山影冬彦の漱石異説な世界・資料篇

                                  

夫婦で語る『こゝろ』の謎



  3、漱石 山歩き 『文学論』を片手に

         (『江古田文学48、特集夏目漱石』掲載文の転用)

 足ならし 

 漱石山脈という言葉がある。漱石から影響を受けた数多くの文学者を指しているらし
い。私が歩こうとするのは、そうした漱石山脈ではない。漱石一人に限る。

 漱石一人が既に大きな山塊だろう。漱石全集を手にする折、常にそれを実感する。それ
は、幾つもの峰を持ち、尾根や谷の変化に富み、様々な樹林に覆われ、牧場や花畑が広が
り、沼湖・湿原・沢を抱く。どこをどのように歩いてどう楽しむか、歩く者の随意だ。私
も好き勝手に歩いてきた。ただし、隅から隅まで歩き通せたわけではない。未踏破地帯の
方がむしろ多い。死ぬまでに全てを踏破して、その全容に迫りたいと念じている。

 現在でも漱石人気は衰えることを知らない。解説書や評論の類も毎年数多く出版されて
いる。それらは、散策者にとっての、歩きやすく踏み固められた径であったり、道案内書
であったり、峰まで一気に駆け昇るロープウエイやケーブルカーであったりする。

 私もそれらの便宜手段を時には利用するが、凭れかからないように用心する。目立たぬ
小石や草木が思いがけぬ道しるべとなるかもしれない。それを楽しみに実地に自身の足で
歩き目で確かめること、そのために足腰や眼力の鍛練を欠かさぬことを、散策の基本とす
る。踏み固められた径に慣れてくれば、時には径なき空間に踏み込む大胆をも発揮した
い。目立たぬ小石や草木を道しるべにした大胆の発揮で、稀には未踏の散策路に到達でき
るかもしれない。むろん、試みの多くは落胆に終わる。遭難の危険もなくはない。

 事は、漱石自身の文学姿勢に関わる。それは、講演「私の個人主義」で表明された自己
本位の立場を指す。文学作品理解については、権威ある他人の説に追従したり、鵜呑みの
形で借用したりするのではなく、あくまで自身が感じた印象に忠実であるべきこと、その
ためには自身の中に確固たる評価基準を備えていなければならないこと、これである。漱
石山を歩く時、漱石の自己本位の姿勢を常に私自身の姿勢として保ちたい。とはいえ、私
自身には漱石程の確固たる評価基準は望むべくもない。私の自己本位は甚だ心許ない。そ
こで、この不安を補う方便として漱石自身の評価基準を拝借することに決めている。

 漱石自身の評価基準とは何か。それは様々な評論の中で述べられているが、おおよそは
『文学論』に集約されている。漱石作品群を理解するのに漱石自身の『文学論』を道案内
に使用する。有名研究者による漱石解説書が数多く出回る中で、道案内としてはやはり漱
石本人の『文学論』が一番頼りになる。いわば漱石本位の散策術といえようか。

 漱石本位とはいえ、この散策術は、所詮は他人に外ならない漱石の評価基準を借用する
一点において、自己本位の姿勢に反する。しかし他面、自己本位といいうる側面もある。
というのも、漱石評者による議論が百出する中、『文学論』を漱石作品理解に援用しよう
という姿勢は、存外見受けられないからである。『文学論』は、のっけから「凡そ文学的
内容の形式は(F+f)なることを要す」で始まり、読者の度胆を抜く。こんなものは漱
石小説群を読み解く上では無用の長物であるといった決めつけが、多くの漱石評者に共通
しているように思われる。その『文学論』を頼りとする私の散策術は、多くの漱石評者に
対しては独自性があって、その限りで自己本位的であると言えなくもなかろう。

 『文学論』は分厚い上に難解で、重い。それを片手に漱石山をうろつくとは、正気の沙
汰でない。遭難必至の自殺行為に等しい。そう思われる方も多いに違いない。それでも、
『文学論』を片手に藪の中に思わぬ小径発見の悦びにひたった体験を持っている。といっ
ても、私が自己本位の姿勢を維持できそうな経路は、目下は三つの径にすぎない。三つの
径は各々枝分かれしているが、その委細はかまわず、大雑把に本筋だけを紹介しよう。



