Mon P'tit Chat
 ──これで雨まで降っていたら出来過ぎだ。
 それほど凍えた空気の中を、彼はひとりで歩いていた。そこそこ大きな通りなのだが、黎明のなお遠いこんな時刻に出歩く物好きは少ないと見える。
 無人の通りを、さして急いだ風もなく。吹き抜ける寒風に身をさらし、束ねた赤く長い髪が舞い上がるに任せたその姿は、心地良さげにすら見える。
 そして事実、彼は──大気の冷たさを認識しても、『寒さ』など感じていない。
 纏ったコートの恩恵でも、見事な体躯が連想させる鍛練の賜物でもなく。
 真の意味での肉体を持たず、灼熱にも極寒にも脅かされることのない存在──すなわち魔族であるゆえに。
 目立たぬように、と配下の魔族を拠点に押し込めておく一方で、自然発生する負の感情を取り込み糧とする為に出歩いているのだが……所詮その目的は、口実以上のものではない。今のように見るからに『餌』の少なそうな日や、ときには影ひとつない荒野ですら、構わず彼は赴いた。
 単に、じっとしているのが苦手なのだけかもしれない。
 折からの風に煽られて、紅蓮の蓬髪が戦旗の如く翻る。
 魔竜王。混沌の竜──その名はガーヴ。
 大気に混じる一筋の、かすかな黒い感情に彼が気付いたとき、夜はまだ明けきっていなかった。

 ──天の摂理ほど不条理なものはない。
 同胞たちの骸に埋もれたその存在が、何かを世に訴えるとしたら、そのあたりが妥当だろう。
 黒い翼の群が、虚無の先触れとなって天を覆っている。狭い隙間に詰め込まれ、何より弱りすぎていて、身動きすることもままならない。かつては互いに身を寄せ合い、暖めあったはずの兄弟たちは、いまや一方的に体温を──僅かに残った命を容赦なく奪い取っていく死神と化していた。
 先に逝った者たちに招かれているのだとすれば、それほど悪くはないかもしれない。
 熱が拡散していくように、絶望という名の虚ろに生きる意思が散じていく。
 ただ静かにたたずんで、ただ全てを飲み込んでいく──
 存在と無の波打ち際を漂っていた「それ」の前に、突如として、死は明確な形を伴って現れた。
 曇天を埋め尽くす黒翼が、不意に列を乱す。業火の色に縁取られた獰猛な笑み。肉を裂く爪と骨を砕く牙と、満たせぬ飢餓を携え生まれた捕食者の殺気──
 風が炎を煽るが如く。今しも尽きようとしていた生命が、俄かに輝きを増した。
 全身の毛を逆立て、萎えた四肢を突っ張り、まだ視点も定まらぬ鬱金の瞳を大きく見開く。
 ひゅうひゅうと掠れた響きを漏らす喉から、とうとう音が──運命に爪を立てる、相克の軋みが迸る。
「みぃいうぅぅぅぅっ!」
 ……一般的には『鳴き声』と呼ぶかもしれないが。あれは紛れもなく雄叫びだったと、後日ガーヴは主張した。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 

