アートする認知症  

 

 20121月、私の父は認知症対応型のグループホームへ入所した。200510月にアルツハイマー型認知症と診断されてから7年。「もう少し父と一緒に生活することが出来たのではないか?」という思いと、「もう限界だった」という思いとが、交錯する。

 「果たして、これで良かったのだろうか?」という自問自答が繰り返された。

 が、しかし、半年以上の月日が経過して、この判断は正しかったのだろうと思っている。何故ならば、父との生活は既に正常な判断ができる領域を越えてしまっていたからだ。

 あの時、私がかろうじて冷静に決断出来たのは、周囲からの、つまりそれは友人であり、ケアマネージャーであり、主治医からのアドバイスがあったからこそのことだった。

 以下、父が入所に至るまでの経過を、入所という判断が正しかったと確信するためにも記してみたいと思う。

 

 父の様子がおかしいと思った発端は20027月のことである。30年以上も前から通院している歯科医院から帰ってこられなくなったことにある。その日3時に合わせて2時頃に家を出た。夜の7時を過ぎても帰宅しないので、医院に電話をしてみると来院していないという。その日は帰らず、翌日の2時半頃に近所の消防署から電話があった。

 「村田さんのお宅ですか?」

 「お宅に村田 かつじさんというお爺さんはいらっしゃいますか?」

 「最近此方に引っ越してきたばかりなので、家が判らないと、今こちらの方に見えています。迎えにきて下さい。」

消防署員からの話である。私は昨日、歯科医院へ行くと言って出かけて以来、戻ってこないこと、警察に捜索願を提出していることを伝え、迎えに行った。

父は歯科医院のある大船から鵠沼まで一晩中歩いていたようだった。とても消耗していたらしく、帰宅するとソファで寝てしまった。夕方、起きてきたので近くの医院を受診、検査をしてみたが「特に問題はない」といわれ、整腸剤を処方された。

 

思い返してみると、このようになるまで軽い物忘れは多々あった。

買い物を頼むと違うものを買ってきた。何故違うものを買ってきたのか訪ねると「売り切れてなかったのでこれを買ってきた。」と言う。その頃はまだ物忘れだとは思わず、本当になかったのだと思っていた。

私は父が言い訳をしていたとは気づかなかったのだ。同様に歯科医院から帰ってこられなかったのも、帰り方が判らなかったからだ、とは思えなかった。何故ならば、父は鎌倉生まれで、歯科医院は父の生家からも、元の職場からも近いところにあったからである。

その後受診に至るまでの間に気になった点を列挙してみると、

1、       私が出かけて昼食を一緒に食べられないとき、昼ご飯を用意してすぐに食べられるようにしておくのだが、それを食べなくなったこと。

2、       異常に木を切るようになったこと。

3、       私が出かけた際、夜でもないのに改札口で私が帰ってくるのを待っていることが頻繁になったこと。

4、       「お使いはないか?」と尋ねるので頼むと、一種類のみで、やがてその一種類も「紙に書いてくれ」と言うようになったこと。

5、       入浴するときに着替えの下着が判らず、箪笥から下着を一枚一枚出して畳の上に広げ、「これで良いのか?」と確認を求めだしたこと。

6、       入浴しても身体を洗わず、浴槽に浸かって暖まるとそのまま出てきてしまうようになったこと。

以上、この頃にあった日常生活の中での変化である。

 

 そして2005年。その夏、犬のメルが死んだ。

 父の日課だった朝の犬の散歩がなくなり、父は起床しなくなった。犬の死の少し前から時々朝の散歩に行かない日もあったが、死後完全に起床しなくなった。

9時を過ぎても、10時を過ぎても起きてこない。起こしても「まだ寝ている。」と言う。

疲れているからという様子でもない。こうした状態が1ヶ月ほど続いたあと、私は心配になって藤沢市の高齢福祉課に電話をした。事情を説明すると、鵠生園を紹介され、ケアマネージャーが来宅。その時も父は寝ており、起きてこようとはしなかった。この様子を見てケアマネージャーは私に鶴井医院に行き診断書をもらってくること。その上で介護保険の申請をすることを話した。私はすぐに鶴井医院に電話して予約を取り、103日に初めて父と一緒に受診したのだった。

 受診に至るまでの約1ヶ月間、様々な思いが去来した。

1、単なる私の勘違いか?

2、思い過ごしか?

3、父の老齢に伴う変化か?

4、疲れているだけなのか?

5、犬のメルが死んだことによるペットロス症候群なのか?

6、どこか病気なのか?健診では問題ないのだが?

