認知症になっても幸せ 

                                       〜私たち家族の6年間を振り返って〜

 

T認知症を正しく知ってください

 認知症も病気の1つなのに、なぜ多くの家族は積極的に治療を考えないのでしょうか。認知症と宣告されただけで匙を投げるのでしょうか。もし癌と診断されたら、何も治療せずにあきらめますか?認知症だけ例外なのはおかしいと思いませんか?

  受診の段階までに、家族は十分に苦しみ疲れているので、宣告=終わり、と考えるのもわからないではありません。しかし、認知症くらい様々なイメージが一人歩きして、正しく理解されていない病気はないように思います。正しく認知できないのは患者だけではない、と言いたくなります。そんなことでは、高齢化が加速し、認知症患者も増加の一途を迎える今、あまりに情けないし、損失です。もし自分が将来患者になったとしたら、誰でも、正しく理解され、正しく治療や介護を受けたいですよね。

 地震学者の今村明恒氏が「地震はなくせないが、震災はなくせる」の信念で啓蒙活動されたように、今現在、認知症の完治は無理だとしても、症状の改善は十分可能で、それにより、患者本人も家族も、かなり穏やかで普通に近い生活を取り戻せることを知って欲しいです。

 多くの人が正しい認識を持てば、ボケて何もわからないからかえって幸せ、などと都合の良い解釈をして、尊厳を傷つけても平気でいるような過ちも無くせるはずです。人間は生きている限り人間以外の何者でもありません。尊厳を損ねられたら怒るし、悲しいです。暖かな言葉や態度に接したら嬉しいし、安心します。一方的に命令されたら、反発します。何も認知症患者だけの問題ではありません。患者がされたらイヤな事は、私たちすべての人間にとって共通なのです。

 6年前、同居の家族が匙を投げる寸前の、まさに暴風雨の渦中にいたような母が、今では「長生きして良かった、自分は幸せだ。」と笑顔で語るのです。あのとき何もせずあきらめていたら、絶対に見られなかった母の姿です。鶴井医院の高岸先生はじめ、多くの介護の専門家の方達のお蔭で、今では母が認知症になって良かったとさえ思えるのも、何だか不思議です。私たちのたどった6年が、苦しんでおられる患者や家族の方々の何かのお役に立てれば、この上なく嬉しいことです。

 

U母の近況について

  昨年米寿を迎えた母は、一年半前から、特別養護老人ホームかりんに入所し、お世話になっています。 アルツハイマー型認知症と診断され、奇跡的に介護度3を数年間維持しています。幾つかの内蔵疾患はあるものの比較的軽度で、目下の問題はメタボです。腰椎症に加え、圧迫骨折を繰り返しているのですが、高岸先生のアドバイスで鍼灸治療も受診し、鎌倉のハンドアンドサム治療院の花田先生はじめスタッフの往診をお願いしています。また、かりんの職員の皆様の暖かなご配慮を頂いて、再び短期間で手引きは必要なものの自力歩行できるようになりました。太めになってしまった母が帰宅可能なのも、歩けるからこそで、高岸先生のアドバイスがなかったら、今頃どうなっていたことか。また、年中無休でいつでも往診をお願いでき、なおかつ認知症にも理解がある治療院があったからこそです。鍼灸治療は老人にはありがたい選択肢で、歩行はできても腰が曲がったり、無理ながんばりをしている体には、何よりの喜びとなっているようです。母は、治療の後は満面の笑みで、「楽になった。」を繰り返しています。まさに生活の質の向上が図れているのです。そして、自力歩行ができることは介護の負担の軽減にもなっています。

 かりんに入所させていただくことが決まった際にも、定期的な外泊を願い出て、母の精神状態が安定するよう協力をお願いしました。最初の一年間は、できる限り週一泊二日のペースで我が家に外泊させ、食事や会話を一緒に楽しみ、自宅とかりんを往復して生活していると思わせるようにしました。言葉かけひとつにも色々配慮して協力してくださった職員の方々には本当に頭が下がります。お蔭で、入所後もあまり強い不安を持たずに、新しい生活に順応できたのではないかと思います。やっと安定して穏やかになった母の精神状態をできるだけ維持したい、という私たちの願いを汲み取って、協力していただけたからこそできることです。この頃はむしろ老人同士の安心感があるのか、かりんでの生活を楽しんでいるようで、「家があちこちにあっていいね。」とまで言うのを聞いて、ほっとしています。何歳になっても色々な人との関わりを持ち、楽しく過ごせるよう頑張るという意欲を失わずにいることに、感服します。そんな母の後押しをして、入所したら終わりではなく、できることは支え合って、母の最後の時間を少しでも充実させてやりたいと、最近だいぶくたびれてきた体にムチを打ってがんばっています。本当に、介護は一人ではできません。