 新米ほやほやの竜神官、ヴァルガーヴの朝は遅い。とある山奥にぽつんと立った、廃棄された山城の、外に面した一室に。差し込む冬の淡い光は、既にかなりの角度である。
「っふぁ……む……」
 乳翠色、とでも呼べばいいのだろうか。鮮やかでいて、どこかまろやかな色合いの髪はくしゃくしゃに乱れ、鋭い金の双眸も、今はとろん、と溶けている。
 寝台に胡座をかいたまま、ふるふると左右に首を振り……
 やはりくしゃくしゃの毛布の上に、ばふっ、再び倒れこむ。確かに日差しは暖かいが、充分冷たい空気をものともせず、安らかな息を立て始めたのは、寒冷地に生息する古代竜の性質ゆえか。
 だがしかし。この日彼は、二度寝という至上の快楽を味わうことが出来なかった。
「まぁぁぁぁぁぁぁぁだ寝てやがったのか、お前は」
 節くれだった拳骨が、髪をかき分け伸びた角の、付け根のところをぐりぐりえぐる。はっきり言って、痛い。竜族の皮膚の強靭さだとか精神世界面における防御力だとかそういうものを突き抜けて、ただひたすらに痛い。
 後から回された腕をどうにか抜け出し、目尻に涙と抗議の色を浮かべて見上げる……が、むろんそんなものが通用する相手では無い。
「せっかく休んでたところを悪いな」
 あんな起こし方をしておいて、いけしゃあしゃあと口にする。
「……おはようございますガーヴさ……ま……」
 もとから緩んだ声がさらにぼやけたのは、寝室に踏み込んできた至尊の主──ガーヴの片手にしがみつく、毛皮の塊を見つけたからだった。
 何だこの小汚いボロ、と思ったとき、それがもそりと身じろぎした。
 猫である。まだ小さい。
 ヴァルガーヴは反応に困った。
 猫だ。猫だろう、きっと。物心ついた頃には流亡の日々で、己と一族以外の存在に関心を払う暇はなく、ガーヴに拾われてからは魔族ばかりに囲まれて過ごすヴァルガーヴは、本物の猫をじっくりと眺めた経験がない。だが多分猫で合ってるはずだ。
 ──だとして、ガーヴ様は何でこんな物を持ってるんだろう?
 かすかな疑問を覚えつつ、放心したように、鼻先に吊り下げられたその生物を凝視する。眠気が残っていた訳ではない。断じて。
 中途半端に長く、泥で固まった毛。骨が浮いて見えるほど肉付きの薄い体躯。出しっぱなしの小さな爪で盛んに空を引っかくが、その動きからして、よれよれと勢いがない。危険性は皆無。むしろ相手のほうが危機に瀕している。とはいえ、死体に成り下がるまでにはまだ猶予がありそうだ。
 ──そういったことをしばし観察した後に、やおら指を向け、
「……俺にも黙って、一体どこの誰に生ませたんですか?」
「昔の話だ。もう手は切った」
 竜族の伝統作法に基づいた応酬を淡々と聞き流し、猫はみゃあみゃあと鳴いていた。

 冗談はさておいて。
「お前に任す。とりあえず死なない程度には面倒みてやれ」
 言葉より手の動きに反応し、慌てて受け取った塊の。意外な重さと柔らかさ、そしてなにより暖かさ……いや、熱さにヴァルガーヴは驚いた。体の小さい生物ほど概して体温は高いものだが、恒温生物と接する機会のない彼にとって、その感触はひときわ新鮮である。ふにゃふにゃと頼りなく、ちょっと力を入れればそのまま握り潰せる脆い存在。だが、確かに生きていた。
「………って、俺がやるんですかっ!?」
「他にいねぇだろーが」
 混乱からとっさに問い返したものの、あっさり一刀で返されて、思わず首肯するヴァルガーヴ。
 普段彼らの身の回りは、もうひとりの竜神官──ラルタークが一手に引き受けている。相方の竜将軍ラーシャートが、創造主に輪をかけて細かい作業の苦手なタイプであるため、自然、雑用を押し付けられるはめとなったのだ。そのおこぼれにあずかるような形で、ヴァルガーヴも何かと世話になっているのだが……そもそも彼らに人間のような生活を営む必要はなく、単にガーヴの我儘が罷り通っているだけなので、ラルタークに方もやる気がない。何かの用事や気まぐれで主の目が離れると、途端に手を抜いたりする。頑丈さにかけては類を見ないこの主従だからこそ、平然としていられるが、普通の人間が付き合ってみようものなら、ひと月保たずに体を壊すこと請け合いである。
 ──その場合、部下の怠慢より、ガーヴ自身のいい加減な生活態度のほうに原因があるかもしれないが。
 それに何より魔族にとって、命あるものに対してとる行動は、本来ならば滅ぼすか負の感情を搾り取るかの二種類のみ。傍に置いて愛玩する、などという発想は……ないとは断言できないが、ないに等しい。ごくまっとうな純魔族であるラルタークにしてみれば、創造者たるガーヴや、戦力を期待されるヴァルガーヴならまだしも、取るに足りない小動物の生存に手を貸すなど言語道断。自分自身に疑問を抱き、弱体化すら招きかねない異常事態なのである。
 今現在、彼らは雌伏の時期にあり、多少戦力が落ちたところでさしたる支障はないどころか、潜伏を容易にするためにはかえってありがたいぐらいなのだが、参謀・補佐役として全体の状況を考慮した上での意見具申(平たくいえば小言)が増えることだけは断じて避けたい。
 よってガーヴは、配下の中で唯一自身と似た性向──生物としての特質を残した元竜族の青年に、事態を託すことに決めたのである。
「ま、どーしてもって訳じゃねえからな。なんか不都合があるんなら言え。適当な奴見繕って押し付けるから」
 自分でやる気はないらしい。
 だがその内容がどうであれ、上司の言葉に魔族が逆らうはずもない。
 ──かくしてヴァルガーヴは、ミルクを調達しに人里へと出向く羽目になった。

