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ローマ字国字論

田丸卓郎

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【Amite から: この本は,1914年(大正3年)10月に「日本のローマ字

社」から初版が発行された.たびたび版を重ねたが,1932年(昭和7年)

には「岩波書店」から発行されている.Mokuzi全部と内容の一部を引用

して紹介する。なるべく元のことばづかいを残したが,「当用漢字」「現

代かなづかい」に改めた.】

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【Mokuzi】

初版のはしがき

第3版を出すについて (habuku)

第1編 国字問題

第1章 国字問題の起る所以・・・漢字の批判

1.漢字のために国民の受けている損

2.日本語の性質から見た漢字

3.日本人の思想徳義心ど漢字との関係 (habuku)

4.漢字漢文が簡潔崇高荘重だということ (habuku)

5.国字問題の意味と古典の取り扱い方

6.この章の要領

第2章 漢字制限の批評 (habuku)

第3章 かなとローマ字との比較

1.かな論の種類

2.かなの利益と思われている事柄

3.日本語の性質から見たかなとローマ字

4.読み易さの問題、字の形から見たかなとローマ字 (Kore kara)

5.外国、外国人、外国語に関すること (Kore kara)

6.固有の字と世間なみの字 (Kore kara)

7.かな改良の問題 (Kore kara)

8.第4種のかな論および新字論 (Kore kara)

9.結論 (Kore kara)

第4章ローマ字を国字とすることの利益 (Kore kara)

1.教育の経済

2.日本語の正当な発達

3.書き物および印刷に関する便益

4.印刷物の面積に関すること

5.郵便電信商売品に関すること

6.日本語の世界的発展

7.他の国民との思想感情の疎通

8.この章の要点

第5章 ローマ字採用に関する懸念及び非難 (Kore kara)

1.読みにくいということ

2.同音異義の語が分らないということ

3.漢語系統の語の教えにくいこと

4.古典的文学の連絡の断たれる懸念

5.思想徳義心の養成に関する懸念

6.文章が冗長になるという非難

7.印刷物の面積に関すること

8.中国と文字の同じことから得る利益を失うという懸念

9.ローマ字使用は外国語の乱用奨励になるか

第6章 ローマ字つづり方問題

1.つづり方の詮議の必要

2.日本式つづり方

3.実際上の利害

4.日本式つづり方が日本語の性質に合っている証拠

5.国語の正字法に関する一般的考察 (Kore kara)

6.五十音と日本式つづり方 (Kore kara)

7.日本式つづり方とかなづかい (Kore kara)

8.英語や外国人に関する点 (Kore kara)

9.外国のti音tu音などの書き方 (Kore kara)

10.ウ列の音にuを省く説について (Kore kara)

11.結論、日本式の過去と将来 (Kore kara)

第7章 ローマ字に関係したその他の問題 (Kore kara)

1.字の名前と順序

2.つづり方の特別な問題

3.人名地名等の書き方ならびにABC順配列

4.外国語の書き方

5.こどばの種類

6.切り続けの一般的規則

7.名詞に大文字を使うこと

8.ことばと言い方

第2篇 日本語の世界的書き方 (Kore kara)