 かりんに入所させていただく際に、医療機関はかりんの提携病院に移行しましたが、認知症に関しては、引き続き高岸先生に主治医をお願いしたいという申し出を、こころよく双方で了承していただけたことは、とてもありがたいことでした。高岸先生には定期的に母の症状をお伝えして薬を調節していただいております。色々ご相談したり、時には母の楽しいエピソードをお伝えして笑いあえることも、ほっとする時間です。高岸先生の価値観が、私の共感できるものばかりなのが、何より迷わずこれた理由かもしれません。

 かりんの看護師さん達も、手間は掛かるのに協力してくださり、投薬量などのアドバイスがあると高岸先生にお伝えし、症状の改善を図れたこともあります。母を大切に思う家族の姿勢がある限り、それは周囲にも伝わり、自ずと良い連鎖が広がるような気がします。

 9月にかりんで敬老会があり、家族も参加させていただきましたが、米寿を代表して母が感謝の言葉を述べたのです。何が何だかわからないながら、背筋を伸ばしてマイクで御礼を言う母の姿にジンとしてしまいました。 お祝いにと、母がお世話になっている階の職員の方達が、色紙に寄せ書きを書いてくださいました。そこには「いつも朗らかで、やさしい言葉を周囲にかけてくれてありがとう」とありました。私が母に読んで聞かせ、母も自分で声に出して幾つか読みました。母は「お世辞よ。」と謙遜していましたが、「本当かね?だったら嬉しいね。」と顔がほころびました。認知症が進み、羞恥心が薄らいで、気弱で引っ込み思案の母が姿を消し、代わりに、明るく話し好きで元気な母が現れたのを、驚きながら見ています。入所の際に、今までの経過から、孤独を何より恐れているので、できるだけ声かけをという私の願いを、お忙しいなかでも、職員の皆さんが様々に心がけてくださったお蔭です。少しでも入居者が居心地良く生活できるように、という優しいお気持ちが、随所に伺えます。職員の方々の笑顔やちょっとした声かけに、おそらく多くの家族も励まされているでしょう。

 こんな話も聞きました。入所間もない不安からか、お経が聞こえると幻聴を訴える入所者の方に、母が、「ナンマイダではなく、大丈夫、大丈夫と言っているのよ。」と励ましたのだそうです。これには職員の方達も感心され、その励まし方を真似されたとか。また、帰宅願望を訴える方がいると、母の出番で、色々話をしては慰めるのだそうです。自分も時々帰宅願望を漏らすのに、です。何だか、母が別人に生まれ変わったようで、狐につままれた気分です。

  我が家に帰宅した時も、母は、私たちと冗談を言ったり、時には教訓を垂れたり、笑顔が絶えることがありません。私たちも、楽しい話題ばかりを心がけます。夫も母に優しく接してくれることが何よりありがたく、夕食時に二人で楽しげにお酒を飲んでいる様子は、幸せそのものです。こんなに楽しそうに家族の中心にいる母を、今まで見たことがありません。母は認知症の進行により、まるで、さなぎから蝶になっていくような不思議な変化を見せており、驚きの連続です。 朗らかで優しく積極的に人に声をかける母。皆良い人達ばかりと語る母。私を「こんな良い娘がいたんだね。」と褒めてくれる母。他人への感謝を惜しまない母。争いほどつまらないことはないと嫌う母。これこそ、私たちが求めてやまなかった、かつてとは全く正反対の母の姿なのです。アルツハイマー型認知症と診断されて6年以上経過し、残念ながら生活能力は年々低下しています。それでもまだこんな力が残っているのです。というより、母が本来持っていた良いものだけが残り、ずっと求めていた家族との団らんを、こんな形で手に入れられたのですから、人生捨てたものではありません。これも高岸先生はじめ介護の専門家の方々のアドバイスや支援の賜です。助け、導いていただけたからこそ、家族共々たどり着けた現在だと、心から思っています。

 かりんでの心暖まる敬老会を終えて、翌日は、我が家で妹夫婦も交えて内輪の敬老会をしました。皆でお寿司をつまみながら談笑する穏やかな時間が流れ、こんな日が来たのだ、としみじみ感慨深く思いました。

 