 とはいうものの。
「……なんで俺がこんなこと……」
 適当な店を探し出し、売ってもらったミルクを抱え。たらたら歩く横顔は、やる気とに満ちているとは云い難い。これは単に心情の問題だけではなく、彼の体調にも原因があった。
 永き時を渡る竜族の生理周期は、人のそれとはスケールが違う。むろん日月の運行も、多少は関係しているが……多くは数年、数十年のサイクルで休息と活動を繰り返す。エンシェント・ドラゴンもその例に漏れず、そして今ヴァルガーヴは、そろそろ休眠に入ろうかという、人間に喩えるならば寝入りばなの時期に当たっていた。その優れた戦闘能力を活かすため、竜族の特徴を極力残す形で魔族に生まれ変わったせいで、かつての習性には大きく影響される。もとより、完全に眠り込むというわけでもないのだが、何かにつけテンションが低い。
 しかも。
 転生したばかりで魔族としての感覚──精神世界面における知覚と、生来の物質的なそれとの整合が上手く行っていなかった彼に、これまでガーヴが下した指令は『とにかくその体に慣れろ』のただひとつ。ようやくコツが掴めたとはいえ、主の厚遇に報いるようなことは、まだ何一つ出来ていない。
 つまるところ、今回の『猫の世話』が彼の記念すべき初任務なのである。……泣きたくもなる。
 おまけに、肝心の猫がいまいち可愛くないのだ。あまりの汚さに見かねて、出かける前に洗ったのだが、弱っているくせして散々暴れ、水を飛ばすはひっかくは。その程度で傷つくほど竜族の皮膚はやわではないが、人の姿をとる以上、鱗の強度は望めない。うっすらと赤くなっている。
 総じて猫は水が苦手だということを、あいにく彼は知らなかった。
 下手に力を入れるとあっさり死にそうで、馬鹿丁寧に扱ったのが間違ってた。もっと適当にしよう、などと決心しながら仮の根城へ戻る。跳ね上がるように外壁を伝い、直接窓から自室(らしきもの)に入り込んだヴァルガーヴを、寝台に胡坐をかいたガーヴと、その膝上で潰れている件の物体が出迎えた。
 ペっちゃりと、体重からなにからすべてを委ねきったその有様に。ヴァルガーヴの薄い腹筋の下で、何かがどくりと脈を打つ。
 暗く重たく粘っこく、妙に苦いその感触に気付かずに……あるいは気付かぬふりをして、早速猫を引き剥がし、床の上に坐らせる。適当に引っ張り出した深皿に白い液体を注いで目の前に置いてやるが、一度匂いを嗅いだっきり口をつけようとしない。何が気に食わないんだ、と腹を立てる部下をそっちのけ、ガーヴは指を皿にひたすと、逆の手で抱え上げた小さな口元へ近づける。
 濡れた骨太の指の腹に、ちうちうと吸い付く濃いグレーの縞模様。くすぐったそうに細められた目。
 また──
 どくり。
 今度は無視できなかった。
 痛みではない、ひたすらに不愉快な何かがうねっている。たかが猫一匹に、こうも苛立つ理由も謎のままだ。原因が不明なのだから、どうすればいいかも彼にはわからない。
 だから、ありきたりなことを尋ねるしかなかった。
「ガーヴ様……コイツを連れて来て、どうするおつもりなんですか」
 それこそが、すべてを解き放つとも知らずに。
「別にどーもしやしねーが……なんとなく昔を思い出しちまってな」
「……飼っていらしたんですか?」
 ガーヴと猫。こうして実際に見ていると、妙に納得の行く光景ではあったが……
「そーゆーこともあったかもしれんが……
 逆だな。
 俺も捨てられてたんだ」
 弾けたように見返す部下に与える視線は、静謐と呼べるほどに穏やかだった。
「どーいう事情かはよく覚えてねえが、ま、単に貧乏だったんだろうな。降魔戦争のすぐあとだから、人間の国も相当荒れてた。……その頃は封印も強力で、自分が魔族だなんて自覚はこれっぽっちもなかったくせに、そういうことだけ妙に残ってるもんなんだよな」
「それで……」
「そんときゃ、そこらへんの人間のガキと大差なかったからな。にしちゃあ頑張った方だと思うんだが……一月もしねぇでくたばった。オチはねえぞ」