第1章 一般論

1.日本語の世界的書き方は現在すでにローマ字である

2.英語式ローマ字の批判

3.日本語固有のローマ字つづり方

4.最新の言語学者の日本式に与えた裏書き

5.日本式は同時に万国的である

6.日本式はすでに使われている

7.日本語の世界的書き方は日本式ローマ字

8.英語関係の方面におけるローマ字つづり方

9.結論

第2章 応用されたローマ字

1.日本人の名前の書き方

2.団体会社学校などの名前

3.土地の名前

4.名簿、図書目録、索引の並べ方

第3編 国字問題解決の順序

第1章 一般論

1.法律にたよることの可否

2.小学校にローマ字を入れること

3.国字論を先決問題とする必要はない

4.世界的書き方の発達

5.有効と宣せられたローマ字投票

6.国字がローマ字に移り行く経路

第2章 細目論

1.実用の方面

2.小学校の方面

3.研究方面

4.他の国字論者との関係

5.われわれのなすべきこと

付録1.ローマ字反対論とそれの批評

付録2.かな論とそれの批評



初版のはしがき

『国字問題は国語学者の問題である,それを国語学者でないもの

が論ずるのは心得違いだ』という人がある.しかし,現にこの問題に

ついて実行方面まで熱心に努めている人は国語学者にはかえって少な

くて国語学者でない人に多いという事実から考えてみると,この問題

は国語学者のみの論ずべきものだという論が当たっていない事情が事

実上あるに相違ない.今,それらしく思われる事情を書いてみると

(1)国字は国民全体の日常使うものであるから,実地それの使用者

という点では,国語学者としからざる人とに差別がない.いや,広く

言えばすべての国民は国語学者だといってもよい.それ故に,使用上

の差し支えや不便などから国字問題に考えを向ける点ではいわゆる国

語学者と国語学者以外の人とに差別がない.

(2)一般の国語学者は現在の書き方で書いた国語を取り扱っていて

それが商売だから,変わった書き方に考えを及ぼす機会はかえって少

ない.各種の学者でもまた実業家でも,外国語に接する機会の比較的

に多い人はかえって変わった書き方に考えを及ぼすことの多いのは自

然の理である.

(3)特にわれわれ理学者は万国的性質を持っていることを取り扱う

のが商売だから,そういうことに冷淡な人は別として,多少注意する

人には外国語と日本語との比較が頭にわいてくる機会は常にある.そ

して,すべて物事の真相を捕らえるのが理学者の本領だから,国字問

題が特に多く理学者に論ぜられることはむしろ自然の勢いである.

(4)理屈上国字改良の必要を知っている国語学者も、今のままで別

に自分の不利益にはならないから、それの必要を直接に感ずることは

ないが、我々理学者は絶えず外国の同業者と、書いたもので接して居

るから、国語の現在の書き方のために不利益を被ることを常に感ずる

(そういう点に注意しない人は別として)。

(5)直接必要を感じない人は、たとえ理屈では有用なことを認めて

も、面倒なことは後に回すようになるのは無理もない。必要を感ずる

人はそういう側の人のすることを待って入られない。従って面倒なこ

とを自分で処理してでも早くそれの必要に応ずることを試みるのも自

然なことである。

ざっとこういう事情かと思われる。

 国字問題はつぎに述べるように国家の大勢から見てきわめて要用な

しかも急を要する問題である。 それを、熱心にはやりそうもない国

語学者に任せておくことは、国家の上から見ても大きな損で、国語学

者外の人が熱心にそれを論ずることは大きな利益である。自分は、

この意味で国家のためにも要用な仕事をしているという信念を持って、

自分の専門以外のこのことに当たっているのである。

 もちろん、ここに述べたのは国語学者はこの問題に関係しなくてよ

いという理由ではない、ただ現在国語学に属すべき問題であるにかか

わらず国語学者が多くこれに注意しない、または注意しても熱心にや

る人が少ないという現在の状態の説明をしたのみである。しかしかか

る状態は決してよいことではない、国語学者諸君はたとえさし当たっ

ての必要は感じなくても先に立ってこの要用な問題を研究して呉れら

れねばならないと思う。 しかしまた同時に、国語学者ならざる一般

の人々に希望したいことは、この問題を国語学者の任せるということ

をしないで、すべての日本人がそれに考えを向けて、実行方面に注意

してほしい点である。本文にも論ずるように、主な問題は理屈にはな

くて、読み慣れる、書き慣れるという点にあるから、いかなる職業を

持っている人でも、ふつうの新聞雑誌を読むと同じ意味、同じ暇を持

ってローマ字文を読み慣れるように、また日常の書き物をなるべくそ

れで書くようにするだけで、この重要な問題に対して仕事をしている

ことになるのである。

大正3年10月                 著者しるす

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第3版を出すについて ..... (habuku)