V母の発症と私たちの対処

 母は地方の大地主の分家に生まれ、封建的身分意識の強い土地柄から、外聞をとても気にする人でした。兄弟と比較して劣等感を抱え、父母の命令には逆らうことができず、溜まった不満を発散する方法もわからなかったのでしょう。結婚後も、戦中戦後の苦労の連続と環境の激変に翻弄されて、穏やかで内気な一面とともに、しだいに感情の抑制が効かないところも出るようになりました。何かの拍子に自分を抑えきれず、爆発するのです。友人達が知っている、おしゃれできれいな優しい母と、時々怒りを爆発させてコントロールの効かなくなった母とのギャップは、つらいものでした。歳を経る毎にその傾向が強まり、十年前に父が亡くなってからは特にひどくなって、同居していた妹夫婦との仲は悪くなる一方で、いつしか会話もなくなっていました。自分からは会話に加われない母は、おそらく疎外感を抱いたまま殻に閉じこもっていったのでしょうし、妹夫婦もまた、そんな母とどう対応したらよいのか途方に暮れていたのでしょう。一番母の理解者たろうとしていた私とまで、ついに絶交状態になり、孤立無援のまま怒りの嵐が吹き荒れていた母が、ある時、全くの偶然から我が家にSOSの電話をかけてきたのです。あまりに変わっていた母の様子に愕然とし、あの手この手で説得して、ようやく高岸先生の診断を仰いだ時には、発症からかなり経っていたようです。今から振り返ると、60代頃から訴えていた鬱症状は、認知症の始まりだったのかもしれません。そして、何とも不思議なのですが、母が認知症と診断されて、何故かほっとしたのです。精神異常ではなく、認知症による異常な言動だったのだとわかって、母とのいままでの軋轢のすべてが氷解しました。認知症とは知らずに母を放っておいた後悔もありましたし。

  認知症に伴う親の人格崩壊に悲しむ人が多いと聞きますが、私の場合は少し逆かもしれません。それが、かえって認知症を積極的に受け入れられた要因の一つかもしれません。

  しかし、最初は試行錯誤の連続で、いくら病気の特質だとわかっていても、心が萎みました。時には何故こんな事がわからないのと、こちらも感情が高ぶることはありましたし、お説教をしてわからせようとしたこともあります。相変わらずの悪口や怒りも聞いていてつらいことの一つでした。認知症の初期は、本人もかなりしっかりしているし、それでいて正しい判断力はやはりブレてるので、どのような対応をしたらよいのか本当に苦しみました。本人も知らないうちにプライドを傷つけられるのでしょうか、被害意識も強烈で、それが怒りを更に増すのでしょう。この時期はありとあらゆる事に振り回され、認知症が引き起こす事例を、一つ一つ身を以て知った時期でした。

 例えば、母の不自然な大量の買い物にも困りました。通販で契約した商品の山に危険を感じて、手がかりを探してはこっそり解約を申し出ましたが、会社による対応の違いを痛感しました。認知症である旨を告げると、謝罪とお見舞いを言ってくださる担当者もおられる一方、うすうすわかって利用したとしか思えない担当者もいました。健康食品や化粧品の山から、母の悩みや希望を垣間見たようにも思いました。日本全国何カ所とやりとりしたことか、結構気骨の折れる仕事でした。異常な買い物は、家族や周辺が周知して対応しなければならないことの一つだと思います。振り込め詐欺とは違いますが、被害も大きいです。

 日々の出来事としては、お総菜など同じ物を山のように毎日買うので注意すると、自室の冷蔵庫に隠して忘れてしまうのです。しばしば賞味期限の切れた食品をごっそり捨てたものです。今になれば、何故毎日同じ物を買うのかわかりますが、当時は、せめて違う物を買ってくれたら良いのにと思ったものです。気持ちは現役主婦なので、買い物を禁止しようとすることじたい無理なのですね。

 サイズの合わない下着を買って来るので、「どこで買ったの?」と聞くと、ずっと昔に廃業した商店で買ったというのです。こんな風に、毎日何かしら騒動の連続でした。買い物もできなくなった今は、そんな力がまだあったのだと懐かしく思えるのですが、当時は本当に困り果てました。

 モノを無くしたといっては一日中探し回ったり、警察や銀行などにも何度となく紛失届けを出してはお世話になりました。スーパーでちゃんとお金を払えているのかも気がかりでした。財布を無くすのは日常茶飯事で、「盗られた」と家族を疑わないのは助かりましたが、捜し物の手伝い要請も増える一方でした。テレビのリモコンすら自分では探せなくなりました。本人も1日が捜し物で疲れ果てるとこぼしていました。

 デイサービス用に、新しい軽いバックを用意しても、大事にしていた大好きなバッグだからと古いバックに頑強にこだわりました。長い間しまったまま忘れていたはずなのに、一度記憶が蘇ると、母には買った時の思いが詰まった新品に映るのでしょう。デイサービスには必ず持って行きました。このようなこだわりと混乱が、老人が物を捨てない理由の一つなのでしょうか。後年、母には内緒で不必要な衣類などを処分したときには、大型のゴミ袋10数個でした。