 ささやかな失敗でも打ち明けるような、その声音がふと途切れ。眼差しが、指先にしがみつく小さな獣に向けられる。
 余った指で、折れそうに細い喉笛を軽く撫で──
「馬鹿、歯ぁ立てんじゃねえ」
 凝縮された熾火の熱さ。揺らめく炎の暖かさ。
 それは──ヴァルガーヴが一番大切にしているものだった。
 禍々しいほど旺盛な生命力を秘め、途方もなく大きく力強く……世界でただひとつだけ、彼に対して優しいモノ。すべての仲間を失って、あとは敵しかいないと思っていたときに、『生きろ』と言ってくれた、あの顔だった。
 己の姿を重ねることで、彼の存在を認め、受け入れ、望んでさえくれた──あの時の言葉が、表情が、他のものに向けられている。
「……なんか、他人事の気がしなくてな。それでつい拾っちまった。そんだけだ」
 ──ずぐんっ──
(やめろよ、おい……)
 腹腔を満たしたそれは、もはや熱さえ帯びてその存在を主張していた。
(みっともねぇだろが。いくらなんでも)
 嫉妬。
(こんな──死に損ないに──)
 似ていると言ってくれた。惜しいと言ってくれた。
 だから、一緒に行こうと決めた。
 神も魔も、すべてを敵に回しても戦い抜けると思ったんだ。
 それが……こんなに簡単に手に入って良い訳がない。
 こんなに簡単に与えられるものじゃないはずなのに。
「ん? どーかしたか?」
「別に……
 ところで、こいつは部下にしないんですか?」
 魔族として数千、数万の時を渡ってきたガーヴが、己の力を分け与えた、まさしく分身とも呼べる腹心の胸中を、見過ごすはずがなかったのだ。だがこのときヴァルガーヴはそれを失念していた。潜んだ想いを悟られぬための、それはただの軽口のつもりだった。
 が。
「…………それだ」
「え゛っ」
 強い決意のこもった言葉に、ヴァルガーヴの目が点になる。
「それだそれそれっ。
 だいたいなぁ、竜神官が二人いるのに竜将軍が一匹、っつーのは、やっぱバランス悪いと前から思っちゃいたんだ。よし、決まり」
「…………え゛…………」
 楽しそうにはしゃいだ声色に、ヴァルガーヴの顔が青ざめる。
「良かったな、相棒が出来て」
「え゛……え゛……え゛……え゛……っ」
 無骨な手がばしばしばし、と背を叩くそのたびに、細い体が傾いでく。
「……ガーヴ様………
 まさか、本気なんじゃあ…………」
「名前はネコガーヴで決まりだな」
「……………………………」
 人、これを指して『墓穴』と呼ぶ。
 うつろな眼差しで宙を眺めるヴァルガーヴを無理やりベッドに坐らせて、手の中に子猫をしっかり握らせガーヴは部屋をあとにした。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(名前は──)
 薄れゆく意識。遠ざかっていく声。
 いつしか時を遡り、ヴァルガーヴの意識は見渡す限りの荒ら野を漂っていた。
 空を埋め尽くす鈍色の翼。地に散乱する黒い羽。ただ一点赤々と、輝くような炎の色。
(お前に俺の名をやろう。ヴァルガーヴと名乗るがいい)
 古代竜族最後の生き残りであったヴァル=アガレスがその生を終え、竜神官ヴァルガーヴがこの世に誕生した瞬間。あのときの光景が、再び繰り広げられている。
 ………あぁ、夢なんだな………
 おぼろげに考えながら、緩急定まらぬ時の流れに身を任せるうちに、夢想は現実を追い抜いて、ひとつの幻を紡ぎだす。
 折り重なる異形の屍。無数としか呼べぬ亜魔族の死体の下からのぞくのは、傷つき砕けた金の鱗。轟く風の中、傲然と立つ紅蓮の影。傍らに侍る己の姿。
 そして主を挟んで対極に、敵陣に切り込む楔の一翼を担うのは、魔竜王軍第二の将。
 その名も猛きネコガーヴ。
 チャームポイントは細いヒゲ。究極奥義は肉球チョップ。
 ───い───
『いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っ』
