理学協会雑誌をローマ字で発行する提案と

ローマ字文の書き方についての意見

                            原   田中舘愛橘

                        現代語訳  Simizu-Masayuki

     

                 訳者まえがき

 田中舘愛橘先生の「本會雑誌ヲ羅馬字ニテ發兌スルノ發議及ヒ羅馬字用法意見」(1885[明治18],理學協會雑誌第16p105~132)は,日本式ローマ字の原典とされ,長く日本式ローマ字運動のよりどころとされてきた.個々の細かな点では,現在では変更する必要もあるかと考えられるが,根本の考え方には,今なお重要な意義をもっている.

 かねてより,もっと広く,とくに若い人には,ぜひ読んでほしいものと感じていたが,文字づかいや言葉づかいの点から読みにくいと感じる人が多いようである.

 「財団法人日本のローマ字社」で,田中舘愛橘先生の50年記念号を発行することになった機会に,これを現代語に訳した.これとて,一般には分かりにくい点もあるようなので,分かりやすい形の,少し縮めた「意味訳」にしたものである.なお,原文は句読点もほとんどなく,段落も節の区切りもないものであるが,節にわけて適当な名をつけた.



1.理学協会雑誌をローマ字で発行すること.

 西洋の論文を紹介したり,自分の論文をこの雑誌に発表する場合に,思い通りに書くことはとてもむつかしい.外国語で学んだことを書くためには,まず,訳語を考える.このとき,純粋の,分かりやすい日本語である「はやさ」,「引き」などのことばを,漢字かな混じりの文の中に入れると,かえって読みにくく,分かりにくくなるので,辞書をひっくり返して「速率(注:現在の“速度”)」,「引力」など適当な文字を書いておく.この手間は大変なものだが,それを読む人には意味の分からないことが多いのではなかろうか.自分は,「単当振子」,「微分検温器」などという言葉で,ちょっとつっかえ,文の前後の関係から推測するのである.目を閉じて,人が読んでおるのを聞くと,まるでお寺のお坊さんが戒名でも読んでいるようである.

 では,かなだけで書くのはどうか.かなはもともと表音文字ではあるが,音節単位の文字であるから,そのままでは表わせない音がある.無理にこの音を表わすには,漢字で使っていたような「反切」を使わなくてはならない.これはいたって紛らわしいことで,とうてい音韻を表わすのに十分な方法ではない.漢字は面倒で,かなは紛らわしい.自分は,今,西洋で使われているローマ字で日本語を書くことにすればいたって便利であると思う.

 その上,ローマ字は,数式を書いたり,表を作るときなど,理学を研究する者にとっては一層便利である.また,世界で広く使われている文字であるから,ローマ字書きの論文は外国人にも数式や表くらいは分かる.電信,活字などにも,便利なことはいうまでもない.これが「羅馬字會」ができた理由で,創立まもないが会員数はすでに5000人になったそうである.また,自分も会員である「数学物理学会」も,最近,その記事をローマ字書きにすることを決議している.

 ものごとが便利な方に変化するのは水が低い方に流れるようなものである.今,ローマ字が広まっているのもこのためである.止めようにも止めることはできない,さえぎろうにもさえぎることができないものはローマ字の流行である.ここにおいて,自分はこの理学協会雑誌もローマ字で発行することを提案し,きたる9月の年会で議決することを望む.

 

2.ローマ字のつづり方

 ローマ字を使うことはわが国2000年来の文字を根本から変えることなので,よく研究して,世論のおもむくところに任すべきものと思う.

