私の家族は7人でした。私とかみさん。子供が3人。そして、私の両親でした。。
もっと以前は双方の祖父母がいました。現在は子供達には伴侶が出来ています。
そして、次の世代も誕生してきました。
次男のところに初孫が出来ました。男の子です。
次に長男のところに男の子が生まれました。
そして長女のところに女の子が誕生しました。
そして次男のところに2番目の男の子が生まれました。
現在は総勢11人になっています。
両親は藤沢よりも主に四国の松山市三津
で生活していました。
暖かくて、とても便利で生活しやすいところです。夏は花火も見えました。
彼らの学生時代、大学に入る前の時代を過ごしたところで、とても懐かしんでいました。
私も松山には暫く住んでいました。石手4丁目のグランドハイツにいました。
松山に居たり、山に帰ったり、藤沢に帰ったりしていました。
平成20年2月、父が心筋梗塞をやりました。
心カテもしないで無事に回復・退院しました。松山の日赤病院循環器科でお世話になりました。
その後も元気でいたのですが、平成22年9月末に山から松山に帰ってのち倒れました。
道後の奥島病院に救急入院。10月の連休に私と次男が道後で落ち合って
寝台タクシーをチャーターして酸素吸入・点滴をしながら藤沢市の山内病院まで搬送しました。
山内病院では内堀先生にお世話になりました。
ほぼ回復して退院し、山内病院にバックアップして戴きながら私の家で過ごしました。
そして2年後、平成23年8月28日朝8時55分、私に「死ぬるよ」と言い残して静かに逝きました。
翌平成24年にお墓を建てて納骨しました。
平成25年7月の連休に母と一緒に祖父の33回忌、父の3回忌をしてきました。
その母も平成27年12月27日眠ったまま息を引き取りました。
恥ずかしながら医師である私がまったく予期できない逝き方でした。
いよいよ次は、順番から言えば私の番です。
悔いのない生き方をと心懸けております。
長女は白百合女子大学を卒業して駒沢大学付属高校の英語の先生を4年間やりました。
平成15年8月に同じ高校の先生と結婚しました。
私は生まれて初めてバージンロードを歩かせてもらいました。これは大感激でした。
お婿さん今後ともよろしくお願いいたします。長女は大学時代ダンス部でしたので結婚式にはダンスをしなければならないかと思い、密かにカミサンと習いに行っていましたがその出番はありませんでした。ホッとしました。
高校に勤務していたときは松陰神社に住んでいましたのでその頃には何かあると世田谷区医師会の神津先生に大変お世話になりました。その後暫く藤が岡に住んでいました。また私立高校で英語教師の仕事を始めました。その後公立学校の先生になりました。御主人は駒沢大学付属高校の国語の先生でした。お二人とも忙しくて滅多にお会いできませんでした。子供はなかなか作らなかったのですが、平成24年5月に女の子を出産しました。
とても喜んでいたのですが、御主人が平成25年4月1日にお腹が痛いということで、翌4月2日に私が拝見しました。腹部痛とその時に持参された直近の職場検診のデーターが問題でした。CEAが55となっていました。
すぐに針金先生に受診して頂きました。ここの超音波の先生はとても優秀です。膵頭部癌が見つかり、すぐに保健医療センターにてCTを撮り、栄共済病院へ。この時既に総胆管閉塞が始まっており、間髪を入れずにステントを設置しました。これが大変上手く行き、御陰で一旦は改善したのですが、その後の抗癌剤治療に反応が良くありませんでした。横浜市大、栄共済病院を経て徐々に末期状態となり、クローバーホスピタルの鈴木先生にお願いしてターミナルケアとしました。とても残念なことでしたが平成25年8月31日午後10時50分、51歳の若さで鬼籍に入られました。1歳3ヶ月の娘を残してのなんとも切ない旅立ちでした。謹んで御冥福をお祈り致します。
