私の経歴

私は昭和22年4月四国は愛媛県松山市で生まれました。そして、小学校1年から藤沢市に住んでいます。鵠洋小学校の出身です。私立栄光学園中学・高校を経て、昭和47年に東京慈恵会医科大学を卒業しました。

 普通なら大学に残るのでしょうがそうはしませんでした。精神科の医局に入らずに、当時心酔していました竹山 恒寿教授について湘南病院の神経科に入りました。そこで精神科・内科を実地で学ばせていただきまして、その頃の知識でいまだに飯を食っています。 丁度 その頃、現・聖マリアンナ医科大学、当時は東洋医科大学というのができまして、竹山先生の指示でそこの神経精神科に入局しました。まだ建物だけの頃から、一応大学病院らしい形になる頃まで遊ばせていただきました。 その間、またまた吉倉 範光教授に心酔しまして、神経学など囓らせていただきました。吉倉先生のお顔で、日大の第1解剖学教室の小島先生・後藤先生にお世話になり脳神経系の解剖学を、順天堂の平山先生には神経症候学、慈恵医大の佐久間先生に神経眼科、衛藤先生に代謝性疾患、田所先生には病理学など教えていただきました。

 もっとも、この基礎を造って下さったのは湘南病院の松村先生で、卒業当時から神経学の教えを受けていました。学会認定医も先生のおかげで取ることができました。精神科は与良先生・高橋先生に仕込まれました。これはもう文字通り、午前中100人ほどの患者さんを診まして、昼飯は二時すぎで、大急ぎでカッコンで、午後は病棟で60人ほどの回診、しょっちゅう当直と、徹底的にやらせていただきまして、最高の経験でした。
内科は小林先生・種蔵先生にお世話になりました。何でも好きにやらせていただいたすばらしい覚えがあります。古き良き時代であったかと思います。放射線科にも御世話になりました。

 その後、縁あって四国・松山の清和病院という精神病院に赴任しました。そこにいたとき、やはり縁というのでしょうか、愛媛県立病院の東洋医学研究所にて光藤先生に学ぶことができました。東洋医学、漢方の湯液療法と鍼灸治療を教わり、おまけに中国の長春・白求恩医科大学(ベチューンと読みます)まで行かせていただきました。この時は研究所の山岡先生・奥様と御一緒でした。

 神奈川県に帰って、日向台病院の長谷川先生にお世話になり、暫くして藤沢市にて父の後を受けて、医院の名前はそのまま鶴井医院として開業しました。昭和58年8月でした。
以上述べました大勢の先生方のお陰を持ちまして、なんとか患者さんを診れる医者にして戴けたものと感謝しています。

                   
 当時父は藤沢市で森田療法をやっていました。もともとは慈恵会医科大学高田外科出身の外科の開業医だったのですが、あるとき一念発起して精神科を志し、やはり湘南病院の竹山 恒寿先生に学んだ後、精神科に転向していました。従って、私が始めた頃は内科・神経科の患者さんが多く、また常時10人ほど一緒に生活していた森田療法の入院患者さんのお世話がとても面白かったけど大変でした。
 幸い患者さんを診るのは好きでしたし、カミさんが−聖マリアンナ時代に長谷川先生の御媒酌で結婚したのですが−これが大当たり。上智大学の心理の出で、鍼灸師の資格もあり、これがとてもよく協力してくれましてなんとかやってこれました。今も鍼治療カウンセリング、心理検査をしてくれています。

               
 ところが平成元年11月、友人の針金先生に夫婦で検診をお願いしたところ、カミさんにスキルス胃癌を発見、真っ青になり、早速、栄共済病院の佐藤先生にお願いして胃全摘をしていただきました。 その後ビクビクハラハラしながら、入院もやめ、外来も縮小して、なんとか3人の子供を育てながら10年間は細々とやっていました。今では上の長女も高等学校の英語の先生になり平成15年8月に同僚の先生と結婚いたしました。二番目の長男は慈恵医大を卒業してリハビリ科に入りました。今は湘南病院で精神科の勤務医をしています。三番目の次男も慈恵医大の学生になりました。剣道部に入っていました。もう卒業して、結婚して、今は京都で夫婦ともに勤務医をしています。
 みんな親元を離れて生活してくれています。大変ですけど有り難いことです。
 カミサンも術後25年を経過し随分体調も戻りまして、やっとホットしているところであります。入院治療を辞めた後は通院で診れる患者さんだけ診ていました。2〜3年のうちにもう1度入院治療をやってみたいものと考えていましたが、念願叶って、今度は入寮施設として森田療法を再開しました。現在は7〜8人の寮生が一緒に住んでいます。稽古をしたり、作業をしたり、ここから仕事や学校に通っています。日中だけここに通ってこられる方も少ないですがいらっしゃいます。皆さんよく頑張っておられます。