『坊つちやん』ガ岳へ

 径の一つは、『坊つちやん』に関わる。この作品は、愛読者が多いにもかかわらず、漱
石研究者の間で長い間児童書扱いされて等閑に付されてきた。それが近年研究者の間で悲
劇の書として盛んに論じられるようになった。論じられること自体に異論はないが、私の
実感としては悲劇の書として読むことは到底できない。常に笑い転げて読んでいる。

 その理由の最たるものは坊つちやんが先祖と誇る多田の満仲にある。多田の満仲が道標
となる。坊つちやんは二度にわたって多田の満仲の子孫であることを誇り、窮地に陥った
自己を支えようとしている。その多田の満仲とは、清和源氏の元祖格にあたる平安期の武
将で、確かに武家社会の権威の頂点に立つ人物に違いないが、他面では、菓子の饅頭が普
及しだした江戸期に入ると、同音故に「只の饅頭」と洒落て語られるようになった人物で
もある。この洒落は、江戸期に流行した小咄・川柳・狂歌で数多く用いられている。

 つまり、坊つちやんは多田の満仲の権威にすがったが、この洒落によって「只の饅頭」
の所に転落してしまった。しかも、その転落に気づかない。全く滑稽な話である。

 滑稽なのはそれだけではない。洒落の中身とは別に、洒落を洒落とは気づかずに言う無
自覚的姿勢それ自体もまた滑稽だろう。この点を特筆して明らかにした記述が、実は漱石
の『文学論』にある。それは、「滑稽的聯想」にいう「無意識的洒落」理論である。坊つ
ちやんの無自覚な構図は、学者漱石が『文学論』において築き上げた自家特製の「無意識
的洒落」理論を、作家漱石として創作の中に実地に応用してみせた見事な作例だった。

 そもそも『文学論』と並行して漱石は『坊つちやん』を執筆した。『文学論』の諸理論
を創作中の『坊つちやん』に実地に応用するのは当然といえよう。その意味で、『文学 
論』は『坊つちやん』に対しては道案内書として特に役立つ関係にあると断言しうる。

 私の散策体験では、『文学論』を道案内書に使うことで、『坊つちやん』の喜劇性を浮
き彫りにすることができた。このような私の散策体験は、既に1994年刊の拙著『漱石
異説二題……「坊つちやん」抱腹・「道草」徘徊……』(彩流社)において公にしておい
た。更には、1998年刊の拙著『漱石異説『坊つちやん』見落……『漱石研究』落選 
集』(武蔵野書房)においても補強して述べておいた。詳しくは両著を参照されたい。

 なお、『文学論』を道案内書に使えば『坊つちやん』の喜劇性を浮き彫りにすることが
できるのは、多田の満仲と只の饅頭との洒落に関わる「無意識的洒落」理論の点だけでは
ない。他に数点同様のことを指摘できるのだが、紙幅の都合上ここでは紹介を省く。詳し
くはこれも『漱石異説『坊つちやん』見落……『漱石研究』落選集』を参照されたい。



『道草』ガ辻へ


 三つの径のうちのもう一つは、『道草』に関わる。この作品は、漱石評者の間では漱石
には珍しい自然主義派風の自伝的小説と見なされている。確かに漱石に重なる主人公健三
は、養父・家族・親戚・姻戚関係の世俗的日常的しがらみに煩わされ、そのしがらみから
常に金銭問題にも悩まされる男として描かれている。評者の関心はその点に注がれ、健三
の悩みは家庭人・生活人としての世俗的日常的苦悩と捉えられがちになる。

 ところが、健三は「心の底に異様の熱塊」を持って「遠い所から帰って来」た男でもあ
った。「異様の熱塊」が道標となる。「異様の熱塊」とは『道草』執筆半年前の「私の個
人主義」で言う自己本位の思想に相当する。「遠い所」は留学先のロンドンを意味する。
健三の帰国当初「異様の熱塊」(自己本位)は「細かいノート」(『文学論』)に確かに
注がれていた。その取組み振りが次第に怪しくなってきた。それと共に健三は苛立ち、狂
態を演ずるようにもなる。健三は文学的な行き詰りに起因する悩みをも持つに到った。こ
の知識人としての悩みの方が健三にとっての本質的な悩みだと私はにらむ。