自分も,ローマ字の書き方について考えて,人にも意見を聞いた.参考のためにこれをつぎに示す.もとより,これは私見に過ぎないもので,広く意見を求めたい.ともに言語の発育を助け,文事の進歩に役立とうと思う,

 

      用 法

ローマ字でつぎのように50音を表わす.

a

Ka

ガ

Ga

Sa

ザ

Za

Ta

ダ

Da

Na

Ha

バ

Ba

パ

Pa

Ma

Ya

Ra

Wa

i

Ki

ギ

Gi

Si

ジ

Zi

Ti

ヂ

Di

Ni

Hi

ビ

Bi

ピ

Pi

Mi

Yi

Ri

Wi

u

Ku

グ

Gu

Su

ズ

Zu

Tu

ヅ

Du

Nu

Hu

ブ

Bu

プ

Pu

Mu

Yu

Ru

Wu

e

Ke

ゲ

Ge

Se

ゼ

Ze

Te

デ

De

Ne

He

ベ

Be

ペ

Pe

Me

Ye

Re

We

o

Ko

ゴ

Go

ソ

So

ゾ

Zo

To

ド

Do

No

Ho

ボ

Bo

ポ

Po

Mo

Yo

Ro

Wo

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キャ

Kya

ギャ

Gya

シャ

Sya

ジャ

Zya

チャ

Tya

ヂャ

Dya

ニャ

Nya

ヒャ

Hya

ビャ

Bya

ピャ

Pya

ミャ

Mya

 

 

リャ

Rya

 

 

 

 

キュ

Kyu

ギュ

Gyu

シュ

Syu

ジュ

Zyu

チュ

Tyu

ヂュ

Dyu

ニュ

Nyu

ヒュ

Hyu

ビュ

Byu

ピュ

Pyu

ミュ

My

 

 

リュ

Ryu

 

 

 

 

キョ

Kyo

ギョ

Gyo

ショ

Syo

ジョ

Zyo

チョ

Tyo

ヂョ

Dyo

ニョ

Nyo

ヒョ

Hyo

ビョ

Byo

ピョ

Pyo

ミョ

Myo

 

 

リョ

Ryo

 

 

 

 

クワ

Kwa

グワ

Gwa

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  拗音の“キヤKiya”をKyaと書くように,発音しない字は書かない.

 名詞の初めの字を大文字で書き,“が の に を”などの“助詞”は離して書く.

 名詞に“の”や“に”などがついて「形容詞,副詞」になるものは名詞につけて書く.動詞は助詞をつけて書く.

 

 50音図の目的は,人が口から音を出そうとする意図を示すことである.「かな」にもない ye wu があるので変に思う人があるかも知れないが,「意図する音を覚えるための表」という意味である.また,むかしは50音に別々の文字があったという説もあり,黒川真頼氏の「詞の栞」,「活語指掌」,物集氏の「日本文典」などにもこれを区別してすべて別の文字で書いてある.ローマ字の50音図をこのように決めておけば学びやすくて,覚えやすい.また,動詞や形容詞などの活用を覚えやすく,時代的な変化がはっきり分かるので,音韻を覚えるための表としてこのようにしておく.かなの50音図との対応などとは別のことである.

 「羅馬字會」の委員は,東京のふつうの発音を元とするが,母音はイタリア語,ラテン語,ドイツ語にしたがい,子音は英語にしたがっているから,50音図の行と列の働き方などの規則がなくなり,これを表わそうとすると規則の例外ということになる.

 世間では,文字の書き方は「発音主義」と「語源主義」とに分かれるといわれている.語源主義は,ことばの語源を書き表そうとするし,発音主義の人は,できるだけ発音にしたがって書こうとする.語源主義者に対しては,「“万葉集”を“マムエフシフ”と書き,“東海道”を“トウカイダウ”と書くのか!」といい,発音主義者に対しては,「“人”を“シト”と書き,“茶釜”を“チヤマガ”と書くのか!」といいあっている.これならかえって漢字の方がやさしい,ということになる.

 この論を極端に言ってみよう.語源主義をつきつめていくと,「人間に進化する前の動物の言葉を調べてからでなければ文字が書けない」,もっとさかのぼると,生物の発生の前の分子や原子の運動から調べてかからなければならないことになる.また,発音主義も,つきつめていくと,国の違いはもちろん,人によっても音がちがい,同じ人でも話す場によっても限りない違いがある.数限りない区別を書き表わすことは不可能なことである.語源主義だ,発音主義だといっても,実際上は,いくらか語源的であるとか,いくらか発音的だとかの違いに過ぎない.

