変わりました.どんな先生でも自信を持って書ける方式でなければならない,習い始めた小学生が得意になって書けるローマ字でなければいけなかったのです.「書き手一人に,読み手一人」の情報交換がローマ字でできる必要があったようです.こうして,「ぶつ切り形」の「やさしい分かち書き」が多くなってきました.

6.ローマ字教育

 1889n.(明治22)には文部省は「小学校のローマ字掛け図」をだしていますし,1906n.にだされたローマ字ひろめ会の「小学校のローマ字教育の建議」以後たびたび建議がでています.1907/02と1909/03には,松本君平らの「ローマ字普及に関する建議案」(小学校のローマ字教育)は衆議院で可決されています.しかし,実施されたのは1947/04からで,それまでは田丸陸郎ら篤志家の講習会が主でした.

 戦後のローマ字教育出発の前後から,鬼頭礼蔵,佐伯功介ら古くからのローマ字運動家によって「ローマ字指導法」の講習会が各地で行われましたが,中でも鬼頭は「ローマ字のカムカム先生」として人気のたかいものでした.

 1951n.には,文部省の「ローマ字教育実験学級」が20学級でき(3年間),1952n.には,ローマ字教育研究所の実験学級(41学級,4年間)がつくられました.[これは,“ローマ字だけで教育するクラス”と,“漢字かなの対比クラス”とで,教育効果を比較するものです.“ローマ字クラスの成績が良すぎて困るほどだ!”といわれたものです.]

 Atogaki

 1868n.の「明治維新」には,まだ「ローマ字で書ける日本語」が整っていなかったようです.1945n.の「民主化の時代」には,「だれにも書けるローマ字」が整っていなかったように感じます.現在,ローマ字運動は静かですが,ワープロひとつとっても,かつてない程「多数の日本人がローマ字で文章を書いています.」

 「大衆には文字は書けないもの」であったのが,Rômaziで書いているのです.これが「21世紀のRômazi」へのつなぎとなるのではないでしょうか.