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第1編 国字問題

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第1章 国字問題の起こる所以 −− 漢字の批判

1.漢字のために国民の受けている損

 今日主として行なわれている国語の書き方は、漢字とかなとを使う

方法で、漢字の方がことに要用な語を書く用をして居る。しかるに、

その漢字の読み方には簡単な規則というものがなくて、一字一字別々

に読み書きを習わねばならない。否一字の読み方が一つならばまだし

もだが、たとえば行という字は、上に孝がつけばコーと読み、上に苦

がつけばギョーと読み、ユクと読み、ヤルと読み、オコナウと読み、

人名になるとツラと読んだり、行脚行燈になるとアンと読む。生とい

う字にば読み方が二十幾通りかあるということである。こういうこと

は行や生に限つたことでなくて、すべての漢字が多少の差こそあれ、

皆いろいろ異つた読み方を持つて居る。また書く方でも同じことで、

例えば「みる」という一つの日本語を書くのに、見か覧か観か看かな

どと考えなければいけない。これらのことについてば次の節でなお論

ずるが、とにかく漢字日本語の読み書きの複難さは実に不可思議とい

うほかなく、これほど煩わしい読み方書き方は世界中日本以外どこに

もないのである。

 このように複難極まる漢字一字一字の稽古や読み分け使い分けは、

現在の書き方が行なわれる以上、どうしても一々我々の学ばねばなら

ないことで、我々の学校教育の大きな部分をそれのために使って、大

学を卒業する程になっても、まだ覚えきれなかったり、幾度も骨を折

って覚えたことも思い出せなくて急の間に合わなかったりするのであ

る。さて、これを知ったところで何の役に立つかというに、ただ人に

笑われずに読み書きができるということの外に何の役にも立たない。

字の読み分け使い分けを知っていても、道徳上の修養にもならず、数

学理学のような実用上の知識の足しにもならない。

 一体、語は人の思想を表わすための道具で、字はその道具を写すだけ

のものである。知識思想は無論大事であるし、また語はまた国民に固

有のものであり、かつ国民の思想感情と極めて親密な関係のあるもの

だから、それは勝手にかえられないものであるが、字となると、その

語を写すために人為的に作ったものに過ぎないから、どうでなければ

ならないというものではない。現に、日本語の昔の字は中国の字をそ

のまま借りてその音によって日本の音を写した万葉がなであつた。そ

の漢字は、いうまでもなく日本人に固有なものではなくて煩わしい借

物であった。また現今使っておる漢字とても中国人からの借物である

点は同じことである。

 思想知識を中身とすれば、語はそれを入れてある重箱のようなもの、

字はその重箱を包む風呂敷くらいなものである。われわれが漢字の読

み書きや使い分けに苦労しているのは、風呂敷の詮索にばかり暇どっ

て、肝心な中身をお留守にして居るようなもので、ずいぶんばかげた

話である。

 今の世の中は世界各国国民の実力の競争の世の中である。正味のあ

る学問をすることの競争、その学問を応用して国力を増進することの

競争に敗れるものは亡びるより外に仕方がない。われわれが無意味な

風呂敷の詮索をして居る間に、外国人は中身の学問をしてそれを応用

することに日もたらない有様である。こんなことでわれわれが外国人

に対して競争ができるだろうか。

 手近な一例を挙げて見るに、専門家の話によると、日木の小学校六

年間の読本の材料をドイツあたりの小学校の同年限の読本の材料に較