 失禁などで汚れた下着を色々な所に隠すようにもなりました。失禁用の下着を用意したりあれこれ助け船を出すのですが、羞恥心が残っているので、非常に対応が難しいことの一つでした。しかし、いよいよ紙おむつを使わなくてはならなくなった時には、結構上手に転換できました。今までの下着を全部処分してしまい、「これが流行の便利な下着よ。」と有無を言わさず押し切ったら、仕方なくかもしれませんが、案外あっさり受け入れてくれました。この頃になると、何となく少しコツがわかりかけてきました。

 日常必要な下着や衣類をわかりやすいようにタンスに工夫して入れ、ここにあるからねと教えても、何故か全部入れ替えてぐちゃぐちゃになるのが常でした。タンスの中だから探せないならと、見えるような収納を工夫しても、同じでした。元々おしれな母でしたから、コーディネートしているつもりだった気配もありますが、しだいにそれもおかしくなりました。私が注意すると口ではわかったと言い、会話もほぼ完璧なのですが、その場だけです。記憶が残らないのですから無理ないのです。だんだん物事の理非がわからなくなる時期は、ブラウン管テレビが時々接触不良で写りが悪くなるのに似ていて、はっきりしている時とそうでない時が気まぐれに現れます。

 そんな時期にとても心強かったのが、娘のアドバイスと機転でした。気分転換にと連れ出した、旅先で、ブランド物の高価なハンドバッグを買わされたと怒り出した母と、帰宅するなりひどい口論になりました。自分で欲しいと言ったのにと、説得を繰り返す私を見とがめた娘が、助け船を出してくれました。「おばあちゃんは何も悪くないよ。」と、母の怒りを丸ごと数時間も辛抱強く受け止め、最後には私を謝らせて、もめ事を収めるきっかけを作ってくれたのです。娘は教師をしているのですが、「仕事で生徒のカウンセリングをしていると思えば冷静になれるでしょ。それに、生徒だったら何度同じ質問をされても、笑顔で優しく答えられるでしょ。」とも言い、同じく教師でもある私はとても納得できました。つまり親子の感情論に陥っては泥沼にはまってしまうこと、プロ意識というか、第三者的な距離を置いて見ることで、冷静に対処できる術を悟ったのです。

 認知症の特徴の1つに、直前の出来事を忘れて、同じ話を繰り返すということもあります。かなりうっとうしい現象です。例えば、母は娘の帰宅時に何度も「お帰りなさい。」と言うのです。その時「さっきも言ったでしょ。」と傷つけたり、バカにする代わりに、娘は、何度でも「ただいま。」と答えます。お帰りと言うことで孫とのコミュニケーションを取りたいのだと、母の気持ちに気づけば、笑顔で応じれば良いのです。関心のあることだから何度も繰り返すのです。他のことも同じ要領だとわかってしまえば、案外簡単に対処できるようになりました。

 事実を話すことでかえって傷つけると思えるときは、間違いのままにしておいてあげる優しさも大切だということも気付くようになりました。忍耐強く我慢して聞くばかりではなく、どんな気持ちで同じ事を繰り返すのかを理解しようとすることで、優しい気持ちを取り戻せるのです。とはいえ、話を打ち切りたい時もあるし、険悪な雰囲気が生まれそうな時もあります。そういう時は、話題をさっと転じます。否定や非難は一切しないこと。「そうだね。」と相づちを打ち、すべてを肯定してやることで落ち着きます。正しいか正しくないかは問題外です。認知症の母を変えることはできない、その当たり前の事を肝に銘じて、自分が変わるというか、対応を変えるしかないのです。これは基本中の基本で、時に迷ったり逸脱しても、基本に戻れるよう自分でも努力しました。

それでも仕事で消耗して、どうしてもおばあちゃんにつきあう余裕がないと自覚した時、娘は自室に逃げます。私は、母を気持ち良くかりんに送り届けた帰りに、自分のためにスイーツや洋服を買ったり、自分へのご褒美を用意します。

 この対応のコツを会得することは、とても大切だと思うのですが、他の方に話してもなかなかできない、と言われてしまいます。衝突してイライラするくらいなら、対処法を会得する方が、ずっとお互いにプラスだと思うのですが、多忙な現役世代にはとても難しいのです。ましてや、介護も仕事も家事も何もかも一手に引き受けざるを得ない立場にある人は、疲れ切っている自分の方こそ労って欲しいと思っているから、理性的に相手の立場になるどころではないでしょう。こういう時に、誰かから足りないところを非難されたらキレてしまいますよね。夫でも、子供でも、友人でも、とにかく介護者の苦労を労り支えてくれる誰かがいて、「良くがんばっているね。」と、認めてくれるだけでも、気持ちが休まり、冷静さを取り戻せたり、良い対処法を学ぶ余裕も生まれる思うのです。そこが、介護は一人ではできないということに繋がり、家族だけでなく専門家の手助けが必要になってくるのだと思います。幸いにも私は家族の理解に恵まれ、また夫がリタイアした直後で、協力してもらいやすい状況にもあったことで助けられました。

 そして何より、完璧を期そうとしないこと、また求めないこと、良い意味でのいい加減さ《良い加減さ》も大事な要素でしょう。できる日もあれば、できない日もあっても悩まないし、責めない。自分も、家族も、誰も。自分の大まかなところもある性格を、欠点だと思っていましたが、介護に関しては長所でした!?