 講演「私の個人主義」においては、漱石はロンドンで文学とは何かと悩み抜いた末につ
いに自己本位という思想的立場を獲得し、この思想的立場を確実にすべく『文学論』に着
手することを思い立ったと述べていた。その上で、この自己体験に関して、比喩を用いて
「自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がした」と感動的に語ってもいた。つ
まり、自己本位が「鶴嘴」に、『文学論』が「鉱脈」に、それぞれ譬えられていた。

 その『文学論』という「鉱脈」が涸れつつある状況が『道草』では出現している。新た
な「鉱脈」が必須となる。それが創作にほかならない。事実、健三が創作に取り組む場面
は、不愉快地獄に苦しむ健三が唯一面白みを感じるものとして描かれている。自己本位と
いう「鶴嘴」が打ち降ろされる「鉱脈」は、『文学論』の学究的活動から、『吾輩は猫で
ある』や『坊つちやん』等の創作活動へと移る趨勢にあると考えられる。

 では、『文学論』は「鉱脈」として涸れたままなのだろうか。否だろう。『文学論』と
いう「鉱脈」からは既に高品質の鉱石が産出されていた。それは、「鶴嘴」としての自己
本位に理論的根拠を与えることで、より強力な「鶴嘴」として蘇りうるものだった。

 『文学論』は「鉱脈」から「鶴嘴」へと進化しつつある。その進化に呼応して、自己本
位が注がれる対象が、『文学論』の学究的活動から『坊つちやん』等の創作活動へと移行
しつつあること、これが私の理解する『道草』の世界の趨勢である。ただし、その移行は
容易には進まない。家庭人・生活人としての世俗的日常的苦悩も手伝って、健三には逡巡
が見られる。その意味で健三は道草を食っている。『道草』という題意もそこにある。

 このように私の『道草』理解の鍵は、『文学論』の位置づけ方にある。『坊つちやん』
に対する場合のように個々の理論的記述がどうのこうのという形ではなく、いわば著作総
体としてだが、主人公がその執筆に悩み苦しんでいる以上、『文学論』をどう性格づける
かは『道草』理解に欠かすべからざる視点を構成するのではないかと思われる。

 なお、私の『道草』歩きに関しても、詳しくは前掲の『漱石異説二題……「坊つちや 
ん」抱腹・「道草」徘徊……』を参照されたい。また、NHK高校講座「現代文」中の 
「私の個人主義」に関して、その解説文等に資料を全面的に提供しているので、参照され
たい。



『こゝろ』ガ淵へ

  三つの径の最後は、『こゝろ』に関わる。この作品に関しては、先生の自裁理由が
議論の焦点となっている。先生の自裁理由は「明治の精神」への「殉死」だが、これにつ
いては、評者の間で賛否両論等いろいろある。いろいろある中で、しかし、この自裁理由
は眉唾ものだという疑問はほとんどない。例外的にその疑問を提出したのが、松元 寛 
『漱石の実験』(朝文社)中の「『こゝろ』論」である。偽物とまでは言い切っていない
が、他に別の自裁理由があるとしている。この先行した松元説に輪をかけて、「明治の精
神」への「殉死」という自裁理由は偽物だと言い切ったのが、後続の私の説である。

 私の解釈では、先生が示した自裁理由は、他にある真の自裁理由を、遺書の受取人の青
年から隠すために設えられたもので、偽装理由だということになる。真の自裁理由とは、
当の青年に遺書を残すために、に外ならない。早い話、先生は青年のために自裁したのだ
と解釈する。この真実は青年に対して告げることができる性質のものではない。だからこ
そ先生は、青年に対して「明治の精神」への「殉死」という偽装理由を示す必要があった
のだと考える。この解釈が成り立つ根拠については、論証手続きが複雑で簡略には記しが
たい。ここでは二重の意味をもつ「適当の時機」が道標となると記すにとどめて、詳しく
は拙著『漱石異説『こゝろ』反証』(武蔵野書房)を参照されたい。