べると、わずかに六分の一くらいしかないということである。日本の

子供が一の知識を得る間にドイツの子供は六の知識を得るというので

ある。国民一人一人がことごとくこの通りの不利益を受けて居るとし

て國家全体のことを考えると、外国に較べて差のあまりにも大きいこ

とに驚かされるではないか。こんなことでわれわれは外国人にまけな

いで行けるであろうか。

 先年日本を視察にきた米国の実業家が向うへ帰っての報告の中で

「日本が漢字を使っておるうちは恐れるに足りない」と言ったそうだ

が、実際それに相違ない。

 漢字のあるために国語の学習に力を取られることは小学校に止まらず、

なお高等の学校まで崇つている。それのために、学問する日本人がど

れだけ損をして居るか分らない。近年日本人の学問のために費す年限

が長過ぎるということが論ぜられて居るが、学問の年限を縮めること

の困難だということには、漢字が最大な原因をなして居ることは、上

の小学校の事情を見ても疑う余地はない。

 一体、漢字のために日本人が損として居る事は学校生活の間だけでは

ない。われわれ個人が書き物をするときに、字の形を忘れておるため

に手間のかかることなどは別として、実業家は各種の業務書類で、軍

人は軍事通信で、外交官は国際会議などの書類整理で、すべて日本人

は漢字を常用として居るために外国人と同等な働きができなくて、い

つも労多くして効少い状態に甘んじて居なけれぽならない。

 この他にも日本人が漢字のために豪つて居る害はいろいろな方面に

わたって居るが、それは第4章で述べるとして、ここには教育上の効

果の少いことを主として説いたのである。 上のような心細い有様を救

う方法は何にあるかといえぽ、日本語を書く方法を簡単にするより他

にない。すなわち漢字をやめて、書いてあるものは必ず読めるような

字すなわち音文字を使うことにするより他にない。学問の年限短縮な

ども、それによつて最も容易な解決を得ることは明らかである。

音文字という点では、かなとローマ字とがほぼ同等な立ち場にある

が、第3章で十分に述べる理由によって、我々はローマ字を使う

ことが最良の方法であることを信ずるのである。

2.日本語の性質から見た漢字

 前の項では漢字のためにわれわれのこうむって居る損を述べてそれ

をやめる必要を説いたが、しかしもし日本語が性質上漢字で書くべき

筈のものででもあるならば、それが損だからといってそれをやめるこ

とが無理だというようなことになるかも知れない。それで、今漢字が

性質上日本語に対してどんな関係に立つて居るかを考えて見る。

 今の日本人には日本語は(文法上の関係を表わすところに使うかな

の外は)当然漢字で書かれるべきものだと思って居る人が多いようで

ある。しかしそれは習慣のために注意力が衰えておるためにそう思う

ので、注意して見ると、そうでないことを発見する。まず漢字を使っ

ておるについて我々の出会う不都合を並べると、

1.書いてあることが確かには読めない。たとえば日の字があつても、

ヒかニチかジツかカか分らないという類は、ほとんどすべての字につ

いてある。もっとも、意味のあるふつうの文章であると、多くは他と

の関係で判断がつくが、とにかく一つの字を見ても、それを言葉にか

えることができない。地名人名に至っては、分らない方が普通で、分

かる方が除外例といってよい。学文路、及位、放出、雑*隈のような

初めから読めそうもないのはまだ無難な方で、石原(イサ)栗田(ク

ンダ)など普通の読み方をして思わない失策をする例も珍しくない。

2.宛て字。矢鱈(ヤタラ)、矢庭(ヤニワ)、真面目(マジメ)、兎角

(トカク)、目出度(メデタイ)、流石(サスガ)、生中(ナマナカ)

