第3章 かなとローマ字との比較

     1.かな論の種類

現在の漢字仮名交じり書き方の弊害を救うために、音文字を使うとすれば、

かなとローマ字とが問題になるので、世間にはかなを使うがよいという人

がかなり多くある。それには

(1)現在のカタカナをそのまま、ただ幅や丈をかえ、語と語の間をすか

すくらいの工夫をして、使おうとする人。

(2)上と同様に、ひらがなを使おうとする人。

(3)現在のカタカナの形を、誰にも認めがつく範囲内で、変えて、それ

の欠点を救おうとする人。

(4)かなの認めのむづかしいまでに、それを変形して、または新たに形

を工夫して使おうとする人。

これら4通りの種類がある。

世間にもっとも多くあるかな論者は、この第1種すなわち現在のままのカ

タカナを使おうという人だと思われる。しかし、これらの人の主な点はカ

タカナとひらがなとに共通であるので、次に述べる比較(2から6まで)

はかな論一般に通ずるものである。

     2.かなの利益と思われている事柄

かながよいという議論の一番強い立場と思われておる点はつぎの4つであ

ると思う。

(1)かなが現在日本中に知れておる、したがってそれを教える世話がい

らない。かななればすぐにも使える。

(2)日本語にある音には父音だけのものがなくて、父音は皆母音と組み

合って使われる。こういう音は、性質上から、かなで表すのが一番適当で

ある。

(3)実際の使い道に、かなの方が便利である。もっとも多くの場合に、

かななら一つですむところにローマ字では二つ書かねばならない。

(4)かなは日本に固有な字だから、国家的の自覚とよい意味のほこりの

上から都合がよい。

これらについて私の考えることを述べる。

(1)かなは現在日本中に広く知れていること、またそれを教える世話の

いらないことは誰も認める。しかし、それ故にそれが行われやすいかどう

かは疑問である。法律か何かで、かなだけを使う規則ができるとすれば、

このことはかなのために都合のよいことに相違ないけれども、そういう法

律はできそうに思われない。自由な競争に任せてあるとすれば、かなは一

般に知れているためにかえって弱みを持っている。なぜなれば、かなは現

在知らない人すなわち教育のない人の使う字になっているから、よほどわ

けのわかった人の他は、かなだけで書くことを好まないのが実際の状態で

ある。この点では、無教育な人と一緒にみられるという嫌いがなくて、し

かも習うにさほど手数のいらないローマ字の方が好まれかつ行われる望み

が多い。私は現にそういう実例ーー感じの知識の少ない人でローマ字で手

紙を書いておるという人ーーを聞いている。

それ故、(1)の点はかなの強みのようで、同時にまた弱みである。

(2)日本語の性質からみてかなとローマ字との比較は特に大切であるか

ら、つぎの節3で別に述べるが、要するにかなが日本語に適当しているこ

とは上辺の見方で、深く調べるとローマ字の方が適当していることが明ら

かになるのである。

(3)実際の使い道において、かなが字数が少なく、ローマ字が字数を多

く要することも、それに相違ない。しかしここでも、その一つ一つの字の

形を考えることが必要である。読むことは4の節で別に述べるからそれに

譲り、書くことについていえば、片仮名の要用な欠点は、それの線がきれ

ぎれであるために、自習ペンを上げたり下ろしたりすることが必要で、そ

れがーー特に早い書き物をする場合などにーー思いの外に手を疲らせる。

これは、ローマ字を書きなれていて、たまにかたかなを書くときによく気

のつくことである。ローマ字はペンを上げる必要が少なくて、この点では

遙かに勝って居る。字数や線の数の少ないことばかりをみてかなが便利だ

と思うのは考えが足りない。

縦書きひらがなは続け書きの点ではよいが、縦書きであることから生ずる

不便(書くときに手にインキがつくことや、読むときに目がよけいに疲れ

ること)などは避けられない。

かな賛成者がかなの利益として主張する一つの点は、タイプライターを使

うときに字数が少ないから、手数が少なくてすむということである。これ