残された長女と孫の行く末を見守って行く大仕事を託されました。
これは大変なことですが、なんとか頑張るしかありません。
2番目の長男は慈恵医大を卒業して第三病院のリハビリ科に入りました。暫く狛江に住んでいました。こちらも忙しいようで滅多に会えませんでした。研修医も終わり、リハビリ専門医も取得しました。関東逓信病院に勤務したあとまた狛江の第三病院に戻って代々木上原に住んでいました。その後多摩に住んで、天本病院と湘南台病院に勤務しました。良いお相手に巡り会えて、平成21年8月に結婚しました。お相手は奈穂さんです。とても素敵な人です。新潟の御出身で、私たちも新潟に御挨拶に行ってきました。御両親、お祖父ちゃん、お兄さんとそのお嫁さんにお会いしてきました。とても暖かい御家族で素晴らしいと思いました。菜穂さん、今後ともよろしくお願い致します。その後暫くはるひ野に住んでいました。当時は第三病院に勤めていました。その後は私どものすぐ近くに住んで湘南病院の精神科に勤めていました。いよいよ後継準備です。彼には彼の計画があるようです。楽しみにしています。菜穂さんは男の子を育てながら私どものクリニックで仕事を始めました。これも後継準備の一環です。
長男も平成26年4月から鶴井医院の外来診療を一緒に始めてくれました。
その後3年の準備期間を経て、精神科の専門医も取り、平成29年1月6日、「鵠沼メンタルクリニック」を開設してあとを継いでくれました。有り難いことで、ホッと致しています。これで私も大仕事を終え、肩の荷を下ろしました。
これは二人でバリに行って来た時の写真です。ほとんど結婚写真のようですので、
お二人の了解を得た上でアップします。なかなか綺麗に撮れています。
上記の通り、私どもの長男は慈恵医大を卒業後リハビリを学び、
湘南病院で精神科も学んで、とうとうここを継いでくれる。と嬉しいことになりました。
菜穂さんは男の子を出産しました。東日本の大震災直後のことでした。
平成29年1月から二人で「鵠沼メンタルクリニック」をオープンさせました。
張り切って仕事に取り組んでいます。
私も今暫くはお手伝いを致します。同時に日本赤十字社の仕事を少しやらせて戴いています。
これは医師会からの斡旋で始めたのですが、とても真面目な、必要欠くべからざる仕事です。
私ももう少し事業継承完結のために頑張りたいと思っています。
3番目の次男も慈恵医大に入学して代々木上原に住んでいました。剣道部に入っていました。こちらも忙しいようで滅多に家には帰ってきませんでした。しきりに馬に乗りたがっていました。とうとう剣道部をやめて馬に乗りはじめましたが学業が忙しくて思うように行かなかったようです。
学生時代の後半は救急医療に情熱を燃やしていました。学生時代の自由さを武器に主にアメリカですが、
最大限に飛び回っていました。どうやらその頃から結婚も視野に入っていたようです。
見ている方はハラハラしていましたが、若さを謳歌している姿は素晴らしいものでした。
平成19年の春、とうとう結婚しました。お相手は素晴らしい女医さんです。卒業と同時に入籍しました。
ハワイで二人だけの結婚式を挙げてきました。おめでとう御座います。
お嫁さんも一緒に卒業ですので、二人ともこれからですね。お二人とも京都で研修医生活に入りました。息子は音羽病院に、奥さんは宇治徳州会病院に勤務して前期研修をしました。その後は九州の病院に二人で勤務することになりました。とても仲の良いお二人なのでこちらもホッとしています。
お嫁さん今後ともよろしくお願いいたします。
京都の病院で研修をし、一時は福岡まで行っていましたが、今は再び京都に落ち着いています。
彼は総合内科を、奥さんは外科を学んでいます。こちらの方が一足早く御懐妊されました。
平成22年の10月初孫に会えることになりました。
今は二人とも京都に住んで、京都岡本記念病院、宇治徳州会病院に勤務しています。