の類。矢鱈は矢にも鱈にも何の関係もない事柄であるから、漢字が意

味を持って居るのが特長だというその特長がない。

3.ふつうに使う立派な日本語が書けない。ワカル、ハイル、キマル、

スケル、アルク、コナレル、ムズカシイ、ヤサシイ、アヤフヤ、スグ

ニ、シルシなどは、いずれも、高貴な方の前で言っても差し支えない

立派な日本語であると思うが、それを書こうとすると、書けない。ワ

カルは分かるとも判るとも書くが、何れも多少無理である。「学校へ

ハイル」は「学校へ這入る」とは書かれまい。「極まる」はキワマル

であり、定まるはサダマルであるから、キマルと書こうとするときに

困る。スケル(「書いてスケル」「持ってスケル」などの)を「助ける」

と書くとタスケルだからいけない。シルシは多く印の字を書くが、こ

れはインで意味から言っても適切でない。上に出した字には皆このよ

うな困難があるが、他にもたくさん同様な例がある。

4.読み誤られる。メグリと書こうと思うとき「周り」と書くと、マ

ワリまたはグルリと読まれる恐れがある。コマイと読んでもらうつも

りで「細い」と書くとホソイと読まれる。「止める」はトメルかヤメ

ルか分からない。「弾いて」はヒイテともハジイテとも読める。側

(ソバかガワか)、調べる(トトノエルかシラベルか)、急ぐ(イソ

グかセクか)、上がる(ノボル、アガル、タテマツル)、下る(クダ

ル、サガル)、断って(タッテ、コトワッテ)、後(ノチ、ウシロ、

アト)、限(ギリ、カギリ)など皆同様な例である。

5.書き分けねばならない。ミルという日本語を書くのに、見覧観看

などいろいろあり、キクに聞聴なぞいくつもある。これらの書き分け

がなかなかむづかしい。

これらが主なものであろう。

 これ等の例は稀に出てくる除外例であるから、それで全体を論ずるの

は不当だという人もあろうが、深く考えるとそう大雑把には言われな

い。

 まず実用上から言えば、2.の宛て字は、つまらない面倒でもとにか

くそれで間に合って居るからよいが、1.3.4.などは実地の差し

支えを生ずる容易ならない問題であるから、も少し立入つて考えよう。

1.について注意すべきことがある。同じ漢字でも、中国語における

漢字は、それの読み方が決まっておるために、書いてあるのを読むこ

とができるから、字の用を達しておると言える。しかるに、日本語に

おける漢字は読み方がきまっていないために、書いてあるものを言葉

に直すことができないから字の用を達していないといわねばならない。

友人の旅行先の地名が漢字では分かって居りながら、読み方分らない

ために、急用があっても電報が出せなかったり、電報配達夫が「東海

林」という門札を見ながら「ショ−ジ」という受取人は肩書きの番地

に住んで居ない」と言って差出人へ電報を戻したりすることはこの

「字の用を達しで居ない」ことの動かせない現実の証拠である。

3.については、人によっては、漢字で書けない語はかなで書けばよ

いと言うが、一体、名詞、動詞、形容詞等の要用な語には漢字を使う

のが例であるから、ぞんざいな文章ならば知らぬこと、謹んで書くべ

き文章には、ワカル、ハイル、コナレルなどとかなでは書けない。い

きおい、了解するとか入るとか入学するとか消化するとかいう語にか

えて書くことになる。正当なよい日本語を避けねばならない書き方が

日本語の正当な書き方だと言うことは、どうしても言えないことであ

る。

4.で、メグリとグルリ、ホソイとコマイ、トマルとヤメル等は日本

語では確かにおのおの二つずつの全く異なる語であるのに、それを表

わす中国の語が周、細、止おのおの一つであるばっかりで、日本語の

書き方の区別ができないのである。主客転倒と云おうか何と云おうか

奇怪なことである。(ホソイの中国語は繊であって細ではないそうで

あるが、ここでは日本語における使い方に従つて論ずる)。

5.の聞く聴くなどの書き分けは、人によっては、「漢字のために意

味を区別して使うから、日本語が進歩したのだ」と云う。これは丸で

見当違いなことである。日本語は(字を幾通りにかえても)キクなら

キク一つである、ただそれに対する中国の語が用途によって二つの場

合を区別するだけのこと。中国の語では、それが丸で違う語であるか

ら字も違うのが当然であるが、日本語は一つであるから一つにするの

が当然である。無論中国の語のどちらに当たるかを示して置くだけ意

味の区別ができて居るから、ただキクーつよりは意味が精密ではある

が、それは日本語以外のことで示された区別で、日本語を書くという

点ではいらないことである。

 つまり、われわれは漢字を使うために、正当な日本語を使うことを

控えたり、異なる日本語の書さ分けをなし得なかったりして居るのに、

他方においては、一つの日本語を種々に書き分けるなどという無用な

苦労をして居る。

 