 がぱっ。
 気が付けば、鳥の声も清々しい、よく冷え込んだ冬の朝。跳ね起きたその動作で、胸の上に乗っていた何かが振り落とされて、蒲団の上を転がった。……昨日の状況からして、何かもなにもあったものではないのだが。
 もちろんそれは昨夜から転がり込んだ厄介モノで、その凶名高い最終兵器でもって、つい先程まで彼の頬を断続的に圧迫していたのである。
 もとい。一体なにが気に入ったのか、今度は身体をよじ登ってまでスタンピングを再開していたりする。猫好きなら喜びに身悶えするところだが、実年齢に比して人生経験の浅いヴァルガーヴには、単にうっとうしいだけだった。まだ調節が上手く行かないのか、出したままの爪が小さな擦り傷を作ってもいる。
 夢の名残も手伝って、思わず床に叩き付けそうになったが、危うい所でガーヴの言葉を思い出し、かろうじて思い止まった。
 いくらなんでも昨日の今日で死なせてしまっては、さすがに会わせる顔がない。
 半分以上も残ったままで置きっ放しの皿を洗い、適当に水気を切って残りのミルクを入れてやる。……が、やはり昨夜と同じく飲もうとしない。一応側には行くのだが、くるりと振り向き、啼き声ひとつ立てずにヴァルガーヴを見上げている。
「……なんだよ、かわいくねぇな」
 猫はじっと見つめている。
「気に入らないなら好きにしろ。お前がどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
 猫はじっと見つめている。
「どうせ十年かそこらだ。今死んだって、たいして違わないだろ」
 猫はじっと見つめている。
 ──それでいて、ヴァルガーヴが視線をそらすと、今度は逆にすりよってくる。
「………離れろっ!」
 大人気ない苛立ちを、まるで気付いていないのか。頓着せずに再び寄って来る猫を、半ば本気の敵意を込めて睨みつけるヴァルガーヴ。大人気の無さ、ここに極まれリ。というか猫と同レベル。
 子猫一匹脅せない彼が情けないのか、あるいは敵が大胆なのか。ピンク色のざらつく舌が、ヴァルガーヴの手の甲をちろりと舐める。
「……貴様……っ」
 そしてまた。猫はじっと見つめている。
「……………………う……………………」
 緊張と逡巡。杖どころか、細い針金の上に全世界を置くような極限状態における葛藤。
 だが、破れぬ均衡など存在しない。
「………く………
 あーもうしょうがねぇ、飲ませてやるっ!」
「みぅ〜」
 覚悟を決めたその途端。今更のような甘えた声は、勝利の凱歌の如く響くのだった。ますますもって可愛くないが、誇り高き竜神官に二言は無い。屈辱に震えながら、白い液体に指を差し入れ……ようやく彼は気がついた。
 冬の最中に小ぶりの缶に詰められて、あまつさえ一晩放置された牛乳が、どれだけ冷え切ってるか、ということに。
 とりあえず、自分が寒さに強いという自覚はある。逆に言えば、他の種族にはそこまでの耐性が無いことを頭で理解はしているが、どのあたりが限度かは──見当もつかない。
 ちなみによく見ると、ミルク皿の表面に、六角模様の結晶がいくつか浮かんでいたりする。
 量によっては内臓の弱い子猫でなくとも腹を下しかねない代物だが、指についたものならば、人(?)肌で多少は暖められる。彼も、そしてガーヴもけして体温が高いとはいえないが、さすがに氷が張ったりはしない。
「……ひょっとして、お前冷たいのダメなのか?」
 あまりに間抜けなその言葉を、猫が理解したはずも無いが。指の腹に貪リついたまま、尻尾が左右にゆっくり揺れる。なんだか馬鹿にされたような気がするが、いくらなんでもそれは考えすぎだろう。たぶん。
 片手を封じられたまま、微妙に向きを変えつづける耳だとか、ぴくぴくとせわしないヒゲだとか、ときおり伸びてくる舌だとかを見ているのも、なぜかそれほど悪い気分ではないのだが……
「あんまいい気になるなよ、コラ」
 とりあえず、軽く小突いて牽制しておく見習い竜神官であった。

