指導力不足教員放置情報

 次の記事は「ファム ポリティク 第41号」(2003年9月25日発行)に載った
彩木ゆかりさんの報告書です。第三者が山影冬彦に取材したもので、本人が
自身のことを語るよりは、より客観的になっていると思われるので、ここに転載
することにします。

「指導力不足」のレッテルをはられて
                 彩木ゆかり


本人にはだまって、かげで「指導力不足」の
                          レッテルをはっていた学校管理職。



 突然の宣告は「指導力不足教員」!
 
 二〇〇三年三月十一日。
 神奈川県の県立B高校の教員・山影冬彦さんは学校に向かっていた。神奈川県教育委員会から高校に電話が入り、出向くように要請されたのだ。一体なんの話だろう。
 校長室に着くと、予想していた県の側からの出席者は誰もいない。緊張しながら校長と向かい合った山影さんが聞かされたのは、信じられない言葉だった。
 「あなたは一年前から『指導力不足教員』と判定されていました。次年度も引き続き指導力不足教員として、指導・観察を続けていきます」
 山影さんは色々な事情で心労が重なり、二〇〇二年の八月に入院、年を越した当時も自宅療養中だった。しかし体調はすでに回復。三月末の審査会に通れば復帰できるので、それを目指して復帰の準備をしていた矢先の出来事だった。あまりに思いがけない言葉に、山影さんは動転した。
 「頭の中が真っ白になりました。何を言われているのかもよくわからない。本当なのだろうかと半信半疑。ただ、ボーっとしていました」


 一年前から「指導力不足教員」に

 山影さんは一年前の二〇〇二年四月一日、通信制課程の高校から現在の高校に異動していた。
 元の高校の校長は二〇〇二年の三月十二日、山影さんに関する「指導力不足教員等の判定および人事上の措置について」という申請を、神奈川県教育委員会に提出。三月二五日に判定が認定されていた。だが申請が教育委員会に提出されたことも、判定が認定されたことも、一年間まったく本人に知らされてはいなかったのだ。
 本来であれば判定の申請に関して本人に連絡し、意見陳述の機会を設けるべきところだ。実際、神奈川県の申請書には本人の意見欄もあり、手引きには「本人や関係者から事情を聞くなどして、課題の原因を分析し、早期に解決を図る必要がある」とある。しかし前任校の校長は「指導力不足教員」の判定についておくびにも出さず、山影さんに人事異動を強要したのである。
 山影さんは二〇〇二年当時、A高校に勤務して九年目が過ぎようとしていた。
 神奈川県の教職員は、十二年以上になると異動しなければならない。山影さんも異動希望を出していたが、校長が提示した先はバスの便も少なく、片道二時間程もかかる地域で、持病の腰痛がある山影さんが通うには不便な場所であった。
 異動を受け入れる場合、三月中に本人が異動先に出向き、校長の面接や申し送りなどを受ける。山影さんは異動を断ったので、この面接を拒んでいたが、四月に辞令が下りてしまったという。そのまま拒否を続けると欠勤扱いになってしまうため、車も買ってB高校に勤務することとなった。
 そのB高校の校長も山影さんが「指導力不足教員」と認定されたことについて知らされたのは、異動の終わった二〇〇二年の四月下旬だったという。もっとも「詳しいことは知らない」と言っているそうだが、四月下旬に認定について知った後も彼女は「指導力不足教員」の判定を山影さんに一言も告げず、ただ山影さんを観察していたのだった。
 「最初、M教員(問題教師)なのかと思ったが、どこにも問題がない」とB高校の校長は語ったという。
 かつての校長は山影さんを異動させたあと、定年退職して警察学校に再就職。その後はわれ関せずといった状態だ。