 一歩進んで、此等の変なことは何から生じて居るか、それは何を意味

するかにさかのぼって考えたい。

 一体、漢字は中国の字であると同時に中国の語である。すなわち意味

のある語である。それ故に、例えばヒトという日本語を人と書き、ま

たそれをヒトと読むのは、ヒトに対する中国の語と字を捜し出して人

と書き、また中国の人の字に対する日本語ヒトを捜してヒトと読むの

である。すなわち書くときに中国語に反訳して書き(中国通りの読み

方はしないまでも)、読むときは再び日本語に反訳して読むという手

続きをして居るのである。かく二重の反訳をするから、種々の場合が

起つてくる。

イ)日本語に相当する中国語がただ一つあり、その中国語に相当する

日本語がただ一つあるという場合には論がないが、その他の場合には

差し支えの起るのは止むを得ない。すなわち

ロ)ちょうど日本語に相当する中国語がない場合には書きようがない

(上の2.および3.の場合がそれ)。

ハ)それが二つあるときには、中国語でそれ等のうちどれを使う場合

に当たって居るかに従つて、(日本語が一つであるにかかわらず)書

き分けをせねばならない(上の5.の場合がそれ)。

ニ)その中国語に対する日本語が二つ以上あるときは読み方が分らな

い、「止」をトメルともヤメルともいうように(上の4.の場合がそ

れ)。

 それに漢字を昔の中国の音のままに読むことを許すから、イ)の最

も簡単な場合も音で読むか訓で読むかでつまりニ)の場合になり、ま

たこれらの場合がいろいろ組み合つた複雑な場合も出てくる。

 要するに、上のようないろいろな不都合な場合のあるのは、偶然

な事情によるのではなくて、中国人の言葉を通して二重の翻訳をし

て書き読みしておるという事情から当然起こるべきことである。

 こういうわけで、日本人は自分の言葉を読み書きするのに、一々一

且(昔の)中国人の言葉に反訳して書き、次に再び自国語に反訳して

読むという手数をして居るので、書く漢字は、最初の反訳をした時の

形であるから、それの中国語を書いたものでこそあれ、日木語を書い

たものではない。したがって、漢字は日本語の書き方としてはなはだ

不自然なものであって、日本語と離るべからざるものでも何でもない。

むしろ音文字で日本語をそのまま書く方が、はるかに日本語を書くと

いう目的にかなっている。

注意。ここに論ずるのは、日本語の中に漢語を使うのがよいとか悪い

とかという問題とは全く別問題である。漢語のもとは漢字であつても、

耳に聞いてわかる程度の漢語は使ってかまわないし、かつそれは音文

字で書いてわかるはずである、(聞いてわからないような漢語は、日

本語として問題である、このことは第5章の2で詳しく論ずる)。

3.日本人の思想徳義心と漢字との関係

【現在では、ほとんど必要ないのではぶく。】

4.漢字漢文が簡潔崇高荘重だということ

【現在では、ほとんど必要ないのではぶく。】

5.国字問題の意味と古典の取り扱い方

 わが国の古典的文学書が漢字で書いてあることに対して国字問題はど

ういう見方をするかということも大切な問題である。

 われわれがここに国字問題ととなえて漢字をやめてローマ字を使おう

というのは、日用文字として漢字を廃しローマ字を使うというだけで、

漢字を日本国中から皆葬ってしまおうというのではない。こんなことは

しようとしてもできないことであり、また、望ましいことでもない。

 ローマ字が十分に行なわれるに至った後の最終の状態についていえば、

日本の古典的文学のうちに二つの成分があるとみることができる。一つ

は昔からのものをそのままにしておかなくてはいけない部分で、これは

専門家の研究すべき部分である。一つはそれの内容が肝要で形にはさほ

ど関係しない部分で、一般の教育に大切なのはこの部分であると思う。

この後の方は、どんな時代になつても、その時の国語すなわち日本人が

口で言う言葉で伝えられ得る筈のものに相違ない(もし伝えられないと

いうならば、それができるように国語を発達させねばならない)、口で

言う言葉で伝えられ得る内容ならば必ずやローマ字でも差し支えないわ

けであるから、この方はローマ字に書さ換へて差支えなくゆくはずであ

る。それ故に、ローマ字文の発達した最終状態においても、漢字漢学は

専門家の間に研究されて居る、ただ一般の人は漢字漢学を必要としなく

なる。

 しかし書き換えを必要とする古典的の文学をことごとくローマ字に直

すことは容易なことではない。現在日本語が、後に述べるように、漢字

のために損なわれて居るのだから、日本語の漸次の改良と伴ってでなけ