 蛇足。
 この日の悪夢と絶叫は、その後一ヶ月に渡ってヴァルガーヴを悩ませ──
 負の感情を糧とする魔族たちに、ささやかな珍味を提供したのだった。

     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 幼いものを養育する、それは世代を重ねていくすべての生物に備わった本能だ。時として種の相違を無視するほどに、その衝動は強い。ましてどれほど警戒心の強い種族でも、渋り顔をしながらも危害を加えることはなく、律儀に餌を与えてくる者に対しては、次第に心を許すもの。餌の時間だけとはいえ、鼻声で寄って来られると、さすがに憎めないというか、これでなかなか可愛いじゃないかとか、つい思ったりするわけで。
 要するに。なんとなく情が移ってしまった。
 あのしち面倒くさい食事さえ、牛乳を弱火にかけて温める、というシンプルな解決法を思いついたときには、一抹の寂しさを覚えたものだ。
 一方ガーヴは自分で拾ってきた割に、気にかけてるのかいないのか。以前と比べて頻繁に顔を見せる、ということも別になく、これまでと同じように思い出したように訪れては、前肢をぷにぷにしたり、『そーいやあの猫どうした?』などと、こともなげに聞くぐらいだ。名前も結局つけなかった。
 それでも最初に拾ってもらった恩を覚えているのか、直に世話をしているヴァルガーヴ以上に慕われていたが。


 強大極まる庇護者を得たことを、肝心の猫がどう受け取ったかは無論余人の知るところではない。第一ガーヴもヴァルガーヴも、毎日のミルクと暖かい寝床──生活に多少の余裕があれば、誰でも出せる程度のものしか与えていない。
 またたく間に成長し、生活習慣についていけなくなったのか、はたまた野生の血が呼ぶか……狩ることを覚えてからは、好き勝手に抜け出しては獲物を下げて戻ってくる。目撃したガーヴが面白がっていたところを見ると、どうもヴァルガーヴに対してだけのようだが。
 むろん、他の魔族は寄り付きもしない。猫のほうでも彼らを避ける。いくら瘴気を抑えても、所詮魔族は魔族、生命なきもの。そもそも、獣にすら悟られぬほど完全に気配を押さえ込むのは、それなりに神経を削る行為なのである。潜伏中とはいえ、そこまでする義理はない以上……姿を視界に捉える前に、その『気』を察し、銀灰色の身をひるがえす。
 それがヴァルガーヴにとっては、『自分(たち)だけに懐いている』という印象を強める結果にもなった。そうなると現金なもので、時にはいじらしささえ感じてしまう。
 だが本当のところはきっと、もっと単純なものだろう。彼の中に残った、竜としての──生物としての部分が、息づく命の存在を、無条件で歓迎している。
 ガーヴ様にとっては、俺もそんなものなのかな、と考えると、嬉しいような悔しいような複雑な気持になった。少なくともヴァルガーヴは、ただ単に可愛がられるだけの存在で終るつもりはない。
 ラルタークやラーシャートを相手に、魔族同士の戦いの勘を磨くうち。あるいは古い伝説から、力となりそうな武具や呪法を探すうち。いとも容易く時は経つ。無限の時を存える魔族ならばなおさらに。