英語式つづり(注:ヘボン式)で英語の発音に近いように書いても,「ふもとに雲ぞかがりける」という歌をうたうとき,英国人が“f”を発音するように,下唇のうえに上歯を2枚当てて“フーモト”というわけではない.ハ行に一字くらい英語式と違った字“hu”を使っても,不都合というほどのことではない.かえって学びやすく,書きやすいと思う.また,日本語の動詞の語尾などによくでてくる“シ,チ,ツ”の字に,英語の流儀に従おうとして,必要のない“h,s”などをいれるのは理解できないことである. 人の決めたことに反対するのは自分の本意ではないが,このような文字の変更はとても大切なことであり,後世にも影響が大きいので,とても心配しているところである.

 “羅馬字会”の発行した雑誌18ページ,28ページあわせて16ページの中には数字も入れて63,041字の文字がある.このうち,“チchi”と“シshi”に使う“h”と“ツtsu”に使う“s”との総数は2,151字ある.また, kwa, gwaのwの抜けたところと,ヂャをdya,ジョウを Zyô などと書くために入るyとwとの総数は170ある.したがって,この170を前の2,151から差し引くと,1,981字の無ければ覚えやすくて分かりやすい文字があることになる.これを総数63,041で割ると3.14%あまりになる.これは, 6万字あまりの調査に過ぎないと思う人もあるかもしれないので,最小二乗法を用いて調べたところ,確率誤差は0.08であった.英語式つづりが3.14%ほど字数が多くなることは信頼できる値である.

 これからすると,今後「羅馬字会」のつづりを使うことにすると,100につき3の割でむだ骨を折らねばならない.これは字数のことであるから,コンマ“,”や止め点“.”などや,空白のところもあるから,大きく大きく見積もってこれを3分の1とみなしても,残る100分の2,すなわち50分の1の紙のむだになる.100部本を出版すると,2部づつは,日本人には覚えにくくて使いにくい書き方のためにむだができる.

それ以上に問題なのは,書き方が不合理なために,文法やことば使いの本には不規則なところができることである.この例外の説明を書く手間やそれを教えるための手間,学ぶための手間などを勘定すると,この「羅馬字会」で決めた書き方の損失は多いことになる.日本語というものはその文法がとてもかんたんで,ことばの活用,自動詞と他動詞の区別等,わずか半紙18枚の「活語指掌」や27枚の「語彙別記」などの本で一通りは足りるのである.古いことばづかいや現代のことばづかいもわかるのである.それにも関わらず,外国語の音の書き方を用いようとして,相応の規則があるのに,わざわざ不規則を作るのは合点のいかぬところである.文法がだめでも発音の方は,書き方委員会の決めた英語流の方がきちんと発音を表わすのに適しているかというと,これもよいとはいえない.「富士の山」の話だけではない.現在,ふつうの東京人は「梅」,「馬」のことを「ウメ」,「ウマ」と発音しているのか.自分は東京に13年間留学しているが,東京のいろいろな人の中で「ウメ」,「ウマ」と発音したのを聞いたことがない.それにも関わらず,(羅馬字会の「羅馬字にて日本語の書き方」第十三条で)「umeumaと書くべし」と命令文で書いてあるのはどういう意味であろうか.そもそもローマ字を用いて都合がよいのは,<反切>のあいだの音文字を省いてカナより正確にことばを表わすことができる点にある.それなのに,発音を表わすと言いながら,かなづかいにとらわれているのはおかしいと思う.また,ある文科の専門家が「<僕><学>などは”bok”,,”gak”と1音節で書かなければ発音に適していない.羅馬字会の委員のように書いたのではかなに拘泥しすぎている,少なくとも半分は拘泥している.」と熱心にがんばっている.どんなに英語流の発音にかなった書き方を決めたとしても,英国人には英国人固有の傾向があり,日本人には日本人固有の傾向があるのである.たとえば「ラリルレロ」を英国人は決して日本人のように発音しないし,また日本人はたとえ英語の子音の書き方をしても英国人のようには発音しない.ローマ字は日本語を表わすのに便利なものがよいので,羅馬字会の方式のように英語流にしてしまうと日本語の性質に合わないと思う.日本語それ自身の発達を損ねるものと思う.