 密室の中の人事異動

 二〇〇二年一月十一日、地方教育行政法の一部改正(児童・生徒に対する指導が不適切な市町村小・中学校等の教員に関する転職措置の創設)が施行された。
 文部科学省はそれに先立ち、二〇〇一年八月二九日に「施行通知」を都道府県教育委員会と、指定都市の教育委員会に通達したが、その中で「指導力不足教員」の判定基準として、次の三項目を提示している。
 @教科に関する専門的知識・技術などが不足しているため学習指導を適切に行うことができない場合、A授業内容を板書するだけで、子どもの質問を受け付けないなど、生徒の指導方法が不適切であるため、学習指導を適切に行えない場合、B児童・生徒の意見をまったく聞かず、対話もしないなど、児童・生徒の心を理解する能力や意欲に欠け、学級経営や生徒指導を適切に行うことが出来ない場合、という三点だ。
 二〇〇二年度にこのシステムを導入して指導力不足教員の認定を行った自治体は、北海道、宮城県、埼玉県、東京都、京都府、大阪府、広島県など、二十三。「指導力不足教員」として認定された教員は、全国で二八九人(文部科学省調査)。なかでも神奈川県は最も多く五十一人が認定されている。
 神奈川県教育委員会では平成十二年度に「指導力不足教員などへの指導の手引き」を作成。教員について県立学校長と市町村教育委員会に手引きにそった対応をするように依頼している。
 課題を有する教員がいる場合は、本人や関係者から事情を聞くなどして、課題の原因を分析し、早急に解決を図るとしている。校長は意見を聴取しながら、教頭や主任教諭と改善点などの指導体制を作り、指導の記録や本人の変化についての記録を残すことが必要であると、手引きには明記されている。しかし山影さんの場合は、かげでこっそり「指導力不足教員」とレッテルをはり、その具体的措置として、他校への異動を強制していたのである。
 課題を有する教員の問題が改善されない場合、校長が県の教育委員会へ報告する。神奈川県の場合、医師や弁護士、有識者や教育委員会の職員などで構成する判定委員会で問題を討議することになっている。
 山影さんは一年間もまったく判定を知らされていなかったばかりか、話し合いも十分にできないまま望まない土地への異動が決定、辞令が下りたのである。


 心身の疲労でついに入院
 
 山影さんは異動して勤務していたが、腰痛や精神的な疲労が重なり、ついに二〇〇二年八月、入院してしまう。
 神奈川県条例によると、四五歳以上、そして一五年間以上勤めている教員には、退職金を割り増しする条件で、ここ七、八年退職勧奨が行なわれていた。通常では転勤希望を募るとき、同時に退職勧奨の文書が配られ、希望者は申し出る方法をとっている。
 山影さんは判定を知らされないまま、入院自宅療養中に校長から退職勧奨を何度も受けた。体調のもどりつつあった山影さんは医師と相談。退職勧奨は拒否している。
 二〇〇二年九月末、十一月頃に復帰したいと校長に申し入れたところ「これから年度末で一番忙しくなり大変な時期だから、無理をしないでゆっくり休むように」と説得されたという。そのために校長は遠い所をわざわざ来院して、医師にも面会。学校の忙しく困難な状況を説明して、来年の三月までゆっくり療養して学校を休むように説得した。その結果、入院を一二月まで伸ばすことになってしまったのである。
 教員が休む場合、三ヵ月以内なら療養休暇になるが、それを過ぎると休職扱いになってしまう。療養休暇として休んでいれば診断書がなくても、本人の希望で翌日からでも復職できる。休職扱いの場合は、県の審査会をパスしないと復職できなくなる。そのため、山影さんには不安が募ってきた。
 もちろん山影さんは、この段階では自分が「指導力不足教員」の判定を受けていることを知らされていない。
 そして二〇〇三年三月末、山影さんは復職したのだが、県の指定医療機関の健康審査会の判断により、七時間の軽勤務にされている。軽勤務が可能であるならば、当然十一月からの復帰も考えられたはずなのに、なぜかそうした説明は一切なかったという。
 山影さんは退職勧奨や、勤務を休むことをしきりに勧められたことから人事に疑問を持つようになった。
 神奈川県では個人情報保護条例に「自己情報の開示請求」が規定されている。それを利用して情報の開示請求を行い、知らない間に「指導力不足教員」の判定を受けていた経過を調べ始めた山影さんに、新たな事実が見えてきたのだった。