 このように私の『こゝろ』散策は、『坊つちやん』や『道草』の場合と同様、一風変わ
った経路を辿っている。では、その風変わりな『こゝろ』散策において、『文学論』はど
ういう役割を果たしたのか。実は、『漱石異説『こゝろ』反証』において「明治の精神」
への「殉死」という自裁理由は偽装理由であると論証しようとした折、私は『文学論』に
論拠を求めなかった。求めなかったのは、基本的にはその必要性を感じなかったからで、
求めようと試みて求めえなかったわけではない。それに、『文学論』にその論拠があるな
どとは思いも寄らないことで、求めようと思い立ちもしなかったからである。

 これは迂闊だった。拙著出版後、別の用件のため『文学論』を再読していた折、『こゝ
ろ』に関する偽装理由説の論拠となりうる記述をそこに見出して、私は吃驚した。しまっ
たとも思った。私のよくやる見落としである。拙著執筆の折、念のために『文学論』を調
べておけば、私の説を支える有力な証言を漱石自身から引き出すことが出来て、自説を補
強する上で絶好の材料となしえたのにと、さかんに悔んだが、後の祭だった。

 以来、悔み続けたまま、私には該当の記述について言及する機会がなかった。文章発表
の手蔓を欠く私に珍しく原稿依頼が「江古田文学」よりあった。そこで、この好機をとら
え、『文学論』を片手にした『こゝろ』散策の実例として新規開陳することにしたい。

 以下に引用する個所は、『文学論』「第一編 文学的内容の分類」「第三章 文学的内
容の分類及びその価値的等級」にあり、「1)感覚F、2)人事F、3)超自然F、4)知識F」
中、「人事F」に関して述べたものである。


  次に第二種の人事的材料を見るに、先づ人に伴なうて活動する実劇と、活人より切り
  離されたる人事上の議論と、何れが吾人の心に触るゝこと強大なるかは論ずるを待た
  ず、千百の恋愛論は遂に若き男女の交はす一瞥の一刹那を叙したる小説の一頁に及ば
  ざること明らかなり。世に一美婦に悩殺せられ、苦悶の極、自殺を計るは珍らしから
  ねど、「愛」なる抽象的性質を熟考して狂へるものは古往今来未だ聞かざるところな
  り。親の為に川竹に身を沈め、君侯の馬前に命をすつるは左迄難きことにあらず、親
  は具体的動物にして、君侯は耳目を具有し活動する一個人なるを以てなり。されども
  身を以て国に殉ずと云ふに至りては其真意甚だ疑はし。国は其具体の度に於て個人に
  劣ること遠し。これに一身を献ずるは余りに漠然たり。抽象の性質に一命を賭するは
  容易のことにあらず。若しありとせば独相撲に打ち殺さるゝと一般なり。故に所謂か
  く称する人々は其実此抽象的情緒に死するにあらず、其裏面に必ず躍如たる具体的目
  的物を樹立し、これに向つて進み居るものとす。されども此殺人的独相撲の連中全く
  無しとは云ひ難し。所謂天命を楽しむ君子は此抽象的変梃子物に情緒を有する人々な
  り。道の為に倒るとは、道の何物たるを意識することなくして、これに情緒を附加す
  る大丈夫なり。かの禅門の豪傑知識、諸縁を放下し専一に己事を究明し、一向専念、
  勇猛精進、行住坐臥、何をか求むると云へば彼等未だかつて見聞せざる底の法を求め
  しかも遂に捕へ能はざる的の道なり。覚らざるに先だち彼等に法のあるべき理なく又
  道の行はるべき理なし。然るに此不可思議の法と道とのため、其一生を抛つて顧ず、
  真個、是れ龍頷虎頭の怪物にして尋常一般の人間にあらず。既に一般人間に非ざる以
  上は彼等は、よろしく除外例として遇すべきなり。故にfはFの具体の度に正比例す
  るなる事実は依然として事実なりとす。
              (岩波・新書判『漱石全集』第十八巻 80〜81頁)


 ここでの漱石の論旨は明快だろう。即ち、「所謂天命を楽しむ君子」は除き、「尋常一
般の人間」は、「具体的動物」である「親」や「耳目を具有し活動する一個人」である 
「君侯」のために命を棄てることはあっても、「国」のような「抽象の性質に一命を賭す
るは容易のことにあらず」、それは「独相撲に打ち殺さるゝ」程に困難なことだ、と。

