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かたくりの里パソコン工房

今村 里恵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、今回のこのハートメッセージで、何をお話しすればいいのか、とても悩みました。

病気を発症したこと、入院したこと、作業所へ通いだしたこと、減薬を決意したこと、就労したこと。

どれをとっても、自分にとって大切な出来事であり、今の私が、こうして、生活していけるようになったまでの、一つ一つのポイントです。

 

でも、もっともっと大きな何かが自分の中にあって、それを言葉にしなくてはいけないような気が、ずっとしていました。

それはなんだろう?と考えてゆくと、いくつかの気持ちや想いになって表れました。

今回は、そのことについて、お話させていただこうかと思います。

 

私が25歳をすぎて、ある病院に入院した時に出会った、一人の友人がいます。

彼女も私と同じく、精神の病気で入院していたのですが、暗く、陰鬱な雰囲気が漂う病棟の中で、いつも明るく話しかけてくる彼女に、私は好意をもち、私たちはすぐに仲良くなりました。

 

彼女とは、一緒にたくさん楽しいことをして、悪いこともたくさんして、二人して看護士さんに怒られたりもしました。

夜中に、彼女が私の部屋にそっと入ってきて、

「一人だとうまく眠れないから、一緒に眠ってもいい?」

と言って、まるで仲の良い姉妹のように、一緒に眠ったことも、何度もありました。

他から見れば、私も彼女も、どこにでもいるような、ただ人より少し感受性が強いだけの、さみしがり屋の女の子だったと思います。

 

私はそれまで、自分と同じような病気、つまり精神障がいのある方と仲良くしたり、あまり近づこうとはしませんでした。

なぜなら、精神の病気をもつ方々が集まると、お互いの存在で、お互いを苦しめ合ってしまう、負のスパイラルを起こしてしまうと、知っていたからです。

自分が友達、深い関係、と思っている人たちも、目の前に自分が存在することで、なにげない一言や、その日の自分の気分や、状態を知ることによって、結果的にますます苦しくなる…自分や、その人の人格云々ではなく、引きずり合ってしまう病気なんだと、身を以て知っていたからです。

そしてそれらは、共感や友情や、出会いではなく、ただの共倒れでしかないと。

彼女と仲良くなってからも、その気持ちを頭に置き、私は私なりの距離感を持って、接していました。

 

ところがある朝、彼女の部屋へ行くと、彼女の荷物が何もなくなっていて、彼女の姿もありませんでした。

「どうしたの?」と看護士さんに尋ねると、

「彼女はご家族の事情で夕べ緊急退院したのよ」

、と聞かされました。

急なことでとてもびっくりしましたが、まぁそういうこともあるんだろうなと、自分の感情を抑えて、私は変わらずに、日々を送ることにしました。

その後、何度か、私宛に彼女から手紙が届きましたが、私はろくに返事もしませんでした。

そして、私も退院する日が決まりつつ、自宅へ一時帰宅することになりました。

自宅へ戻ると、ポストに彼女からの手紙が、一通届いていました。

消印はだいぶ前。

その手紙には、私と彼女が一緒に笑っている、彼女が描いたラクガキが描いてありました。

私はなんだか嬉しくなり、すぐに彼女へ電話をかけました。

 

しかし、彼女の携帯は繋がらず、妙に不安を感じた私は、主治医に彼女のその後を尋ねると、主治医の顔は曇り、言葉もつまり、私はハッキリ教えて欲しいと、主治医に問い詰めました。

「彼女は亡くなったんですね?」、と。

彼女は、家族の事情で退院した、と聞かされていましたが、保護者が入院費を支払わなかったため、治療も半ばで強制退院させられていたことを、知りました。

そしてどこにも居場所がなくなった彼女は、自ら命を絶った、ということも知りました。

もちろん、そのことだけが、彼女の自殺の動機だとは思いません。

でも、私は何も聞こうとしなかったので、それ以上のことは、知る由もありません。

 

私は、自分のことを責めました。

どうして、もっと色んなことを話して、聞いておかなかったのか、どうして、手紙の返事を書かなかったのか、どうして、少しでもおかしいと思ったことを、ほっておいたのか、どうして、どうして、どうして、…

 

今でも、眠れない夜は、彼女のことを思い出します。

 

夜空を見上げると、真っ暗な空に浮かぶ、灰色の雲の裾から、あの子がいつもはいていた、ブーツが見えるような気がして…。

 

 

 