こうしたいろいろなことを考えたり、思ったりしたが、結局何であっても良いから、とにかく専門家に診察してもらって正確な診断をしていただこうと決意したのだった。

 初診の当日、父は病院に行くことに対して疑問も拒否も示さず、私と一緒に先生の前に座った。結果は『アルツハイマー型認知症』。私はこのひと言に打ちのめされてしまった。

癌の宣告をされたのと同じ重さと深さとで心に突き刺さり、そして食い込んだ。

一生治らず、悪くなって行くばかりの病気。何も判らずに呆けた父の姿が脳裏に浮かんだとき、涙がこぼれた。そしてその瞬間、私の心の中で何かが死んでゆくのが判った。

 

 帰り道、私の歩調が遅くなったのだろうか? 父の背中が見える。父は元気よく、しっかりとした足どりで歩いている。その後ろ姿を見ているうちに少しずつ心が軽くなって行くのを感じた。敢えてそれを言葉にするのならば、夢とか希望とかというものなのかも知れない。「すぐに死んでしまうわけではない」「進行を遅らせる薬だってあるのだ」「落ち込んでいても解決しない」次第に闘志に似た気持ちが湧き上がってきたのだった。

 

初診以降毎月一回の通院が続いている。初診時に処方されたアリセプトは幸いにも父には合っていた。服用をはじめてから一週間ほどで効果が現れたのだ。父は朝になると自分から起床し、木や草花に水をまいた。一人で散歩に行き、帰ってくるとテレビを見たり、庭掃除をしたりしていたのだ。こうした一連の以前の生活を取り戻した父の姿を見て、私は何かの間違いだったのかも知れないと錯覚したほどである。

 

 200512月の尿路結石による入院と、20065月の前立腺肥大による再入院とで父の認知症は進んでしまった。一人では近所でさえ道に迷うようになってしまったのだ。

 私は父について歩いた。外出するときは何時も一緒だった。考えてみると、大人になった私は殆ど父と歩いたことがなかった。一緒に歩きながら父は何に興味を示し、どのくらいの早さで歩くのか気づかされた。庭先に咲いている花を見て「綺麗だなぁ」と立ち止まる。時折道路に飛び出している花を手折り、父は花泥棒となった。紅葉している落ち葉を拾い、ポケットに詰め込む。私は自分が如何に父という人物を知らなかったかということを思い知らされた。

 平穏に見える生活が続いていたが、時々、まさか、と思う行動が現れた。

1、夕方「お父さんとお母さんが迎えに来るから外で待っている」と言って門を出て何かを待っていた。

2、室内で座っているとき「もう帰る」と言って外に出た。

3、夜中にトイレに起きた際、部屋に戻らず、玄関を開けて出て行ってしまうことがあった。

こうした症状は何時も起こるということではなかったが、ケアマネージャーさんに話すと、「玄関に警報ベルを取り付けましょう」ということになった。この時から玄関が開くと、私の寝室の耳元で昼夜を問わずベルが鳴った。と同時に夜眠るとき、私は洋服を着て寝るようになった。着替えていたら父を見失ってしまうからだった。

 「帰る」という言葉と、「行く」という言葉は父の中では同じ意味だったのだろうと思う。外に出て歩くこと、つまり徘徊が始まったのだろう。時々しか鳴らなかった警報ベルは、急速にその回数を増やし続けた。

 「洗濯物乾したら出かけるからね」といって二階のベランダで干し物をしている間、一体何度ベルが鳴り、階段の上り下りをしたことだろうか? 「歯を磨いたら行くからね」と念を押したにも拘わらず、門から出て行ってしまい、鍵もかけずに近所を探し回ったことは二度や三度ではない。

 父が家にいるとき、喩えそれが昼であっても夜であっても、絶えず気を張っていなければならなくなった。この当時の父のデイサービスは毎週火曜日、金曜日、土曜日だった。そして月に一回のショートステイが始まっていた。火曜日と金曜日、私は父を送り出すと簡単に家の中を片づけて眠った。なんの気遣いも心配もしないで寝られる唯一の時間だった。午後の2時頃に目覚め、軽い昼食を食べる。ゆっくりとお風呂に入って髪にドライヤーをかけ終わった頃、父が帰宅した。良い休みだったと思いながら父を出迎える一方で、再び緊張を強いられる時間が始まると思い、心が止まる一瞬でもあった。

 土曜日、それは剣道の日だった。日常生活からかけ離れた時間と空間、それらは私に現実の生活を忘れさせてくれた。もしもその時間がなかったならば、私はこれほどまで長い間、介護を続けてこられなかっただろうと思う。

 剣道を通して私は相手と真正面から向かいあうこと、決して逃げないこと、相手をよく観察し、それに対処できるだけの力を身に付けること、など様々なことを学んだ。

相手と対峙したときどのように遇するか? それは剣道に限らずあらゆる生活場面において直面する問題だろう。勿論、介護も私にとっては同様のものとなった。父と真正面から向きあい、決して逃げないと心に決めることで、ただ単に辛いだけの介護が、積極的で、前向きなものとなった。父を観察し、どのように対処して行くかを考えることは、認知症という病気に対して一歩踏み込んで行くことであり、更にもう一歩踏み込んで行くことは、創造的な作業でもあった。介護をプラス思考のスパイラルの中に引き込んでしまえば、それは限りなくクリエイティヴなものへと進化して行く。