 『こゝろ』の先生は、「明治の精神」に「殉死」すると言い残して自裁した。その「明
治の精神」とは、「具体的動物」や「耳目を具有し活動する一個人」では全くなく、「抽
象の性質」に外ならない。この「抽象の性質に一命を賭するは容易のことにあらず。若し
ありとせば独相撲に打ち殺さるゝと一般なり」とは、漱石の明言するところだった。

 それでは、『こゝろ』の先生は、「抽象的変梃子物に情緒を有する」類の「天命を楽し
む君子」であって「除外例として遇すべき」だろうか。否に違いない。そのような「君 
子」ならば、下宿先のお嬢さんに惚れるようなことはないし、彼女をめぐって親友Kと争
い、彼を自裁に追いやるようなこともしないに違いない。先生は「尋常一般の人間」とし
て描かれている。その点、「抽象的変梃子物に情緒を有する」類の「天命を楽しむ君子」
に近いのは、「道」を求めつつあった時のKだろう。そのKでさえお嬢さんに「悩殺せら
れ」た結果、親友の先生に裏切られたこともあって、自ら命を断つに到ったのだろう。

 『こゝろ』の先生は「尋常一般の人間」としてある。「明治の精神」は「抽象の性質」
としてある。それ故、先生が「明治の精神」に「殉死」するというのは、『文学論』での
「抽象の性質に一命を賭するは容易のことにあらず」という漱石の明言をもって判断すれ
ば、ほとんどありえないことになる。とにかく、『こゝろ』の先生の自裁理由は『文学 
論』での漱石の明言と辻褄が合わないこと甚だしい。辻褄が合わない程度は、一方が真な
ら他方は偽の如しという程だろう。

 漱石においてこれ程辻褄が合わない事態が生じたのは、なぜか。忘却でもしたのか。先
に見た『文学論』と『坊つちやん』との同時並行の関係とは異なり、『文学論』と『こゝ
ろ』の間には十年弱の開きがある。この歳月がかつての『文学論』での明言を漱石に忘れ
させたのだろうか。それはありえまい。この明言は、「fはFの具体の度に正比例する」
という『文学論』の中でも最も基本的な命題を、確信をもって例解したものに外ならな
い。その忘却は、『文学論』そのものの忘却に等しい。

 忘却どころか、それを念頭において、漱石は『こゝろ』を執筆した形跡がある。その証
拠となるものは、先に引用した、「かの禅門の豪傑知識、諸縁を放下し専一に己事を究明
し、一向専念、勇猛精進、行住坐臥、何をか求むると云へば彼等未だかつて見聞せざる底
の法を求め、しかも遂に捕へ能はざる的の道なり。覚らざるに先だち彼等に法のあるべき
理なく又道の行はるべき理なし。然るに此不可思議の法と道とのため、其一生を抛つて顧
ず、真個、是龍頷虎頭の怪物にして尋常一般の人間にあらず」という「君子」像である。
この「君子」像は、お嬢さんに「悩殺せられ」る以前のKを彷彿させる。『こゝろ』のK
の原型は『文学論』にあったといえよう。この点からしても忘却説は採りがたい。

 『こゝろ』の先生の自裁理由と『文学論』での漱石の明言とが辻褄が合わないのは、辻
褄が合わない程度が真と偽の関係だという点に着目すれば、容易に説明がつく。即ち、漱
石によって、一方は真として、他方は偽として作られたのだと考えれば、辻褄が合う。

 では、どちらが真で、どちらが偽か。『文学論』は学術書であり、そこでの明言には著
者として敢えて偽とする事情は全く考えられない。これに対して、『こゝろ』は小説であ
り、拙著で詳述した通り、筋書き上先生の自裁理由には作者として偽とする事情が大いに
ある。偽は『こゝろ』の先生の自裁理由と判定しうる。以下、漱石に則して推測する。