その頃から、私は泣くことができなくなりました。

どんなに辛いと感じることがあっても、涙は流せず、ただ、一つ一つ起こる出来事たちを、『時間』として、受け流していくことしか、できなくなりました。

 

私は、時々、彼女を想い、いつも彼女に、こう質問します。

「ねぇ、君から見て、私、今どんな顔してる?」

私が彼女の手紙の返事をしなかったように、もう彼女からも、なんの返事も、返ってきません。

思い出すのは、彼女の笑顔だけ。

 

前は、そのことが寂しくてしかたありませんでした。

しかし、彼女が私にくれたものは、その笑顔が、最大で最強なんだと、思うようにもなりました。

 

 

 

 

 

 

 

ある詩に、「Carpe diem(カルぺ・ディエム)」、という一説があります。

 

「人生の中で、大きな希望を抱くことは、もうやめよう。

きれいな花を見つけたら、摘み取ってしまおう。

なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、意地悪な“時”は、

足早に逃げていってしまうのだから。

だから、今日一日分の花を、摘み取ろう。

いつも通りの明日がくるなんて、ちっともあてにはできないのだから。」

 

、という詩です。

 

私たちは皆、病気であるなしに関係なく、自分の意志ではどうにもならないことを、沢山抱えて生きています。

だからこそ、自分の意志でなんとか動かせることができるものは、そうするべきだと、今、私は考えます。

そして、同時に、例えば病気や、意志とは無関係に、自分の身に起きたことは、全て自分の持ち物なのだ、とも感じています。

それらに責任を持って接していくことができるのも、誰でもない、この自分自身でしか、ないのだと。

 

 

誰かのせい、とか、自分のせい、だとか、そんな結論のない話は、もうすでに意味がなく、今、ここにいる、今の状態の自分で、ここからどうしよう?

、と考えるようになりました。

 

彼女の死のあとも、胸が張り裂けそうになる出来事は、何度もありましたし、私自身も、彼女のように、自らの命を絶とうとするような、行為をしたこともありました。

しかし、私はそんな自分や人に、

「気持ちわかるよ、大変だね、頑張って、一人じゃない…」

、という言葉は、もうかけられません。

きっと、そう言うのは簡単で、ラクチン、そして、誰にも嫌われずにすむ。

でも、そうすることが優しさなら、私は優しい人になんかなりたくない。

沢山の人に笑顔になってほしい、と、心から思います。

本当の意味では、治らないのかもしれないけれど、できるだけ、社会参加して、自分の力で生きることが、

「治る」

、ということだとすれば、誰にだって、そのチャンスはあると思います。

 

 

 

私は、今、減薬を決意し、就労しました。

はたから見れば、「普通」に日常をこなしているように、見えるかもしれません。

だけど、私は思います。

『普通』の人なんか、いない。

みんな、誰にも言えないような、心の傷を抱えて、生きている。

 

きっと、眠れない夜も、悲しくても涙が出ない時も、返事のない会話を続ける日も、

これから何度もあるのだと思います。

その一つ一つは、とても辛いことなのだろう、とも思います。

 

しかし、例えば私が、順風満帆に生きてきていたら、わからなかったこと、

知らなかったこと、出会えなかった人々に、出会えたこと、

それら全てが、今は私の一部であり、これからも、私の道をつくっていってくれる、

大事な出来事なのだと、思いたいです。

自ら周りの小さなことを、一つ一つ変えていけば、ここから見える景色なんて、いくらでも変えられるんだ、と信じたいです。

 

 

人は、一度の人生の中で、生まれ変わったりはしません。

ただ、過去を積み上げて、生きてゆくのだと、思います。

時に、その積み上げた何かが崩れ、途方に暮れることも、あると思います。

それでも、また、足元にあるものから積み上げて、道をつくってゆきます。

私の友人のように、それを放棄してしまった人たちも大勢いますが、

私は、彼女・彼等の行為を、非難するようなことは、決してできません。

それはとても悲しいことですが、そうすることしかできなかった人たちもいるのだということも、それ以上に悲しい現実だと思うからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、今、私の、ここにある、

「ハート」、からのメッセージで、お話を終わりたいと思います。

 

それぞれが、それぞれの場所で、

前を向きたい人は前を、

後ろを向きたい、その必要がある人は後ろを……、

それでもいい。

そして、いつか逢おうね。

逢える時が来たら、きっと逢おう。

それまでは、

お互いの場所で、

その日の花を摘み取って、

心に飾ろう。

 

 

ありがとうございました。