 

3.分かち書きについて

 名詞のはじめを大文字で書くとよく目立って分かりやすくなる.また,わが国のことばの話し方をよく考えてみると,名詞はことばのなかで独立しているように思われるので,名詞は助詞と離して書く方がよい.先ごろ,辰巳文学士と黒川氏の共著のひらがな文の「伊勢物語」で名詞のはじめの字が大型のひらがなで書いてあるのをみたが,まことに分かりやすくて読みやすい.また,かな混じりの漢文(漢文調のかな漢字交じり文)は,かなだけの文よりも,漢字だけの文よりも読みやすいのは,名詞やおもな動詞が漢字であって,かなで書かれた小さなことばより目立つからだと思う.

 名詞のあとに“の”,“に”が付いて“かざりことば”(形容詞,副詞)になることがある.“鉄の鍋”,“横に引く”などの“鉄の”,“横に”をひとつの単語として“の”,“に”を語尾とみなければ意味が通じにくいと思う.また,動詞のつぎの助詞は切り離すと意味を持った単語にならないものがあるので,動詞とつけて書く方がよいと思う.いずれにしても,書く人が名詞と思って書く場合は大文字で書き始めて助詞を離して書き,飾りことばと思って書くときは小文字で書いて”no”,”ni”などをつけて書くことにすると,一目で文章がはっきり分かりたいへん便利である.

 羅馬字会の委員がきめた書き方は,ローマ字つづりは英語の流儀に従うこととして,分かち書きでは”no”,”ni”を離して書くことにしているが,これでは意味が紛れることが多いように思う.私が「数学物理学会」の記事の原稿を書くとき,間違いの起こりそうな箇所を控えておいたもの十あまりのうちひとつ,ふたつ挙げてみると

  kono heimennno Sankaku   &  &

は,この(球面ではない)平面の三角 ...

    kono Heimen no Sankaku   &  &

は,(あの平面のではない)この平面にある三角 ...

また

    Mozi wo atosakini kaki    &  &

は,文字を逆転して書き ...

    Mozi wo Atosaki ni kaki   &  &

は,文字を後ろと前とに書き ...

というふうに区別できる.羅馬字会の雑誌で,このように書かないと意味が通りにくいと思うところが,1号と2号とでざっと548ある.

 およそ外観でものを判断することは間違いが多い,という.奏仕官は馬に乗っているが,馬に乗っている者すべてが奏仕官であるわけではない.“の”は“の”であるし,“に”は“に”であるが,独立して意味が通ることもあるし,語尾にした方が意味が通るときもある.何もかもあのように離して,“故に”をyue ni ,“しこうして”をshikō site,“何々する”を 何々 suru”と書くのは語格を表わさない書き方と思う.“参考する”などは外国語の訳語の動詞であるから,あのように“Sankō suru”と離して書くなら,“案する”は”an suru”,“察する”は”sas suru” と書かねばならない.助詞の“とも”は,みな”to mo”と離して書いてある.はじめは印刷間違いかと思ったが,あの“死すとも退くことなかれ”の“とも”は九つとも皆離してある.「羅馬字にて日本語の書き方」第17条(第2)の「助語は離して書くべし」というのは,かなのようにばらばらに離して書けという意味ではあるまい.「言葉の八街」の,「切ることば」の助詞のところに“とも”とかなでよく分かるように書いてある.これは,よほど大昔までさかのぼって調べた“語源主義”の書き方か,または日本人の話すことばを真似する西洋人のことばをまた真似をする“発音主義”の書き方である.これでは,せっかくの優れた新体詩もあまり新しすぎて私などには分からなくて,歌えないようになることが心配である.