 介護者のつらいことの一つに、第三者が、介護者を支えるどころか非難することがあります。私はこうしたのにという比較論も、立場や事情の違いを理解しない、胸に突き刺さるトゲの一つです。至らぬところばかり指摘して、労力は貸さないことも、徒労感を一挙にふくれあがらせます。また、わかったような聞きかじりを言い、それがどれほど家族の心を傷つける内容かも深く考えません。まさに、患者本人にも、介護者にも共通に必要なのが、否定や非難ではなく、ありのままに優しく労って受け入れてもらう事ではないのでしょうか。まさに人間性の問われる根源です。

  認知症介護の先輩が同僚にいて、色々話を聞かせてもらいました。経験や情報を伝え合うこと、困っていることを聞いてもらうこと、とにかく何でも口にできる誰かがいることは、気持ちを切り替えたり、知恵を学ぶのに有効です。だから患者の家族会のような存在が大切なのですね。大変なのは自分一人ではない、と知ることだけでもがんばる力がわいてきます。

  同僚は笑いながらこうも教えてくれました。「認知症はすべてが初めての体験だから、新鮮でいいのよ。」と。本当にそうで、母も、おいしい食べ物を口にしては、「こんなおいしい物生まれて初めて!」と言います。いつも食べてるのにと、私は内心で吹き出します。トイレで失敗すると、本人はおおいに落ち込んで、「恥ずかしいやら、悲しいやら。」と言いますが、幸いにも、すぐに忘れられます。失敗をする度に、母が、「こんなこと初めて。どうしちゃったんだろうね。」と言うのを聞くと、忘れられて良かったと安堵します。こんな事を引きずっていたら、打ちのめされてしまいますから、神様も味な計らいをされますね。

 自分たちも老境にさしかかっている私たちは、母の姿がまさに自分の未来なので、バカにしたり、怒ったりする気持ちは起こらないのです。どうしたら傷が浅くて済むかということの方が気がかりです。よく言われるように、人生の幕引きを、親に教えてもらっている気がします。

 同僚の話の中でとりわけ心に残ったことは、認知症の姑に尊敬の念を持ち続けていることでした。数十年の間にはどれほどつらいこともあったでしょうに、乗り越えて、自分たちの今の幸せの源を作ったのは、姑の賢明さにあるとまで言い切り、介護のコツをまた一つ教わったような思いでした。今は認知症で能力が衰えていたとしても、誰にもがんばってきた、かけがえのない人生があったことを忘れないことは、大切ですね。

 とにかく介護は始めが大変です。何もかも手探りで、うまくいかなくて、混乱や苛立ちも度々でした。忙しい時、疲れている時に限って色々事件が起こり、ウンザリします。まさに子育てと同じです。しかし、認知症とはどのような病気で、どのような症状を伴うのかなど、とにかく知ろうとアンテナを張り巡らせていると、徐々にですが、なるほどそういう理由であんなことをするのかと、わかってくることも増えました。行動や思考の理由が理解できると、対処法もわかるし、何より母を責める気持ちが消えて、庇ってあげたい、愛しいとさえ思えてくるようになりました。一番切なくつらいのは本人なのだと改めて気付きます。できないことを責めて不機嫌にさせるより、残された能力を引き出して褒めてあげる事の方が、双方うまくいくのです。これは、子供でも大人でも当たり前のことです。認知症だからどう接したらよいのかと考えている間は肩に力が入っていましたが、人間として当たり前に接すれば良いだけとわかったら、何も無理することはなくなりました。そういう意味でも、介護度1から2くらいの初期が、一番大変なつらい時期で、この時期を上手に乗り切れるよう、介護初心者にはたくさんの情報を伝えたり、助言したりの援助が、とりわけ必要だと思います。

 一方で、認知症は便利なところもあり、上手に嘘をついてその気にさせることができるのです。嘘も方便とはこのことだと、何度も思い、気がつくと、嘘つき名人になっていました!!