 判定が二年目に突入した理由

 現任校の校長は三学期も続けて休むように、しきりに入院中の山影さんに勧めている。しかし県の教育委員会に対して報告していたのは「去年の四月から八月に休むまで、全然問題がなかった。このまま一年がすぎれば、指導力不足教員の判定を解除できると思っていた。ところが長く休んでしまったので、二学期・三学期と観察できず、解除できなくなった」というもの。
 しかし校長は本人の復帰希望を抑えて療養継続を説得、それを理由に二年目の判定に持ち込んだのである。その資料を見た瞬間、「管理職と教育委員会にはめられた!と思いました」と山影さんは当時を振り返る。
 二〇〇三年三月十一日に突然「指導力不足教員」と通告されたのは、一年が過ぎ、三月十七日に「指導力不足教員等の判定会」を控え、二十五日には復職審査もあるため隠しきれないと思ったからではないか。あるいは直前に通告して動揺させることを狙ったのでは、と山影さんは推測している。
 それに加えて、開示請求によって見えてきた事実がもう一つ。それは、二〇〇二年に「指導力不足教員」の判定を受けた時、その具体的措置が他校への異動だったということ。これは、本人に対してもまったく説得力を欠くため、「指導力不足教員」判定の事実を伏せるほかなかった。それで一年間の放置という事態につながったと思われる。


「指導力不足教員」という判定の曖昧さ

 いったい山影さんはどうして「指導力不足教員」のレッテルをはられたのだろうか?
 この判定を始めて受けた当時の山影さんは、職場で教員組合の役員をしていた。管理職が教育委員会に提出した職員会議のメモを見ると、山影さんは現場の役員として発言も活発であり、管理職にとってはいわば「目の上のこぶ」的存在であったことがうかがわれる。そうしたことが、今回の指導力不足教員という判定に関係があるかもしれないと、山影さんは推察する。
 公平であるべき判定が一年以上も隠されて、そのことが管理職の中で黙認されていたことからも、山影さんに「指導力不足教員」のレッテルをはることに対する後ろめたさが管理職の心中にあったことが窺われる。


 教員の評価は誰がどう行う?
 
 東京都では平成十二年度から教員の五段階評価制度を全国に先駆けておこない、「能力」「実績」「意欲」の三つの評価項目で評価する。校長などによる業績評価や自己目標の達成度申告、各教育委員会の相対評価などで、人事や給与が決定されている。
 神奈川県もこの新しい人事考課システムを今年の四月から導入。こうした新しい人事システムと、「指導力不足教員」の人事管理システムは、問題のある不適切な教員を排除するだけではなく、やる気のある教員まで管理体制の中に封じ込め、意見が言いづらくなる、あるいは排除される危険性をはらんでいるのではなかろうか。もちろん管理職側も管理体制に組み込まれているのは同様である。
 山影さんの場合は、面倒なことは避けたい管理職側の事なかれ主義の結果として、弁明の機会も与えられず放置され、意にそぐわぬ異動で二重、三重の不適切な扱いを受けた。
 管理職権限の増大がもたらす弊害をより少なくするためにも、出来るだけ明確な判定基準を定めることがこれから何よりも必要となってくるだろう。
 セクハラや体罰などで問題になっている教員も多いが、そうした問題がある教員とともに、問題のない教員まで、「はっきりものをいう」「なっとくのできないことは言挙げする」という理由から排除の対象になる現実が進行している。
 職員会議なども管理職からの一方的な「通達」になり「物言えば唇さむし」という教員が増えているのだ。
 山影さんは無事復職が決定したが、今でも「指導力不足教員」の話が持ち出されると、動悸や息苦しさなどの心身反応が起こる。 全国で山影さんのような目にあっている教員は少なからずいるのではなかろうか。
 教育行政を公平な立場で見つめるためにも、管理職と教員双方の意見を調整する、教育オンブズマンの立ち上げも提案したい。
 漱石の研究家でもある山影さんは今年五月出版した「漱石異説『坊っちゃん』連想」(武蔵野書房)のあとがきの中でも触れ、「次回は『坊っちゃんは、実は指導力不足教員だった』という本を出そうかと企画しています」と笑う。
 体調はまだ優れないそうだが、真相究明のためには法的手段も考えながら取り組む覚悟だという。






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