          (これは江ノ電をよく描いておられる方の作品です。ちょうどうちが描かれています。)
森田療法は、これはやってみるととても興味深いもので、神経症の治療の捨てがたい一方法であると思っています。最近は日本人も随分様が変わり、明治時代にできた森田療法がそのままでは使えないような気がいたします。日々神経症の人達に接しながら、一緒に作業したり、剣道したり、遊びながら「どうしてなかなかうまく治ってくれんのじゃー」と悩んだり、時には「やったぜ」と会心の笑みを漏らしながら、カミさんと二人で毎日を送っています。
最近は純形の森田神経症は少なくなっているように見えます。大人になり損なっている青年の、社会によく適応できないが故に、その穴埋めのように出現したと考えられる、神経症の如き症状を呈している方々とでも言いましょうか。その様な方々がとても増えているような印象を受けています。 これは治療に時間がかかります。殆ど子育てですものね。
 そんな訳で、ライフワークはやっぱり森田療法。
現代日本、ポスト成熟社会における神経症と森田療法の研究、ということで行きたいと思っています。
 ですが、現実は厳しいです。最近は外来診療がとても忙しく、なかなか森田療法にまで手が回りません。
幸いまだ元気な父親が助けてくれていますしたので、なんとか森田療法を続けていられるような状況でした。
その父も平成23年8月28日に他界しました。90歳目前でした。
でも、森田療法は私どものライフワークですので出来ればもう少しこのまま続けたいと思っています。
平成26年4月頃からは長男夫婦が手伝ってくれそうです。
いずれ近いうちに彼等に引き継いでもらう予定で準備中です。
 

稽古の後のひとときです。ログハウスタイムと呼んでいます。
中央は超有名作家の奈良谷さんです。ペンネームは睦月 影郎さんと言います。稽古に見えています。 
江ノ電の石上駅の前に三階建てのすてきな事務所を建てられて、喫茶店「睦月堂」も始められました。
この喫茶店のマスターをしている忍さんは美人です。
流石にお忙しいようですが、時々お稽古に見えます。土曜日の午後2時半からの稽古によく参加されています。
もう一人超有名作家がおられます。「黄落」で名を馳せた佐江 衆一さんです。
現在は藤沢市剣道協会の役員もしておられ、お忙しいようです。よく稽古に来て下さいます。

もう1人新進気鋭の作家が誕生しました。以前も私のサイトで紹介した方です。小田博之さんです。
最近ホームページも立ち上げました。是非御覧下さい。

私は今年66歳になりました。のんびりと、コツコツとやっています。もう子供たちも大きくなってきました。
上の娘も結婚し、長男も医者になりました。次男も医者になりまして、結婚までしました。それぞれに子供も生まれています。
父は亡くなりましたが、母はわれわれと同居しており元気にしてくれていますので、これからももう暫くはこの調子でやってゆきたいものだと思います。
なんとかして上手い具合にハッピーリタイアメントに漕ぎ着けられるようねらっています。
リタイアしたら暫くは南の島で暮らしてみたい。これは夢ですね。まだまだ当分かないそうにない、はかない夢です。
馬一頭造りたい夢もどうも現実にはなりそうもありません。人生は思うようにはならないもののようです。


これは藤沢市、鎌倉市、茅ヶ崎市の精神科の先生方です。以前の会合の時写した写真です。
藤沢病院の先生方、元藤沢市民病院精神科の長崎先生は善行で御開業されています。藤沢市、鎌倉市、茅ヶ崎市で御盛業の先生方で、錚々たるメンバーです。現在はもっともっと増えてきています。みんな仲良くやっています。それぞれが大変レベルの高い先生方ですので、この地域では患者さんはどちらを受診されても満足のゆくものになると思っています。