 互いに仕事を持つ私たち姉妹にとって、日中一人で母を在宅させる事は心配でしたし、母もまた、不安感を強めていきましたから、デイサービスを利用させたいのに、何だかんだと理屈をこねて、 行きたがらないのです。困り果てた私は、「色々なお稽古をしながら、友達ができるかもしれないよ。」と、母の願いを叶えてくれる良い所として宣伝したのです。友達もおらず、家に籠もって寂しいのを知っていたからです。すると次第に、「良い所を紹介してもらって嬉しい。」と出かけるようになり、「元気でがんばっているからやっと外の世界へ出られた。」と自慢するようにもなったのです。そんな時には、「歳を取ってもがんばって、立派だね。」と褒めそやしました。洋服を新しく買っては、お出かけ用にと喜ばせる演出もしました。もちろんすべてすんなりとはいかず、時間をかけながら行きつ戻りつでしたが、その度に何とか乗り越えていきました。 デイサービスのスタッフの皆さんも、本当にプロだと感心することばかりで、たくさん助けていただきました。かりん入所をお伝えしたら、「寂しくなります。」ともおっしゃっていただき、ここで過ごした母の数年間の幸せに感謝しました。

 デイサービスの利用は、一度ダメでも、時期や本人の希望に添った所か否かなどで急に変わりますので、あきらめないで、何度か色々な所を探してみるとよいと、経験上思います。

 いよいよ症状も進み、妹のストレスも限界に達しようとしていたので、ショートステイの利用を検討し始めた時には、「送迎付きの温泉のような所があるのよ。」と誘ってみました。職員の方がベテランで上手に誘導してくださったことが成功の秘訣でしたが、とにかく不安に陥らせないように、アイディアをひねり出しました。帰宅して感想を聞くと、「温泉にしてはサービスがまあまあ。」などと憎まれ口をたたいて笑わせてくれました。この嘘はその後もずっと続けました。

 この間に大変お世話になったのが、睦愛園のケアマネージャーの岸本さんでした。私たちの窮状を良く理解してくださり、適切な対策をアドバイスしてくださったこと、何よりゆったりと母の気持ちに寄り添った対応のし方など、お人柄とともに教わることばかりでした。今でも心から感謝しております。かりんに入所してからの担当となられた田村さんにも、とても良くしていただき、お二人とも介護経験をお持ちの女性ならではの暖かな配慮を感じ、嬉しかったです。良きケアマネージャーさんとの出会いもまた大切な宝です。

 ヘルパーさんへの依頼も、デイサービスへの送り出しから、夕方の迎えまで、多岐にわたり必要になり、色々工夫して協力して頂きました。毎日、母が無事にデイサービスに出掛けたか、帰宅したか、家族の帰宅までを安全に過ごしているか、やきもきしながら一つずつ確認しては、一喜一憂の毎日でした。小さなトラブルは、この時期ひっきりなしに起こりましたが。

  この間に役に立ったことの一つに携帯がありました。振り込め詐欺の心配から一般電話を使えないようにしたため、携帯を教えるしかなかったのです。簡単携帯の受信の仕方を必死で覚えさせました。母も私たちと話ができると安心だったのか、ぎりぎり最後まで電話を受けることができたのは幸いでした。まさに携帯が安否確認の命綱だったのです。

 こうして何年かやってきましたが、更に認知症が進み介護の必要度が増すと、介護保険上の制約もあり、ヘルパーさんに依存する生活も限界になりました。エアコンの電源を引き抜き、暑くても寒くてもそのまま。一人では食べたくないとおやつにも手をつけず、妹の帰宅が遅いと不安や空腹から怒り出しました。何度話しても忘れるので、定時に帰れない日は、置き去りにされた不安が怒りを爆発させてしまうのです。生活を制約され、自由が無くなった妹も限界でした。何かある毎に実家に駆けつける日々は、私達も疲労困憊の連続で、自宅と我が家を行き来する生活だったのを、私が全面的に母を引き取るしかないと覚悟を決めました。

 そんな時に、もともと腰痛の持病のある母に、アクシデントが襲いました。大型ゴミとして玄関先に置いたマッサージチェアを見咎めた母が、何と一人で自室に運び込んで、圧迫骨折を起こして動けなくなってしまったのです。何十キロもあるものをどうして一人で運べたのかは謎ですが、入院は数日が限度でした。帰宅させたものの、目を離したすきに床に転んだりすると、体重の重くなった母をどうにも起こせなくて、私まで腰痛になり、仕事にも生活にも支障が出るようになってしまいました。仕事の時間なのに、まだ転がったままの母を抱えて、呆然としたこともありましたし、デイサービスもショートステイも利用できなくなってしまいました。この頃の事を振り返ると、睡眠時間も僅かで、仕事との両立がよくできたと、綱渡りの日々を感慨深く思い返します。