も、字数の少ないことには疑いがないとしても、字の種類の多いことすな

わち押しボタンの多いことから、使いにくい指をも使わねばならないこと

と、紙巻き台を動かすボタン(シフトキー)を動かすことの多いことを考

えに入れると、我々の使って居る日本式ローマ字のタイプライターですべ

ての普通用の字(かなの50に対してわずかに19字)を皆使いやすい指

で、しかも字の続き具合に都合のよい位置に並べてあるのに比して、かな

タイプライターの方が時間なり手数なりの上で都合がよいだろうとは考え

られない。この点は実験で比較してみなければ確かなことは言えないけれ

ども、私の見込みでは、実験をしてみたらたぶんローマ字の方が勝つだろ

うと思うのである。少なくも、かな賛成者のいうように字数の比較に現れ

るほどの利益がかな論にあるのではないことだけは明らかである。

(4)かなが日本に固有な字だから、それを保存して使いたいということ

はもっともなことである。しかし、こういうことは物と世界の事情とによ

って考えることが必要である。われわれは、言葉は国民にとって返られな

い大事な物、国民のいのちのうちの一部分というべき物だから、その通り

に保存することをつとめるべき物であると考えて居る。そしてローマ字を

使うのも、日本語のためを考えるというのが主な理由の一つになって居る。

しかし、字となると、それは言葉を紙の上に表す道具に過ぎないので、決

してわれわれのいのちのうちの一部分ではない、それを取り替えることは

決して無理だと決まって居るものではない。

この間計はつぎの事実からも十分に証拠だてられる。われわれの若い時代

には、ほとんどすべての学問(普通学)を英語で習った物で、それ以来、

英語に親しんで居ることはほとんど絶え間ないといってよいほどであるが、

それにもかかわらず、すべての用事を英語で言おうとするとわれわれは非

常な無理を感ずる。ローマ字で日本語を書くことは、全体の年月から言っ

ても、またその年月の間に実際それの読み書きをしていた時間から言って

も、若いときからの英語とはまるで比較にならないほど短い時間であるの

に、私はローマ字文を書くこと、ローマ字の文章を読むことに少しの無理

も感じていない。否漢字仮名交じり文の方が、思うとおりに掻けないこと

(第4章の2の後半参照)が始終あるために、かえって無理を感ずる。ロ

ーマ字分に1−2年のなじみを持って居るローマ字仲間は皆同様な感じを

もって居る。これは、字をかえることが、言葉をかえるのとちがって、無

理なことではないことの明らかな証拠である。

字をかえることがたとえ無理でなくとも、これをかえる手数をするだけの

利益がないならば、強いてそれをかえるには及ばない。もし、封建時代の

ように、国特にとの交通をなるべく差し止めて居る時代ならば、それが賢

いやり方であるかも知れないけれども、現在の世界の事情では、かえって

相互の思想をよく了解しあうことが必要であり、そういうことが国家の生

存のためにも大きな関係があるのであるから、字の方はそういう事情に適

するようにかえることがよい、ということには疑うべき余地がない、この

ことについてはなお下(第4章の6,7)を見られたい。

以上(1)から(4)までをまとめて言えば、かなの利益と考えられて居

る点は、それらの利益はいずれも疑わしい物、または大いに割引を要する

ものである。

    3.日本語の性質から見たかなとローマ字

日本語の音がかなに適してローマ字に適しないということは、ある程度ま

で認めてよい。人によっては、日本語にも母音の添わない父音があるよう

に言うけれども、私は現在日本語の正式な発音と認めるべき音はかなを拾

って読むときのように母音の添ったものであると思う。したがって、父音

だけの音を書く場合がないから、日本語ではローマ字が英語やドイツ語な

どにおけるほど必要または適当でないように見える。しかし、拗音や詰ま

る音になると、かなには「石屋」「医者」の類の混同があって実用上こま

るばかりではない。形の上から見ても、かなの書き方「しやしん」「きつ