そしてこのクリエイティヴな作業に道具として薬品が係わってくることでアートな世界へと導かれるのである。 

 先にアリセプトの効果について触れたが、次にメマリーと三種の薬品を組み合わせた粉薬について述べてみたい。無気力になった父がアリセプトの効果で再び活動的になったが、次の症状として次第に怒りっぽく、短気になり始めた。入浴や着替えを嫌がるようになり、長い時間、父の機嫌が変わるのを待った。特に服を脱ぐことに抵抗を示し「嫌だ」と怒鳴る。「止めろ」と手を振って遮る。買い物中私がトイレに入って出てくるまでの時間が待てなくなり、ある時トイレから戻ってくると父がいなかった。診察の際にこうしたことを主治医に話すと、その当時、まだ日本では発売されていなかったメマンチンという薬品を服用させてみないかと提案された。20116月に日本ではメマリーという名称で発売された薬品である。しかしその時点では未だ日本での発売はなされていなかったので、私はメマンチンという薬品名を検索し、その効果と副作用、入手方法などを調べた。そして、医師との相談の下、個人輸入をして父に服用させることにした。2週間後、父は落ち着きを取り戻した。穏やかになったのだ。更に、医師が処方した粉薬の併用で、父の拒絶反応は消え、素直に服の着脱や入浴に応じるようになった。現在、父はアリセプトとメマリーと粉薬を服用している。特に粉薬に関しては絶えずその分量を父の症状に合わせて調整していただいている。多すぎると眠ってしまうし、少なすぎると介護が難しくなってしまうからだ。

 父が清潔で健康的な生活を送ることが出来ているのは、この粉薬におうところが大きいだろうと思う。主治医の匙加減で、父は人間としての体面を保っていられるからである。

 

 様々な症状はある日突然に発露する。近所であっても道に迷い、戻ってこられなくなることも、帰ってこないという現実に直面してはじめて、既に家の場所が判らなくなっているのだと気づかされる。

 セーターを着用する際、襟の所から腕を入れてしまい、頸周りを破いてしまう。着るものを一枚一枚手渡しして着せて行く。入浴時、石鹸をつけたタオルを手渡して身体を洗うジェスチャーを添える。

 その日の昼間、もぐもぐと口を動かしたり、口の中に指を入れて何かを取るような仕草をしていた。「どうしたの?」と尋ねてみると、「なんでもない」と言う。私が見ても特に変わった様子はない。気にとめる必要はないのだろうと思い、そのままにしておいた。夕方食事の支度をしようと台所に立ち、手を洗おうとしたとき、石鹸に歯形が付いていることに気づいた。父がもぐもぐしていた理由はこれだったのかと理解した。

 緩慢にではあるが、生活の様々な場面で父の行動は是非の分別を欠いてきた。

「食べても良い?」と言う質問は「これは食べられる?」という言葉に変わっていった。

「どうぞ」と答えると食べ始めるのであった。食物と食物以外のものとの区別が曖昧になりだしていた。

 

 201111月入所申請書を提出していたグループホームのメールブルーから電話があった。此方の都合次第何時でも良いという。私は迷った。「入所はまだ早いのではないか?」

「もう少し家で見られるのではないか?」一方でケアマネージャーに言われた「家庭での介護の限界を超えている」と言う指摘や、ケースワーカーの「共倒れしないうちに」というアドバイスを思い起こしていた。いろいろと悩んだ末、何が一番大切なのかを考えたとき、答えが出た。父の安全である。私の不注意で事故に遭わせてはならないと思った。これ以上の私一人での介護は、私のエゴイズムになるのかも知れないと感じた。このままでは父の安全を守れないと判断して私は父の入所を決心したのである。

 

 201112月、ケアマネージャーが作成してくれた入所への準備スケジュールに沿って父と供にメールブルーに通った。お茶から始まり、ランチ、私が途中で抜けることなど徐々にホームに馴れさせていった。そして20121月父は入所した。

 

 現在、父は健やかに生きている。私は週に一回ホームに通い、父と一緒に病院に行ったり、買い物をしたりしている。電車に乗ると「これは良いなぁ」と言って喜んでいるし、褒め言葉をかけられると、意味は判らなくともニコニコと笑う。

先日私は久々に古い友人と会った。その時友人から「父のためになんでそこまでするのか?」と聞かれた。私はすぐに「父のためではなく、私自身のためであり、後悔したくないからだ」と答えた。これは本心である。父が私にしてくれた様々なことに対して私は感謝の念を抱いている。恩返しという形で親孝行が出来るというチャンスを与えてもらったのだと思っている。

 

アルツハイマー型認知症はひとつひとつ記憶を失って行く。その度に介護者は試行錯誤を繰り返し、認知症患者から育てられる。こうしたキャッチボールのような行為の中にほんの少しの想像力を投げ込めば、それは創造力へと変化して行くのである。

私の介護生活はまだ終わってはいない。父という作品が完成するまで、これからも主治医や施設の方々と供に父の認知症をアートして行くことだろう。