 そしてとうとう、岸本さんにご相談して、特養への申し込みを決意するようになったのです。その後、思いがけずかりんへ入所が決まった時には、これで少し自分たちの時間がもてると安堵したのも本当なら、まだまだ自宅で面倒を見てやれるのにと、申し訳ない気持で躊躇したのも本当です。しかし、老老介護の典型である私たちが、どちらか一方でも倒れたら共倒れは目に見えています。色々相談に乗っていただいた岸本さんのアドバイスも的確なもので、迷う心の後押しをしてくださいました。かりんの相談員で、入所の窓口になってくださった江口さんは、そのあたりの家族の心のヒダを本当に良く理解されていて、こういう方のおられる施設ならと安心しました。江口さんには入所後も本当に助けられております。

  母が入所できたお蔭で、私たちの生活にも少しゆとりが生まれ、時に長期の旅行に出かけたり、食事に出かけたり、友人との約束もできるようになりました。今までずっと母のために協力してくれた夫にも、少しは自由な時間が生まれて、心から良かったと感謝しています。私たちが母の幸せを心から願って色々してやれるのも、かりんに入所でき、介護を担って頂けたことで、私たちの負担が限定的になれたからです。家族がしてやれる一番の事は、暖かい心で接することだと言いますが、家族が介護の負担に押しつぶされるようでは不可能です。母の笑顔が続くためには、こちらも笑顔で暮らせることが必要です。私たちは、多くの幸せな出会いのお蔭で、それらが実現できました。まだまだ多くの方が介護の負担で苦しんでおられる現状を考えると、申し訳なく思います。しかし一方で、家族で介護のすべてを担う事こそが親孝行と考える方もおられます。夫婦や家族間で意見が異なり、大変な思いをしながら苦労を一人で背負っておられる方もおられます。

 高齢化社会を迎えるに当たり、介護のありように柔軟に対処できる環境の整備は、是非とも実現して欲しい切実なことですし、また、私たちの介護に対する意識にも柔軟な変革が必要だと思います。

 

 V  認知症の治療について

  高岸先生のご紹介で、当初からレミニールを取り寄せて服用していましたが、これが母にはとても効果があり、症状の進行を抑えてくれたように思います。その他の、怒りっぽいとか、攻撃的だとか、夜の眠りが悪いとか、そのような症状は、別の処方薬により、こちらも潮が引くように改善されていきました。夜も睡眠導入剤の助けもあり、一度寝付くとたいてい朝までぐっすりです。だから家族はとても楽で、普通の生活が維持できています。現在は、レミニールもメマンチン(メマリー)も保険適用になりましたから、是非とも多くの方が、これらの服用により、穏やかな生活と眠りを取り戻せることを願っています。特有の困った症状の改善は可能なのですから、あきらめないでください。失われた機能を責めて怒っても、治るわけではないのですから、残っている機能を引き出し、少しでも不安を取り除き、穏やかな心を取り戻してやること。笑顔で接して、笑顔を引き出す。これが結果として、一番楽なやり方のように思います。そのためにも、良い専門医や介護の専門家との出会いと支援が、患者にも家族にも何より大切です。

 腰痛や脚の悪いことも影響しているかもしれませんが、母は今まで徘徊をしたことがありません。娘の私が混乱してわからなくなる時もあったり、自分の親や夫の死を忘れたりすることもある母ですが、今が幸せと思えるから、徘徊をしないのではと、楽観的過ぎるかもしれませんが、そんなふうにも思います。かりんの入所者の女性が、やはり、「今が一番幸せ。」と車椅子ながらおっしゃっていました。皆さん穏やかな表情で、同じ階には徘徊している方は見受けられません。電動車椅子を自在に操る、老暴走族らしきおじいさまはお見受けしましたが。

 物忘れが認知症の典型的な症状と言われ、母ももちろんそうなのですが、すべて忘れたりわからなくなるわけではありません。昔のことはしっかり覚えています。文字や数字もかなりわかり、びっくりします。新しいことも、すべて忘れるのではなく、心に強く残ったようなことはいくらかは覚えています。たとえ思い出せなくても、その時その時を楽しく笑顔で過ごせたなら、それで十分です。我が家の玄関を入ると、「ああ帰ってきた、ただいま。」と懐かしそうに部屋を見回しています。それでも朝目覚めると、「ここは誰の家なの?」と不思議そうに聞く時もあります。記憶の継続ができないだけで、その場その場はかなり認識できているようです。季節や時間の認識にも誤差があるし、排泄や入浴、食事など生活能力は低下し、生活上の介助は不可欠です。ですが、楽しい嬉しいことはいくらかでも覚えていられるなんて、すてきです。それに、母には何よりなのが、会話能力がすばらしく残っていて、ウィットに富んだ言葉のキャッチボールさえできることです。怒りの感情もゼロではありませんが、引き出させないよう心がけることで解決できます。母のように、イヤな思い出したくない記憶は消えて、良いことばかり残る場合もあるという事は、希望のもてる症状ではないでしょうか。こんな風に穏やかに退化していけるなら、これはこれで受け入れても良いかもしれないなどとも思います。自分も穏やかな心で過ごせるせいか、一番心配した下の世話も、不思議に何も抵抗がないのです。