 十年など瞬く間。

     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「畜生ォォォォォォォォォォォォッ!」
 ガーヴは荒れていた。
 カタートを中心とする魔族の結界。その内側に妙な気配が生じた時のことだ。結界の外に彼らは居た。ヴァルガーヴには、初めビリっときて、なんとなく気分が落ち着かない……その程度のことだったが、他の魔族たちの反応はもっと顕著だった。
 そしてガーヴは、はっきりと青ざめた顔で『早過ぎる……』と一言呟き、ほどなくして、すべての部下に対してついてくるよう命令した。
 影に身を潜めたまま、気配の源を探ること約半日。むろん手分けしたほうが効率がいいのだが、ガーヴは一度として部下の単独行動を許さなかった。
 生来の魔族ではないヴァルガーヴも、この頃になると察しがつくようになっていた。最低でも、中級以上の魔族は創造者に完全に服従する。だが直接の創造者と、彼を創ったものとが──すなわち魔王と魔竜王が、同時に、そして互いに矛盾する命令を下した場合はどうなるか。本来ならばありえない事態だけに、その問いに答えられる者は、おそらくこの世のどこにもいない。
 部下の造反──いや、帰順をガーヴが危惧するのは、至極当然のことだった。せめて目の届くところに置いておけば、いざという時に先手を打つ事も可能。だいたいそんなところだろう。
 そして……たしかなことは何ひとつつかめないまま、その出現と同様に、唐突に気配が消える。魔道士の少女と卓越した剣士と、合成獣とされた青年が、赤い闇を断ったのだと、彼らが知る由もない。念の為に三日ほど、結果以内をうろうろして……これといった変化が起きていない事を確認し、ようやく探索を打ち切った。
 予想に反し、あまりにも早すぎた魔王の顕現。好機か危機か、ガーヴは読みきれなかったのだ。覚醒直後で全力を出し切れない魔王を叩くことが出来れば願ってもない。だが、これが彼をおびき寄せる罠である可能性も捨てきれない。また仮に罠ではなくとも、不意を打てずに欠片の始末に手間取れば、争いを嗅ぎつけた冥王あたりが、消耗した彼に止めを刺しにやってくる。
 ──リスクのほうが大きい。生き残るために始めた戦いだ。
 ──逃げ回っててもどうにもならねぇ。だから攻めに出たんじゃねぇか。
 逡巡が招いた対応の遅れに、どれほどの意味があったのかはわからない。結果に差はなかったかもしれない。
 だとしても、迷ったことそれ自体に対する怒りは収まらない。その発露が、敵を呼び寄せるかもしれないとわかってはいたが……
 いかなる経緯によるものか、あらゆる影の消えうせた巨大なクレーター。その中心で、咆哮が天地を灼く。
 そして……うわべだけでも心を静め、冷静さを取り戻したガーヴは、再び結界の外へ戻り、どんな手段を使ってでも戦力の増強に努めるよう言い渡した。
 竜神官ヴァルガーヴ、ただ一人に。

 ──どうやら、ぼやぼやしてる暇はねぇ。オレはこれからエルフや竜、人間どもをどうにか利用するためにここに残る。当然、今まで以上に窮屈な思いをしなきゃならねぇ。他の連中ならともかく、今のお前にゃ都合が悪い。まだ完成しきってないからな、お前の能力は。
 ──すぐ呼ぶさ。お前の存在はまだ勘付かれてない。オレの奥の手……切り札だからな、お前は。
 ──そのために、あっちでもっと強くなれ。
 なんの役に立たなくとも、そこにいるだけで気分が和む、楽になる。そういうこともあるのだとヴァルガーヴは学んでいた。もう充分強いはずだ、との思いもある。
 側にいたかった。離れるのは怖かった。それでも。
「わかり……ました」
 逆らえる訳がなかった。
 自身が抱える滅ぼされた仲間の遺恨、虐殺者への憎悪が消えたわけではない。
 だがそれにもまして、主の役に立つために。彼の力になるために。
 そのためだけに、今ヴァルガーヴは存在しているのだから。
 存在の理由(レーゾン・デートル)。仕える為に生み出された、真正の魔族以上に強い──呪縛。
「ガーヴ様……
 どうかご無事で」
「阿呆。そりゃこっちのセリフだ」
 不敵な笑みに背を向けて、ヴァルガーヴは地を蹴った。
 今更、持ち出すような物もない。仮宿としていた廃城に戻るつもりはなかった。漆黒の翼が空を裂き、みるみる大地が遠ざかる。
 それが永の別れになることを、予知しうるはずもなく。
あの方が望んだことは、すべてこの手で叶えてみせる。
あの方が願った世界を、必ず実現させてやる。

たとえどんなに傷ついても。
永遠の時が流れても。

俺はあなたの──忠実な部下なのだから。
 カタート山脈を軸に据え、魔族が張った巨大な結界。その一角が崩れた今も、中に暮らす人間たちは外に広がる大地を知らず、存在さえも半ば忘れかけている。
 そのどこかに──
 崩れかけた城があり、外壁に面した一室で、しまい忘れた一枚の皿が床の上に置いてある。

 ただ、それだけの話。
おまけ。(朽葉ハマチさんから頂きました)
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