 ことばは生き物である.文章はことばを表わすものにほかならない.切れて離れようとしている単語を“つなぎ(−)”で繋ごうとしても繋ぐことはできない.鉄の縄で繋ごうとしても,繋ぐことはできない.逆に,くっついて一つの単語になる傾向にあることばを“くぎり(,)”で切ろうとしても,切れるものではない.刀や鋸で切ろうとしても切れるものではない.これは武力でも,国家権力でもできないことである.ただ,自然の発達を妨げるだけである.17条の規則は刀や鋸であろうか.8ページの羅馬字会雑誌が,これを切るのか.どうして,天下の数百万の筆を切ることができようか!また,文字は単にことばを表わすだけでなく,話したことを確実にする道具でもある.あのように何でも離して書くのは,外国人が日本語をたどたどしく訳して読む初歩の段階では簡便かもしれないが,だんだんと進んで少し込み入った内容,数学,物理学のことでも,商売上の取引でも,このように書くと不都合が起こる,大変なことになる.これでは日本語がいけないからだ,外国語のように正確なことがいえない,などといって,いま世間で唱えている人があるように,“英語か何かの外国語をそのまま使おう”,ということになるかも知れない.日本語が不完全なためなのか,日本語を知らないためであろうか.

 諸君,お互いが外国語を学ぶとき,単語のつづりを学ぶのはどうであったろうか,文法はどうであったろうか.思うに,わが日本語の文法は,英語やフランス語のように,単数・複数だの男性・女性だのといって動詞の活用,形容詞の活用などくどくど変化しないのである.“変格活用”といっても,good, better, best のような大きな不規則ではない.“カ行変格”や“サ行変格”なども,だれでも知っているほどかんたんなものである.何の理由で男と女との働きに区別を付けなければならないのか,また,まったく性のない品物の名まで姓をつけて区別するのは何の役にたつのか.(男女同権などという人には似合わない.)つけなくて十分である.立派に通じるのである.分かるのである.これをつけるのは,ただただそれぞれの国の習慣に過ぎない.(習慣にはよいものも,悪いものもある.わたしは,どんな文明国の習慣でも,婦人が腰をひょうたんのように締めたり,耳たぶに穴をあけるのは不賛成.)また,英語では二言も三言も言わねばできない区別が日本語ではすぐできることはいくらもある.近い例では,兄・弟,水・湯の区別は英語ではbrother, water と書いただけではどちらか分からない.これを分からせるにはもっと言わねばならない.しかし,日本語はよいことばばかりで,悪いところはないと言うつもりではない.日本語では都合よく言えなくて,外国のことばでよく分かり,便宜のよいことばならいくらでも用いたいと思う.外国語の文法で,よいところがあればいくらでもこれを用いたいと思う.

 

4.おわりのことば

会員諸君,ローマ字は実に便利である.これをわが国の文字とし,日本語を書くことにするなら学芸は発達する.注意するべきことは,万葉論者(語源主義者)のように頑迷に陥らないこと,おうむ論者(発音主義者)のように軽率にならないことである.外国のことばも採るべし,日本のことばも研ぐべし.現在は,ローマ字を試用する時であり,専用の時代ではない.それでは,われわれ理学を研究するものはだまっていて,何人かの文科系の人に任せてよいのだろうか.私は,そうではない,といいたい.

ことばが明確でければ,思想が明確にならない.思想が明確でなくてどうして理学が発達できようか.西洋では,かつて,自国語ではなくラテン語で学芸を修めてきたのは何故であろうか.最近,それぞれの国のことばが発達してくるにつれて,それぞれの国語で書き,学芸を修めるようになったのではないか.私は,現在の“かな混じり漢文”をやめて,やがては本物の日本語で数学の定理も,物理学の法則も,立派にしっかりと分かるように書けるようになることを熱望する.そして,諸君とともにこの熱望を達成することを熱望する.これは,文科系の人数名だけに任せてできることであろうか.これは,「羅馬字会」の書き方に束縛されてできることであろうか.諸君とともに,ここに述べた方式で理学に関する事柄を書き,また試験しなければならない.そして,明瞭で,分かりやすく,明確で間違いにくいことばと書き方を作り上げていかねばならない.これが,自分の未熟さをもかえりみず,あえて意見を提出した所以である.諸君,どうかこれに賛成していただけないだろうか.