 それでもかりんへ送っていく時は、こちらもその都度心が痛みます。迎えに行った時には、良い人ばかりで楽しいと言っていたのに、その記憶が継続しないから、不安を強く持つのでしょう。母が車の中で、どこへ連れて行かれるのか不安でいっぱいなのがひしひしと感じ取れるのです。、初めての知らない所ではないこと、友達もたくさんいる所だと繰り返し話しては、母の元気が出るような話題へと持って行きます。そして、いよいよ自分のいる階でエレベータを降り、友達から手を振ってもらったり、お帰りなさいと笑顔で迎えられると、ニコニコと元の生活に順応するのです。私たちもホッとして帰途につきます。

 これから否応なく症状は進行するでしょう。これを書いている一ヶ月の間にも母の力の変化を感じます。末期状態になった時、私たちにどうできるのかは未知数です。不安はたくさんありますが、私の原則は「母が元気で楽しいとわかるうちはがんばる。ダメになったら潔く受け入れる。」です。アタフタしないよう覚悟を決めて、母との時間を充実して過ごしたいと思います。

  私たちがとても恵まれた条件下にあることは十分承知しています。仕事、生活環境、家族の健康、経済的事情、様々な事情があり、それぞれいくら思っても、やってやれないこともたくさんあるでしょう。私自身、母にこんな気持ちを抱けるようになった自分が不思議でならないくらいですから。でも、認知症だからどうせ何もわからない、しなくて良いのだ、ということはとんでもない間違いだと心に刻んで欲しいです。自分の未来に置き換えて、優しい気持ちだけは忘れないでください。

 

W最後に

 かりんの方針は、施設長の川島さんの「お年寄りの尊厳を護り、幸せな最後の時間をおくらせたい。」とのお言葉に表れているように、家族の願いにできるだけ寄り添おうとしてくださることで、何よりありがたいことだと感謝しております。母が帰宅した折りに転倒し、圧迫骨折で通院する事になったときも、お忙しい中を、看護師さんや職員の方が色々配慮してくださり、担当ケアマネージャーになられた福岡さんも含めて本当に一生懸命やってくださいました。職員の皆さんがいつも明るい笑顔で接してくださることは、入所者にも家族にも何よりの安心です。

 とても感心することの一つに、かりんでの行事に参加させていただいた際に、家族の来ない入所者に職員の方が特別気を使われて、寂しくないように配慮されていたことです。そのような配慮はできそうでなかなかできないことだと思います。今まで、老人に理解があった訳ではない私が、母の介護を通じてずいぶん変わることができたのも、介護に携わる方達の言動を通して、自ずとたくさん学ばせていただいたからです。

 現在認知症の完治は不可能ですが、医師の適切な投薬やカウンセリング、介護専門家の様々な支援、家族の協力と愛情、それらが寄り添えば、認知症でもこんな幸せな日々が送れるということを知っていただき、躊躇せずに一歩踏み出していただきたいと心から思います。少しでも多くの方が、ちょっと立ち止まって、何かできることはないかと心を通わせ、手をさし伸べあえる、そんな優しい日々が訪れるますように。そして、いつか近い将来、認知症も完治できるように心から願っています。

  団塊の世代の高齢化を近々控え、介護施設の充実も切実です。自分の未来を重ね合わせて、様々な思いやニーズを持ち寄って、多彩な施設がたくさんできることを期待します。それには、元気な現役の時から、介護つまり人生のエンディングに関心を持つことも大切でしょう。コミュニティーの一環として老人施設もあり、皆で色々な力を発揮しあえるような運営とかもできるとすばらしいです。そして何より、介護に携わる職員が、プロとしての知識や技術や心の研鑽を積めるような環境とゆとり、自分の仕事に誇りと満足のもてるような社会的な認知度や待遇の向上が切実に必要だと思います。政治や社会の意識を考え直す時期が迫っています。

 私の周囲にも親の介護経験から得られた知識や思いを、社会に何らかの還元ができたらと考えている方達がたくさんいます。そのような潜在的な力も、もっと活用できたら良いですね。介護体験は人を成長させてくれる何か不思議な力を持っているようです。元気な老人や主婦などの潜在的パワーがまだまだ埋もれていて、モッタイナイです。皆が多様に支え合える柔軟な社会の一環として、老人介護問題も位置できるようでありたいと切に願います。

  最後に、母のこれまでの介護を支えてくださったすべての方々に、心からの感謝を捧げ、御礼を申し上げます。

                                                                                                          池田 智惠子