て」などが間に合わせ的であるのに引きかえて、ローマ字の書き方が全然

調って居ると言わねばならない。もちろん、かなの方でも、これらの場合

に「や」「ゆ」「よ」「つ」に特別なしるしをつけるとか、それを特に小

さくするとかすれば、まぎれないだけのことは出来るに相違ないけれども

それにしてもやはり姑息の策たることを免れない。

音の性質から見ても、「しや」または「しゃ」よりも siya の i が省か

れた形 sya の方が実際の事情に当たって居ることは認めねばならない。

すなわち、孤立した父音はないとしても、直音と拗音促音との間の関係は

やはりローマ字で表さなくては適当に表せないのである。

また、も一つ日本語が性質上ローマ字で書くべき語であることの証拠とな

ることは、動詞の語尾変化やいろいろな音便変化にある。動詞の語尾変化

といえば日本語の性質の中の一つの小さい部分だとも言えるけれども、そ

の小さい部分がもっとも多く日本語の特徴を含んでいる部分であるから、

十分それに重きを置いて見なければならない。

かなを使って動詞の語尾の変化を露わそうとすると、五十音図の各行につ

いて別々にかなを書き並べてそれを書き表さなければならないのに、ロー

マ字であれば、同じ種類の変化がただ一つの変化で表される。

たとえば、「書く」「読む」「押す」「立つ」「切る」などの動詞の変化

は、かなで書けば、

書 かない き く けば こー

読 まない み む めば もー

押 さない し す せば そー

立 たない ち つ てば とー

切 らない り る れば ろー

これだけ書いて示すことを要するのに、ローマ字なれば、

kakanai yomanai osanai tatanai kiranai

kaki yomi osi tati kiri

kaku yomu osu tatu kiru

kakeba yomeba oseba tateba kireba

kaô yomô osô tatô kirô

この通りだから、変化はただ一通りの変化

-----anai

-----i

-----u

-----eba

-----ô

だと言える。

一体これらの動詞は文法で同じ種類の動詞で同様な変化をするのだといい

ながら、かな流だと「カ行ならばカキクケコ、サ行ならばサシスセソ、タ

行ならばタチツテト、マ行なればマミムメモ」などと皆別々に書き表すと

いうのは、書き方が不徹底だからである。第一、ある種類の動詞の例を出

すのに五つも六つも列べなくてはならないというのが変な話である。

ローマ字流でいえばどれにも通用する規則として

「語尾が ---anai, ---i, ---u, ---eba, ---ô と変わる」

と言うだけで足りる。例を出すにも前の父音が何ということを顧みる必要

なく、どれでもただ一つか二つ出せばわかる。それが「同じ種類の動詞で、

同様な変化をする」ということのもっとも当然なやり方であることは言う

までもない。

また、音便の変化で言えば、「書けば」を「書きや」、「押せば」を「押

しや」、「立てば」を「立ちや」、「汲めば」を「汲みや」、「切れば」

を「切りや」という類はローマ字で書けば

  kakeba, oseba, tateba, kumeba, kireba などの

     「eba が ya に変わる」というただ一つの変化だということが判る。

これらは、読み書きに直接関係する便不便の問題ではないけれども、ロー

マ字で表されるような性質が日本語の正味の一部分になって居ることの証

拠で、したがって、ローマ字は日本語を書く字として性質上適当して居る

字であることを示すものである。すなわち、「孤立した父音がないから日

本語にはかなが適して居る」というのは、外に現れた一面だけを見た論で、

深く日本語の性質まで調べると、日本語はまったくローマ字式の語である

ことが知れるのである。

 

   4.読み易さの問題ーーー字の形から見たかなとローマ字

【つづく】

 

第6章 ローマ字のつづり方問題

Modoru