 『こゝろ』には先生は遺書を残す青年に自裁の本当の理由を記すことができないという
設定があり、作者としては偽りの自裁理由を作る必要があった。それは、一見もっともに
聞こえはするものの、読者が冷静に考えれば眉唾ものと見抜くことができるような性質の
ものでなければならない。「明治の精神」への「殉死」という自裁理由ならば、その条件
を満たす。それは、乃木大将による明治天皇への殉死という社会的事象に絡んでいるから
一見もっともに聞こえはするが、冷静に考えれば、そのような「抽象の性質」に「尋常一
般の人間」が「殉死」することなどありえない、これが真理なのだから。このように『文
学論』での明言を論拠にして、漱石は、『こゝろ』の読者が先生の示す自裁理由を真に受
けないようにする工夫をこらしたつもりだったのだろう。この工夫の中には作者として次
のような期待もこめられていたと思われる。すなわち、『こゝろ』の読者が、先生は「明
治の精神」の如き「抽象的情緒に死するにあらず、其裏面に必ず躍如たる具体的目的物を
樹立し、これに向つて進み居るもの」と推測した上で、先生が「樹立し」た「躍如たる具
体的目的物」とは遺書を受け取る青年に外ならないと見抜くに相違ない、と。

 以上のように辻褄が合わないこと真と偽の如しという点に着目しつつ漱石に則して考え
れば、『こゝろ』の先生の自裁理由と『文学論』での漱石の明言とが辻褄が合わないこと
の疑問は、一気に氷解する。漱石が『こゝろ』の先生をして「明治の精神」に「殉死」す
ると言わせた時、『文学論』での明言を忘却してはいなかった。その逆に、『文学論』で
の明言を不動の真理として念頭におきつつ、それを漱石は「明治の精神」への「殉死」と
いう自裁理由を偽装理由として創作する際の論拠として用いたのだと考えられる。

 このように、『文学論』での漱石のこの明言は、「明治の精神」に「殉死」するという
『こゝろ』の先生の自裁理由に対して、そのようなことはありえないことだと真っ向から
疑念を呈するものだった。漱石自身が証言台に進み出て、「明治の精神」への「殉死」と
いう自裁理由は偽装だったということを証言しているとしてよかろう。漱石本人によるこ
のように有力な証言が『文学論』にあったということに、『漱石異説『こゝろ』反証』執
筆時点での私は迂闊にも気づかなかった。漱石自身の証言を先生の自裁理由は偽装なりと
する自説の補強のために援用しえなかった不手際を、私が深く後悔する所以である。

 とはいえ、『文学論』でのこの明言に気づかぬことはいかにも迂闊だったにせよ、私は
『漱石異説『こゝろ』反証』において、漱石に頼らず自力でこう記してもいた。


  とにかく、「先生」は、「明治の精神」の実体を示すことなく、これへの「殉死」
  という理由を挙げて、自裁してしまった。しかし、「明治の精神」という実体のあや
  ふやな観念に「殉死」するなどということが、本当にありうることなのであろうか。
  人が己れの命を断つ時、こんなあやふやな観念に殉ずるというようなことがあるので
  あろうか。衝動的・病的・狂信的・集団激情的自殺であるならば、あるいはそうした
  こともありうるかもしれない。しかし、「先生」の場合は、何年も熟慮した挙げ句の
  その意味では極めて理性的な自裁だったのである。こんな実体のない「明治の精神」
  への「殉死」などという観念的理由が自裁の理由でありうるとは、甚だ考えにくい事
  柄である。
   このように「先生」自身が掲げる「明治の精神」への「殉死」理由は、冷静な「先
  生」の自裁理由としては、余りに実体のない空疎な観念であるといわざるをえない。
  「先生」自裁の理由としては「明治の精神」への「殉死」理由は説得力や信憑性に欠
  けるという議論が起こるのも、基本的には「明治の精神」というこの言葉の実体のな
  い空疎な観念性という点に起因するといえよう。       (79〜80頁)


 使っている言葉に「抽象の性質」(漱石)と「観念的」(私)というふうな違いこそあ
れ、文意は漱石のそれと私のそれとは一致する。期せずして『文学論』での漱石の明言と
私の言説とが合致した格好である。私の判断力も満更でもなかったと、何か勇気づけられ
た気がする。漱石散策の楽しみの一つでもあろうか。

 目立たぬ小石や草木を道標に見立てての、『文学論』を片手にした漱石山のぶらぶら歩
きは、以上で終わる。漱石は、一筋縄では行かない臍曲がりなところがいい。擱筆するに
あたり、漱石に学びてやがて一里塚、という感慨が生じたが、傍から見れば、漱石に転び
やがって藪の中、だったかもしれぬ。            2001年6月15日

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