ればできない。だんだんにそれに近づいて行くより他はない。

 最終の状態になるまでの状態についていえば、ローマ字が日用文字と

して相応に通ずるようになっても、漢字や漢学は小学校女学校等ではそ

れぞれ相当な程度まで教えられて居て、漢字で書いた書物がやはり読め

るように教えられるわけである。

 漢字漢学を教えるくらいならば、現在よりも教育上の経済にはなるま

、短い時間に一通り分かるようになるには負担がかえって大変だろうと

いう心配もあるだろうが、それは目的および程度が現在の状態とまるで

違うのである。

 現在では漢字が日用文字であるから、それを正しく使い分け読み分け

ることは日常の生活に必要であるので、それに差し支えない程度までそ

れを習うことがはなはだ困難なのである。日用文字がローマ字であれば、

漢字は日常生活には直接関係のないものになって、ただ一つの学科とし

て習うだけになる、すなわち現在中学あたりで大多数の学生が英語を習

うようなもので、漢字の字引や参考書と首っ引きしてでも、どうかこう

か読めるる程度でよい、自分で正しく書き得る程のものにならなくて差

し支えないのである。それと、独りで自由自在にしかも正しくこれが書

けるまでになるのとは学習上の負担がまるでちがう。

 この辺の関係は、現在の(返り点のつく)漢文の状態を考えても見当

がつく。昔は学問の主な部分が漢文で、読む稽古も書く稽古もともに漢

文であったが、今の学生は一般に読む方だけを課せられて書く方は必要

と認められていない。そして、日常生活では返り点で読む漢文の必要は

ほとんどなくなり、同時に昔の漢文の書がかな交じりに直って出版され、

従って学生の読む方の稽古もだんだん必要がないようになっている。こ

れと同じことが、この次には漢字について起こるに相違ない。すなわち

今は漢字が読めかつ正しく書けるように教えられているが、この次には

漢字が読めるだけでよい、正しく書く必要がないことになり、それと同

時に日常生活には漢字の必要はだんだん少なくなり、昔の漢字の書がだ

んだんローマ字に直って出版され、従って読む方の漢字の稽古もだんだ

ん必要が減つてくるに相違ない。そして、このように漢字を正しく書く

ことの学習が不必要と認められてから後の漢字の学習が今日に較べて学

生の負担上丸で比較にならないことは、現在に於ける中学生の漢学の程

度と、正しく漢文の書ける人(今では専門家)の漢学程度との比較にな

らないと同じことである。

 要するに、世の中がローマ字の世の中になっても、古典的の文学は専

門家の手において永久に保存研究される。保存されておるから、専門家

でなくても、己の修養または娯楽のためにそれを研究しようという人に

は差し支えない。そして一般の人にも、相当に長い年月の間は中学校や

小学校の上級で今までよりも少ない程度に教えられる。これで、昔の文

学歴史との連絡の絶たれるというような心配は更にない。

 ひとえに心配がないのみならず、ローマ字はかえって漢学の発達を助

けると考えるべき理由がある。近来漢字の書き方読み方使い方が純粋な

漢学から見れば大分乱れてきて居るようであるが、漢字が日用文字であ

る上は、現在の使い方が標準だと言わねばならないから、初めは誤りで

あっても、その誤ったのが一般的になると、その誤ったのが却て標準に

なるのも致し方がない。しかしこれは、漢学という側から見れば、決し

て喜ぶべきことではあるまい。このように、昔からの正しい書き方使い

方と今の書き方と衝突するようなことの出てくるのは、漢字が日用文宇

であるから起つてくるので、漢字から日用文字という役目を免じて、漢

字は漢学専門の字にすればこんな困難はなくなる。この意味において、

ローマ字採用はかえって古典的漢学の健全な発達を助けるものだと言う

ことができる。

6.この章の要領

 要するに、われわれ日本人は漢字を日用の文字として居るために、他

の国民に比して教育上その他に驚くべき不利益を蒙っておるので、われ

われはこれを改善する方法を講じなければならない。それには漢字をや

めるのが第一必要であるが、それが許されるかどうかを調べてみるに、

日本語の性質から研究すると、漢字はむしろ日本語に不適当な文字であ

ることが知れる。また漢字に関係して日本人の生活に重要なる関係を持

つらしいいろいろな方面を研究すると、漢字を是非引き続き国字として

使わねばならないという事情は一つもない。

 それ故に、日用の文字としで漢字を止めて音文宇を使うがよいという

ことは、もはや疑うべき余地のないきまつた問題である。

 

第3章 かなとローマ字との比較

第6章 ローマ字のつづり方問題

Modoru