こちらは2人目の男の子が平成25年9月に産声を上げました。
桂川の大洪水の二日前のことでした。
彼は最近本を出しています。とてもよく勉強しているようで、頼もしい限りです。
京都でも暫くは馬にも乗っていたようですが、最近はボルタリングに嵌っているようです。
お二人とも人生を楽しんで、充実させているようです。
私共も次の時代に入って行きそうです。
なんとか無事平穏に行くよう祈っています。
皆が元気で居てくれることが我々の望みであり、楽しみです。
私も時々学生時代や研修時代のことを思い出しますが、大変でした。いまだに試験の夢を見ます。
馬術は私もまた再開したいと狙っています。が、こちらも何かと忙しく、未だ暫くは難しいようです。
従って、暫くは、私とかみさんと2人暮らしになっています。
最早卒婚で、二人とも勝手なことをしています。
在りし日の父と母です。
旅行と車が好きで、世界中を飛び回っていました。こちらにもよく滞在しました。二人とも医者ですが、
スッキリとリタイアして、その後は愛媛県の 柳谷村(郷里です)
で
遊んでいました。
その後暫くは二人とも年を取りましたので、主に藤沢で、我々と同居していました。
今は父も母も逝ってしまいましたので、仏壇だけが私どもと同居しています。
この写真は横谷山
です。家の前面に見えます。
両親は以前はこちらも手伝ってくれていました。
主に森田療法の作業指導をしてくれていました。
特に、剣道と一刀流の形稽古の指導をしてくれていました。ダンスもやりました。
流石にベテランです。巧いもんでした。
その後剣道と一刀流の稽古、ダンスは出来なくなりました。毎日夫婦で囲碁と写経をやっていました。
一時は両親、我々夫婦で時々ゴルフに行ったり、麻雀をしていました。
主に本厚木、時に大相模や茅ヶ崎カントリークラブなどです。
みんな下手ですが、結構楽しんでいました。
この年になってやっと生活を楽しめるようになってきたみたいです。
平成22年9月まで、両親はもっぱら松山を拠点にして生活していました。
平成20年2月父が心筋梗塞をおこしました。すぐに河野内科医院を経て松山日赤病院に入院しました。主治医の先生にとてもお世話になりました。心カテもやらずに退院して、そのまま三津のマンションで暮らしていました。どうやら一山乗り越えたようで、その後は元気にしていました。でも、齢87歳になり、糖尿病もあり、腎機能もだんだん低下して貧血も出てきていました。矢張り心配でしたので、ちょくちょく松山に帰っていました。
平成22年9月体調を崩して道後の奥島病院に緊急入院しました。一時は生死の境を彷徨いましたが、この時に九州から次男の勝繁君が駆けつけてくれて、その場で藤沢に担送することを決断しました。
素晴らしい。吃驚しました。もう彼らの時代です。
10月の連休を利用して勝繁先生と私とで松山から介護タクシーをチャーターして藤沢まで、点滴と酸素吸入をしながら15時間かけて連れてきました。事前に近くの山内病院にお願いしておいて、内堀先生にお世話になることにしていました。朝の4時に山内病院について、無事入院となりました。その後はなんとか回復して、無事に88歳の誕生日を迎え、退院して、一時は長男の敏晄先生の勤務先でした天本病院でリハビリもして、退院。
藤沢の自宅に帰りました。
なんとか平成21年も終え、年も越して、冬も越え、暑い夏を迎えました。この時倒れて一年目でした。
なんとこの年には3回ほどプールにも入り、そのうち1回はちゃんと泳ぎました。
そして2回目の冬も越え、夏を迎え、平成23年8月28日朝8時55分、自宅で静かに息を引き取りました。90歳を目前にしての旅立ちでした。
そして平成27年12月のことです。88歳を過ぎた母が旅立ちました。
この間いろいろな方々にお世話になりました。本当に感謝しています。
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